第25話:逆転した財布
「生産効率、推計1200%アップ。……原価率はもはや誤差の範囲ですわ」
「設備投資はもう回収したね。後は売れば売るだけ儲けになる」
「ええ。他にも徹底した技術秘匿の効果も凄まじいですわ。
技術の核心を秘匿したまま、製品だけを普及させる。……競合がいないから市場は独占状態ですわね」
「万が一製造方法が漏れたとしても、もう後出の業者は価格競争で圧倒できる。盤石だ」
「……次は貴族街。香りでもつけて富裕層向けの『プレミアム洗剤』として売り出せば、利益率はさらに跳ね上がりますわ」
リビングのテーブルで、マシロとロッテが向かい合い、何やら難しい顔で話し込んでいる。
「…………」
私はソファの隅で膝を抱え、その光景をぼんやりと眺めていた。
二人の間には、誰も入り込めない空気がある。
(……ロッテはすごいなぁ)
アリサは小さく息を吐いた。
ロッテが帳簿を片手に、恐ろしい速さで計算を弾き出している。
飛び交う単語は、市場独占、利益率、設備投資。
私にはさっぱり分からない単語ばかりだ。
彼女たちが話しているのは財布の中身の話ではない。国家予算とか、きっとそういうレベルの話だ。
アリサは自分の腰に手を当てた。
そこには、ずっしりとした重みの革袋がある。
中に入っているのは、今月の給料だ。
警備隊の隊長としての手当。金貨3枚。
これは決して少ない額ではない。
一般兵士の数倍はあるし、王都の平均的な家族が三ヶ月は暮らせる額だ。
アリサは騎士試験に合格してから数ヶ月、誇りを持っていた。
自分は稼げる女だ。男一人くらい、余裕で養えるだけの甲斐性があるのだと。
実際、王都に来た当初はそうだった。
無一文のマシロにご飯を食べさせ、実験道具を買ってあげた。
彼が「ありがとう、アリサはすごいね」と笑ってくれるのが嬉しかった。
私が彼を守っている。私が彼を生かしている。
その事実が、アリサの自尊心を満たしていた。
けれど、今はどうだ?
「……ロッテ、今月の売上予測って……」
「低く見積もって、金貨800枚かしらね」
金貨、800枚。
私の年収の、何十年分にあたるのだろう。
それを、この少年はたった一ヶ月で稼ぎ出すというのか。
(私は……何なの?)
ドス黒い感情が胸の中で渦巻いた。
惨めだった。
養う? 守る?
笑わせるな。今のマシロにとって、私はただの「貧乏な護衛」でしかないじゃないか。
「……アリサ? どうかした?」
不意に、マシロが振り返った。
純粋な、心配そうな瞳。
「……なんでもない。散歩に行ってくる」
アリサは逃げるように、その場を離れた。
この家だって、彼が借り上げた豪邸だ。
†
その日の夕方。
せめて日常の中では、私が彼をリードしていたかった。
「おっ、隊長に坊主! また来たな! 今日はいい子羊が入ってるぜ!」
顔なじみの店主が、威勢よく声をかけてくる。
食べ頃の大きさの子羊だ。まだ生きていて、柵の中に入れられている。
家畜を育てやすい田舎ならともかく、王都だと庶民には手が出せない高級品だ。
アリサは心の中で計算する。
(……金貨1枚か。値切れば銀貨40枚。ちょっと痛いけど、マシロが喜ぶなら)
彼女は革袋の紐を解きかけた。
その時だった。
「おじさん、それ5頭全部ください」
「へ?」
マシロが、まるで野菜でも買うような気軽さで言った。
全部?
あの高級肉を?
店主も目を白黒させている。
「坊主。これ全部だと、金貨5枚くらいにはなるぜ」
マシロは懐から革袋を取り出した。
アリサの持っている使い込まれた革袋とは違う。上質な皮で作られた、膨れ上がった袋だ。
彼がそれをカウンターに置くと、ジャラリッ、と重厚な金属音が響いた。
「生きたまま仕入れてくれるのはここだけですからね、お金は惜しみませんよ。警備隊の人たちにお裾分けします」
袋の口から溢れ出たのは、夕日を反射してギラギラと輝く本物の金貨の山だ。
一枚一枚が、王家の紋章が刻まれた正貨。
それが、まるで小石のようにゴロゴロと入っている。
「へへ、坊主ならそう言ってくれると思ったぜ! 今後もご贔屓にな!」
アリサは自分の手の中にある財布を、そっと握りしめた。
その中には、数枚の金貨。
さっきまで「今日は奮発しよう」と思っていた自分が、たまらなく滑稽だった。
(……勝てない)
圧倒的な敗北感。
私が一日中駆けずり回って稼いだ金が、マシロにとっての1回の買い物代にも満たない。
そう思った瞬間、吐き気がした。
「アリサ? 荷物、俺が持つよ」
「……いい。私が持つ」
アリサは頑なに拒否して、巨大な肉の包みをひったくった。
せめて、力仕事くらいはさせてくれ。
そうでもしないと、私は本当に「ただ飯を食わせてもらっているペット」になってしまう。
帰り道、二人の会話は少なかった。
「ねえアリサ、今日買ったお肉だけど、ステーキにしようか! 市場ですごくいい香辛料も手に入ったんだ。一瓶で銀貨20枚もしたんだけど、香りが全然違ってね」
「この前の冷却の実験も成功したよ。これがあれば夏でも冷たい飲み物が飲めるし、アイスクリームっていう氷のお菓子だって作れるかも!」
「あ、そうだ。今度、もっといいベッドを買おうか。王室御用達の工房に知り合いができたんだ。君の疲労回復にもいいやつを特注しようと思って……」
それらの言葉の一つ一つが、アリサのプライドを粉々に砕いていく。
「いいベッドを買おうか」?
