第16話:徹夜明けの朝帰り
「……ふあぁ。やっと、安定して動くようになったわね」
シルヴィアが眼鏡を外し、目頭を揉みながら大きくあくびをした。
窓は全開にされており、新鮮な朝の空気が室内の塩素臭を洗い流している。
「お疲れ様、シルヴィア。おかげで装置が完成したよ」
マシロもまた、窓際の椅子に深く沈み込んでいた。
彼の方も大概だ。シャツのボタンは暑さと避難のドタバタで第三ボタンまで開けられ、袖は捲り上げられ、首筋には脂汗が滲んでいる。
装置が完成した後もミスリルコイルの巻き数や排気機構の調整に没頭し、ついには三日三晩の不眠不休で作業を続けていたのだ。
食事は焼いておいたパンで済ませ、トイレ以外は一歩も部屋を出ず、ひたすらにミスリルコイルの巻き数や排気機構の調整に没頭していたのだ。
部屋の中央には、その成果物である異様な装置が鎮座している。
数百周にもわたって巻かれたミスリルワイヤーは、絶縁用の松脂でコーティングされ、巨大な飴色の塊と化している。
その脇には、油で満たされたスイッチボックスと、電気分解用の水槽。
そして何より重要なのが、水槽の上部に取り付けられた排気ダクトだ。
「この弁のおかげで、昨日みたいな地獄を見なくて済むわね」
「うん。モード切り替え機能もちゃんと動作してる」
マシロは装置のレバーを愛おしそうに撫でた。
この装置には、ガスの処理方法を変えることで二つの生成モードがある。
一つは『通常モード』。
発生する有毒な塩素ガスをダクトから屋外へ排気する安全設計だ。
この場合、生成されるのは油汚れを強力に分解する『強アルカリ電解水』と、殺菌作用のある『次亜塩素酸水』。
日常の掃除ならこれで十分すぎるほどだ。
そしてもう一つが『混合モード』。
排気弁を閉じ、発生した塩素ガスをあえて強アルカリ電解水に送り込んで溶かし込む危険なモードだ。
これをやると、液体は「次亜塩素酸ナトリウム」……つまり、台所用漂白剤や、カビをキラーする洗剤の主成分へと変貌する。
まな板の漂白やカビ取りには最強の威力を発揮するが、混ぜるな危険の劇薬だ。
「当面は通常モードで運用しよう。漂白が必要になるほどの汚れは、そうそうないはずだし」
「賛成よ。もう涙目で逃げ回るのは御免だわ」
「で、マシロ。こいつの置き場所はどうするの? 相当邪魔なんだけど」
シルヴィアが顎で装置をしゃくった。
見た目はただの塊だが、中身は純度100%のミスリルだ。大人の男性二人がかりでも持ち上がらないほどの重量がある。
それに、うかつに動かせばオイルスイッチの密閉が解け、再び火花が散る危険性もあった。
マシロは少し考え込み、装置の表面を撫でた。
「……ここから動かすのは無理だね。重すぎるし、デリケートすぎる。下手に動かして油が漏れたら大惨事だ」
「あー、確かに。それにこんな国宝級の金属の塊、警備の甘い場所に置いたら一発で盗まれるわね」
「じゃあ、このラボに置きっぱなしで決まりね」
「うん。当面は、ここで生成したアルカリ水をボトルに詰めて運ぶことにするよ。幸い、生成能力は高いから、一日一回汲み出せば十分だ」
マシロは愛おしそうに装置を見つめ、申し訳なさそうにシルヴィアに向き直った。
「ごめん、しばらくは我慢してくれ。
この洗浄剤で資金を稼いで、セキュリティのしっかりした、実験室付きの工場を買う。そうしたら広い場所に移してあげるから」
「工場……実験室付き、ねぇ。あんた、相変わらず言うことがデカいわね」
シルヴィアは呆れたように言いながらも、その表情は満更でもなさそうだった。
自分の技術が詰め込まれた機械が、工場で大量生産のラインに乗る。それは技術屋にとって一つのロマンだ。
「よし、決まりだ。……とりあえず今日は試供品を持って帰ろう。早くシャワーを浴びたい」
「賛成。私なんか三日も風呂入ってないのよ? 自分の匂いで気絶しそう」
二人はフラフラと立ち上がった。
生成したばかりの各洗浄剤を数本ずつ瓶に詰め、リュックに放り込む。
足取りは重いが、その顔には「やり遂げた」特有の、妙な高揚感と一体感が漂っていた。
*
早朝の王都。
通りには、市場へ向かう商人や、朝帰りの酔っ払いがちらほらと歩いていた。
そんな中を、マシロとシルヴィアは並んで歩いていた。
「……ねえマシロ。ちょっと肩貸して。足ガクガクなんだけど」
「僕もだよ。……あんな体勢で何時間も作業してたから、腰が限界だ」
二人は互いに支え合うようにして、重い足を引きずっている。
中腰で行ったワイヤーを巻く作業に加え、塩素ガスからの避難で全力疾走したのがトドメを刺していた。
「あー……でも、凄かったわね。あんなに出るとは思わなかった」
「うん。僕も初めてだったから、加減がわからなくて。……最初、勢い余ってシルヴィアの顔にかけちゃった時はどうしようかと」
「……っていうか、あんたは入れ方が雑なのよ。もっと優しくしないと入り切らないわ」
「ごめん。次はもっと慎重にするよ」
彼らはあくまで「洗浄剤の生成量」と「塩水の充填作業」の話をしている。
しかし、すれ違う王都の住人たちは、ギョッとして道を空けた。
