第2話:騎士様の部屋に、コロコロ転がり込む
「……ねえ、アリサさん。これ、どういう状況ですの?」
王都の北側に位置する、石造りの古びた兵舎長屋。そのカビ臭い階段を上がりきった三階の一室。
アリサの友人であり、同じ部屋でルーム者をしているロッテは、玄関先に積み上げられた脱ぎっぱなしの服や散乱した道具を器用に避けながら、呆れたような声を上げた。
「どういう状況って……見ての通りよ! マシロが行くところないって言うから、とりあえず連れてきたの!」
「いや、そうじゃなくてですね。……本来なら空いてる予備室に放り込むべきでしょう? なんで隊長と副官の相部屋に連れ込んでますの?」
「だ、だって仕方ないじゃない! あんな『女の園』みたいな一般房にマシロ一人で放り込んだら、朝には骨も残らないわよ!? 私の目の届くここに置くのが一番安全なの!」
「……はぁ。まあ、それは否定しませんけれど」
ロッテは呆れたように溜め息をついた。
確かに、この兵舎は女の園。飢えた狼たちの巣窟だ。マシロのような無防備な獲物を野放しにするのは、自殺行為に等しいだろう。
ロッテは諦めたように肩をすくめ、部屋の隅で麻袋を整理し始めたマシロを盗み見た。
アリサは顔をカッと赤くして、部屋の隅で麻袋を整理し始めたマシロを盗み見た。
マシロは相変わらず、鎖骨が大胆に覗き、肩回りが大きく開いた「田舎の作業着」のままだ。彼が屈んで荷物を取り出すたびに、しなやかな背中のラインや、健康的な白い肌が視界に飛び込んでくる。
もしここが前世の日本なら、男子校に通う健全な男子生徒の部屋に、露出度の高い美少女が「お掃除してあげる♡」と転がり込んできたようなものだ。
アリサの視線は、マシロの無防備な動きに釘付けになっていた。
(……やばい。屈んだ時の、あの腰のライン……細っ。お尻ちっちゃ。あんな無防備な格好で、私の部屋にいるとか……これ、何かの罠?)
アリサの脳内は、騎士としての誇りよりも、思春期の男子のようなドス黒い衝動に支配され始めていた。
「あ、アリサ、ロッテ。そんなところで立ち話してないで座りなよ。……あ、椅子、一個しかないんだな。じゃあ俺、床でいいから」
「マシロ、そのまま座っちゃダメ! そこ、昨日プロテインをこぼして、まだ拭いてない……っ!」
アリサの制止も虚しく、マシロは荷物から持ち手のついた木の筒のようなものを取り出した。
「大丈夫だよアリサ。ほら、これ。俺が試作した『松脂の粘着ローラー』。松脂に油を混ぜて粘着力を調整してあるから、床には張り付かずに汚れだけをキャッチするんだ」
「これ作るの大変だったんだよ。配合比率を間違えるとベトベトになったり、全然くっつかなかったりでさ……」
マシロがローラーを床にあて、コロコロと転がし始める。
その瞬間、アリサの視線は床の汚れなどどうでもよくなり、一点に集中した。
――四つん這いになってローラーをかけるマシロの、お尻だ。
薄い布一枚越しに浮かぶ、丸みを帯びたライン。前後に動くたびに、しなやかに躍動する太ももの裏側。
アリサはゴクリと喉を鳴らし、無意識に身を乗り出した。
(無防備すぎる……! ここが戦場なら、後ろから襲われて即死よ? いや、襲うのは敵じゃなくて私なんだけど。……っていうか、あの体勢、エッッッ……!)
「すごいでしょ、これ。ペタペタって音がして粉が簡単にとれるよ」
「…………」
「アリサ?」
「は、はいっ!? すごいわね、触り心地良さそう!」
嘘だ。ローラーなど見ていない。見ていたのは、ローラーを動かすたびに揺れる鎖骨と、開いた襟元からチラチラと見える白い胸板だ。
汗ばんだ肌が、窓から差し込む夕日に照らされて光っている。その光景だけで、白米三杯はいける。
「次はこれかな。『柑橘系・浄化ミスト』。……アリサ、その小手、ちょっと失礼するね」
「柑橘の皮から油を抽出して、アルコールと混ぜたんだ」
シュッ、シュッ。
汗と鉄錆、そして獣脂の匂いが染み付いていたアリサの防具に、細かい霧が吹きかけられる。
瞬時にしてむさ苦しい臭いが消え、清潔な、清涼感を感じさせる石鹸のような香りへと変わった。
(……何この匂い。私の小手が、マシロの匂いになった……?)