なぜ、私が買ってもらう側になっているんだ。
逆だろ。
私が稼いで、私が彼にいい暮らしをさせてやるんじゃなかったのか。
私が彼を守るんじゃなかったのか。
今の私は、守られてすらいない。
ただ、彼の巨大な成功の影で、おこぼれを貰って生きているだけの寄生虫だ。
(……気持ち悪い)
マシロに対してではない。
そんな惨めな自分自身に対して、強烈な嫌悪感がこみ上げてくる。
騎士? 警備隊長?
ちゃんちゃらおかしい。
私その仕事ですら、マシロの発明品のおかげで上手くいってる。
私の実力じゃない。彼のアイテムが優秀なだけだ。
金も稼げない、頭も悪い。
私には、もう何の価値もないじゃないか。
「……アリサ?」
マシロが立ち止まり、心配そうに顔を覗き込んできた。
その瞳に映る、情けない自分の顔。
泣き出しそうな、怒り出しそうな、ぐちゃぐちゃの表情。
「……なんでもない。早く帰ろう」
アリサは顔を背け、早足で歩き出した。
夕日が沈んでいく。
私の小さなプライドと一緒に、暗い闇の中へと消えていくようだった。
†
その夜。
マシロが用意してくれた豪華な夕食を、アリサは砂を噛むような思いで喉に押し込んだ。
美味しいはずだった。
最高級の肉、完璧な火入れ、プロ顔負けの味付け。
けれど、一口食べるたびに、喉の奥がつかえる。
「これはマシロの金だ」「お前が稼いだものじゃない」「お前は施しを受けている」という幻聴が聞こえてくるようだった。
「……ごちそうさま」
逃げるように席を立ち、中庭に出る。
月明かりの下、背中の布袋から『相棒』を取り出した。
これだけは、私だけのものだ。
誰にも買えない、誰にも譲れない、私が積み上げてきた技術の結晶。
彼女が握っているのは、巨大な長柄の棍棒だ。
騎士試験を受けるため、マシロが作ってくれた贈り物。
貧乏で試験用の剣が買えなかった私のため、マシロが森の素材と化学知識だけで生み出した、世界に一つだけの武器。
周囲からは「なんだその木の棒は」と笑われた。けれど、私を騎士にしてくれた大切な宝物。
ブンッ!!
ブンッ!!
空気を無理やり殴りつけるような、重低音が静寂を切り裂く。
しかし、今日の軌道は乱れていた。
迷いが、焦りが、切っ先に現れている。
何度振っても、納得がいかない。
頭の中に、今日一日の光景がフラッシュバックする。
マシロが出した金貨の輝き。ロッテの余裕のある笑顔。
そして、何もできずに立ち尽くしていた自分の姿。
「うあああああああっ!!」
アリサは叫びながら、無茶苦茶に棍棒を振るった。
地面を叩き、芝生をえぐる。
泥が跳ね、マシロが洗ってくれた衣服が汚れていく。
けれど、構うもんか。
私の心の方が、もっと汚れている。
嫉妬。劣等感。無力感。
あんなに大好きだったマシロの成功を、素直に喜べない自分が一番醜い。
「……くそっ……私は……」
息が切れ、膝をつく。
握りしめた棍棒の柄が、汗で滑る。
ここに来た当初は、「私がマシロに恩返しする」と思っていた。
あの時の私は輝いていた。
でも今は?
彼の成功にぶら下がり、彼の金で飯を食い、彼の用意したベッドで眠るのか。
その私が頼りにしているこの武器さえも、彼からの贈り物だ。
全てが、マシロで出来ている。
私自身には、何もない。
それを世間では何と呼ぶ?
「……ヒモ、じゃない」
最悪の言葉が、喉の奥から絞り出された。
涙が溢れた。
悔しくて、情けなくて、どうしようもなくて。
月は冷たく、ただ静かに少女を見下ろしていた。