(……おい見ろよ。あんな昼間から堂々と)
(すげぇな……どんだけ激しかったんだ)
(あの男の子、優しそうな顔してプレイは雑なんだ……)
「……あ、そうだ。マシロ、ちょっと寄り道していい? お腹空いた」
二人が立ち止まった、その時である。
「……マシロ?」
通りの向こうから、冷え切った声が聞こえた。
朝の冷気よりもさらに温度の低い、絶対零度の声。
マシロがゆっくりと振り返ると、そこには詰所に向かう途中とおぼしきアリサと、眠そうな目をこするロッテが立っていた。
アリサの手に握られている棍棒が、その握力でメキメキと悲鳴を上げている。
「あ、おはようアリサ、ロッテ」
マシロは無邪気に手を振った。
その動作で、はだけた胸元が露わになり、鎖骨についた赤い腫れ(アルカリ液が跳ねたことによる炎症)が朝日に晒される。
「……おは、よう……?」
アリサの瞳孔が開いたまま固定されていた。
視線は、マシロの隣にいるシルヴィアに釘付けだ。
ボサボサの髪。気だるげな表情。マシロの肩に自然に置かれた手。そして、漂ってくる汗の匂い。
「……マシロ君。一応伺いますけれど、その方と、何をなさっていましたの?」
ロッテがにやついた笑顔で尋ねる。
彼女の鋭い勘は「これは修羅場だ」と警鐘を鳴らしていたが、だからこそ面白半分で火に油を注ぐ。
「え? 実験だよ。ずっと実験室にこもってたんだ」
「……三日間、ずっとですの?」
「うん。一歩も出ずにね。……いやぁ、ハードだったよ。寝る間も惜しんで、何度も何度も試して……」
マシロは充実感に満ちた笑顔で言った。
「二人の(技術の)相性がこんなにいいとは思わなかったな。お互いの持ってるものを出し合って、最高のものが生まれたよ」
ブチリ。
アリサの理性が焼き切れる音が、物理的に聞こえた気がした。
「……そ、そう。(身体の)相性が、いいのね……」
アリサがゆらりと一歩踏み出した。
その背後には、鬼神の如きオーラが立ち上っている。
「出し合ったのね……お互いのものを……」
「えっ、ちょ、アリサ? なんか目が怖いよ?」
マシロが後ずさる。
シルヴィアは状況を察し、ニヤリと口角を上げた。
徹夜の連続でまともな判断力は残っていない。相手との体格差も気にせず、ノリとテンションで少しおちゃらけてみることにした。
「あらあら。怖い奥さんのお出まし? ……残念ねえ、マシロはもう、私のものになっちゃったみたいよ?」
シルヴィアがマシロの腕に抱きつき、わざとらしく胸を押し付けた。
「ちょっとシルヴィア、重いよ。ただでさえ足腰立たないのに」
「ふふ、ごめんごめん。……でも、私のテクニック、気に入ってくれたでしょ?」
「うん、最高だった。またお願いしたい」
マシロの素直すぎる返答が、決定打となった。
「うわああああああああ!! 不潔! 不潔よマシロ!!」
アリサが絶叫し、竹刀を振り上げた。
「私が毎日毎日、大切に守ってきたのに! そんなポッと出の眼鏡女に、一番美味しいところを持っていかれるなんてぇぇぇ!!」
「え、美味しいところ?」
「問答無用! 成敗してくれるわ、この泥棒猫!!」
アリサが地を蹴った。
警備隊トップクラスの身体能力による、神速の踏み込み。
「わっ、ちょ、マジで!?」
シルヴィアが慌ててマシロの背後に隠れる。
「マシロ、守って! マジで殺されるわ!」
「えぇ!? アリサ、落ち着いて! 暴力はダメだ!」
マシロが両手を広げて立ちはだかる。
その姿がまた、「浮気相手を守る夫」の構図に見えてしまい、アリサの怒りにガソリンを注ぐ。
「どきなさいマシロ! そいつを斬って、私も斬って、綺麗さっぱりリセットするのよ!」
早朝の通りで繰り広げられる、痴話喧嘩。
野次馬が集まり始め、「おい、修羅場だぞ」「あの男、二股か?」「優しい顔してなかなかやるわね」と無責任な囁きが交わされる。
その時だ。
「……何事だ、朝っぱらから」
低い、威圧感のある声が響いた。
人混みが割れ、一人の女性が現れる。
警備隊副隊長のガルドだった。
「ガ、ガルド!?」
棍棒を振り上げたままのアリサが固まる。
ガルド副隊長は眉間に深いシワを寄せ、マシロとシルヴィア、そして鬼の形相のアリサを見回した。
「隊長、むやみに武器を振り回すのはよくないっす。……それに、マシロ。お前もだ」
教官の鋭い眼光がマシロに向けられる。
「……なんだその格好は。そんなに服を着崩して、あまつさえ女子と……ふしだらな!」
ガルド副隊長の顔が少し赤らんだ。
彼女もまた、マシロの「色気のある乱れ方」にドギマギしていたのだ。実は彼女も隠れマシロファンの一人である。
「す、すみません副隊長! 徹夜続きで服を直す余裕もなくて……! でも、怪しいことなんてしてません!」
彼は純粋に「身だしなみの乱れ」を怒られているのだと思い、必死に弁明する。
「僕たちはただ、新しい『発明』を作っていただけで……」
「発明? ……男女が三日間こもって作る『発明』など、一つしか思いつかんがな」
副隊長の言葉に、周囲の野次馬が「ですよねー」という顔で頷く。
(爆弾でも隠れて作ってたかもって疑われてる!?)