アリサは自分の小手をひったくるように持ち上げ、鼻を近づけてスゥーッと深く息を吸い込んだ。
脳髄が痺れるようないい匂い。
「(……ねえアリサ。貴女、今すごく変態みたいな顔なさってますわよ)」
ロッテがドン引きした顔で耳打ちした。
「(うるさいっ! ……これは、成分を確認してるだけよ!)」
「(成分ねぇ……。ま、マシロ君の襟元をさっきから舐めるように見てるのも、装備の確認ってことにしておきますわ)」
マシロはそんな二人のやり取りには気づかず、今度は煤けた魔導コンロを磨き始めた。
かまどに向かう背中。エプロンもないため、腰のくびれが強調されている。
「よし、台所も綺麗になった。アリサ、腹減ってるだろ? 何か作るよ」
「えっ、あ、いいわよ! 私、適当に堅パンかじるから!」
「ダメだよ。体が資本なんだから。……ちょっと待ってて、『味の源』を使って、手早く仕上げるからさ」
マシロが取り出したのは、白い粉末が入った小瓶だ。現実世界でいう「うま味調味料」。
海藻や干し魚を何日も煮込んで、その上澄みだけを何度も結晶化させた、気の遠くなるような手作業の結晶だ。
マシロが手際よく野菜を刻み、塩漬けの肉と共に炒める。
ジュワァァ……という音と共に、兵舎には似つかわしくない、暴力的なまでに食欲をそそる香りが立ち込めた。
「……いただきます」
出されたのは、ただの野菜炒めとスープだ。
だが、一口食べた瞬間、アリサの全身に衝撃が走った。
「(……っ!? な、何これ……美味っ!)」
この世界の庶民の食事といえば、塩茹でか、黒焦げの二択が相場だ。
だが、これは違う。口に入れた瞬間に広がる、深みのある旨味。野菜のシャキシャキ感。
そして何より――
(男の子の手料理……!)
アリサは箸を止め、目の前でニコニコと自分を見ているマシロを見つめた。
自分より背が低く、華奢で、守ってあげたくなるような幼馴染。
そんな彼が、自分の汚い部屋を掃除し、いい匂いにして、美味しいご飯を作って待っていてくれる。
(……これ、結婚では?)
アリサの脳内で、理性が崩壊する音がした。
将来の夢は「大将軍」だったはずだ。だが今、その夢の欄に「マシロを家に閉じ込めて毎日養う」という野望が、猛烈な勢いで上書きされようとしている。
「マシロ」
「ん? 味、濃すぎたかな?」
「……ううん。……すごく、美味しい。毎日食べたい」
「はは、大げさだなあ。材料さえあれば、毎日でも作るよ」
その言葉を聞いた瞬間、アリサの瞳孔が開いた。
(言ったわね? 毎日って言ったわね? 言質とったわよ?)
アリサはテーブルの下で拳を握りしめた。
この「宝物」を、明日、詰所という名の魔境へ連れて行かなければならない。
なんと言っても、彼は今日から騎士団の『特別技術顧問』なのだ。団長や他の隊長への顔見せは避けられない。
「マシロ。明日、技術顧問の挨拶で詰所に行ったら……絶対に、私の後ろに隠れててね」
「え? なんで?」
「いいから! 絶対よ! あと、襟元! それ開きすぎ! もっと詰めなさい! 他の女に見せたら承知しないから!」
突然怒り出したアリサに、マシロは「えぇ……王都の服って窮屈なんだなあ」と困ったように自身の胸元を抑えた。その仕草すら、妙に色っぽい。
「(マシロ君、貴方無自覚魔性ですわね……。こりゃあ、アリサの財布と理性が空になるのも時間の問題ですわ)」
ロッテは呆れつつも、マシロの作ったスープを一口啜り、「……悔しいですけれど、胃袋掴まれるってこういうことですのね」と天を仰いだ。
だが、このままでは終わらない。
スープを飲み干した二人は、示し合わせたように鋭い眼光でマシロを見据えた。
無防備すぎる「田舎者」を、明日の詰所へ放り込む前に、叩き込まなければならない「常識」がある。
「マシロ。……食べ終わったら、正座なさい」
「えっ、なんで!?」
こうして、夜の「貞操防衛・緊急作戦会議」の幕が上がるのだった。