マシロは的外れな危機感を抱き、慌てて否定材料を取り出した。
「ち、違います! これを見てください! ちゃんと役に立つものを作ってたんです!」
マシロはリュックから、一本の瓶を取り出した。
中には無色透明の液体が入っている。
「これが、僕たちが三日間かけて生み出した自信作です」
「……!!」
アリサが息を呑んだ。
瓶に入った液体。その液体は一体何なのか?
「ここで効果を証明して見せます」
マシロは近くにあった民家の、長年の煤と埃で薄暗く黒ずんだ壁面に歩み寄った。
この街の建物は、暖炉の煙や排気でどこもかしこも煤けている。
彼は『アルカリ電解水』瓶の蓋を開け、布に液体を染み込ませる。
「見ていてください」
サッ。
マシロが壁をひと拭きした。
その瞬間。
黒ずんでいた壁の表面が、まるで皮を剥いだように白く輝き出した。
「「「!?」」」
全員が目を剥いた。
マシロは止まらない。サッサッサッ、とリズミカルに手を動かす。
あっという間に、壁の一角が新築のような白さを取り戻した。
「……な、なんだそれは」
ガルド副隊長が震える声で尋ねる。
「汚れです。……僕たちが徹夜で戦っていた相手は、この世の『汚れ』なんです」
マシロは真剣な眼差しで言った。
このアルカリ電解水は、酸性の汚れ──つまり油汚れや皮脂、そして煤汚れに対して劇的な洗浄効果を持つ。
「この『アルカリ電解水』を作るために、僕とシルヴィアは知恵を絞り、体力の限界まで調整を重ねたんです」
静寂が訪れた。
アリサは棍棒を下ろし、口をぽかんと開けている。
ロッテは「ぶっ」と吹き出し、腹を抱えて笑い出した。
「……ふふ、傑作ですわ。マシロ君、貴方最高ですわよ。愛の結晶が『掃除用の水』だなんて」
今までの流れを見て、アリサは顔を真っ赤にして俯いた。
「……え、ええ。マシロがそんな……不潔なことするはずないもんね……」
「? 俺はいつだって清潔第一だよ」
マシロは爽やかに笑った。
だが、シルヴィアがボソリと呟く。
「ま、別の意味で『濃密な時間』だったのは事実だけどね。……マシロの知識量、ハンパなかったし」
「むっ……!」
アリサが再び殺気を放ちかけるが、今度はマシロが優しく彼女の肩に手を置いた。
「アリサ。この『アルカリ電解水』ができれば、君の鎧のメンテナンスもすごく楽になるよ。あとでピカピカにしてあげるから」
「……!」
その一言で、アリサの怒りは霧散した。
「……ほんと? 私の鎧、一番最初にやってくれる?」
「もちろん」
「……へへっ。なら、許してあげる」
アリサはだらしなく頬を緩めた。
一件落着……かと思われたが、ガルド副隊長が鋭い目つきで瓶を凝視していた。
「……マシロ。その水、鎧の整備にも使えるのか?」
「え? はい、一瞬でピカピカの鎧にできますよ」
「色々落ち着いたら、騎士団の詰め所に来い。うちの警備隊の鎧でも試させてくれ」
「あーあ。モテモテね、マシロ君」
ロッテが茶化す。
とりあえず事態が一段落したことを察したマシロは、「そんなことより今は眠い」と、再びシルヴィアに肩を貸して歩き出した。
「とりあえず、帰って寝よう。……工場を買う夢のためにも、身体は資本だ」
「そーね。あ、私の家、水道通ってるんだけど、シャワー浴びない?」
「おー、ありがとう。お礼に起きたら服も洗濯しておくね」
そのあまりに自然な同棲感のある会話に、アリサの「きぃぃぃぃ!」という叫びが再び朝の王都に響き渡るのだった。
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