第10話:汗・柔軟剤・鉄
グラウンドに、激しい金属音と怒号が響き渡る。
炎天下、重い訓練用鎧を着込み、泥まみれになりながら木剣を振るう女たち。
王都の乾燥した砂埃が、汗ばんだ肌に容赦なく張り付く。
「……死ぬ……第二警備隊の連中、なんであんなに協調性がないのよ……」
昼休み。
アリサは更衣室のベンチに、ボロ雑巾のように倒れ込んでいた。
全身の筋肉が鉛のように重い。
今日は王都第二警備隊(平民区担当)と、第三警備隊(貧民区・繁華街担当)の合同演習を行っていたのである。
担当区域の境界線を巡る連携確認が名目だが、現場はお互いに罵声が飛び交うめちゃくちゃな状態。
その中で、指示に従わない第三警備隊相手に声を張り上げ、時には力を示しながら指示を飛ばし続けたのだ。
「……くっさいですわ」
隣で着替えていたロッテが、自分の脇の匂いを嗅いで、露骨に顔をしかめた。
彼女もまた、疲労困憊だった。
副官である彼女は、演習中ずっと両隊の間を走り回り、怒る隊員たちを宥め、折衝を続けていたのだ。
第二警備隊の地位を傘にきた貴族との交渉と、炎天下の演習場を往復したこによる冷や汗と脂汗で隊服はぐしょ濡れだ。
「最悪……。第二警備隊の前で目立ちたくないからって、予備の革鎧なんて着てくるんじゃなかった……。歴代の汗が染み込んでて、動くたびに雑巾を煮込んで放置したような匂いがするわ……」
「とはいえ賢明な判断ですわ。あの方々の前でマシロ君の特製装備を見せびらかしたら、難癖をつけられて面倒なことになるのがオチですもの」
更衣室全体が、酸っぱい汗の臭気と、鉄錆の臭い、そしてカビた革の臭いで充満している。
地獄のような環境だが、騎士として生きる以上、これは避けて通れない道だ。
「……ねえ、アリサ」
その時、どんよりとした空気の中で、部下のの女士たちがジリジリとアリサを取り囲んだ。
彼女たちの目は血走り、手には以前と同じ「石のように硬い黒パン」が握られている。
「……あいつ、今日も弁当作ってきたのか?」
「え? あ、うん。ロッカーに入れてあるけど……」
「……そうか」
リーダー格の女子が、ゴクリと喉を鳴らした。
「前のお前の弁当のせいで、我々の団結にヒビが入った。……責任を取って、今日のメニューを教えろ。夢くらい見させろ」
「えっと……今日は『香草チキンと半熟卵の冷製サラダガレット』だって……」
この暑い中、冷製だと? 更衣室に戦慄が走る。
「いいなぁ……アリサは帰ったら、あいつに『お疲れ様』って言ってもらえるんだろ?」
「泥だらけで帰っても、あの綺麗な顔で『ご飯にする? お風呂にする?』って聞かれるんだろ?」
「……私が男なら、あいつを拉致して地下室に監禁して、一生エプロンを着せて飼うのに」
女子たちの妄想と欲望が暴走していると、
「えっと、実は……マシロが前のこと気にしてて……」
アリサがおずおずと、ロッカーから巨大なバスケットを取り出した。
「『喧嘩になるなら、全員分作ればいい』って……」
アリサがバスケットの蓋を開けた瞬間、ふわっ、と白い冷気が溢れ出した。
硝石の吸熱反応で急冷して、羊毛の断熱材で密封した特製のクーラーボックスである。
中には、人数分の『冷製ガレット』がぎっしりと詰まっている。
香草でマリネされ、しっとりと冷やされた鶏肉。そして、同じくキンキンに冷えた半熟卵が、そば粉の生地で包まれている。
「「「神か……ッ!?」」」
更衣室に戦慄が走る。
この暑い中、保冷完備のバスケットに、火照った体に染み渡る冷たい食事だと?
その後の昼休み、更衣室が「咀嚼音と幸福なため息」だけで満たされたのは言うまでもない。
隊員たちはマシロへの感謝を噛み締めつつ、なんだかんだ自分たちにも極上の飯を分け与えてくれるアリサに対し、『この人に着いていけば、また美味い飯にありつける』という現金な忠誠を誓うのだった。
†
勤務後のグラウンド前。
泥だらけで疲労困憊の隊員たちがゾンビのように出てくる中、一人だけ、涼しい顔をして本を読んでいる少年がいる。
マシロだ。
彼の周りだけ空気が澄んで見える。服にはシワ一つなく、髪はサラサラと風になびいている。
「お待たせ、マシロ」
アリサとロッテがやってきた。
二人は明らかに、マシロから数メートル距離を取って立ち止まった。
「……ん? どうしたの二人とも。そんな離れて」
マシロがパタンと本を閉じ、不思議そうに首を傾げる。
「……近寄らないで」
アリサが手で「待て」をする。顔は真っ赤だ。
「今の私たち、最高に臭いのよ。汗と埃と、革の匂いで……今は本当に近寄らないほうがいいわ」
乙女心だった。
好きな男の前で見栄を張っていたい、ドブのような臭いをさせたくない。ましてや、マシロは異常なほどの綺麗好きだ。軽蔑されたくない。
「ふうん?」
マシロは無表情のまま、スタスタと二人に歩み寄った。
そして、あろうことかアリサの首筋に顔を近づけ――
スンッ。
耳元で、鼻を鳴らす音がしたのだ。
無防備なうなじにかかる、マシロの温かい吐息。
それが、背筋に電流のような痺れを走らせた。
(匂い、嗅がれ……っ!?)
「ひゃうっ!?」
アリサが変な声を上げて飛び上がった。
「ちょ、ちょっと! 何すんのよ変態!」
「……なるほど。確かに臭いね」
マシロはアリサの抗議を無視し、真面目な顔で顎に手を当てた。
「酸化した皮脂汚れがメインだね。そこに金属イオンの匂いと、微量なカビ菌……これは革鎧の管理状態が悪いな」
「ぶ、分析しないでよ! 恥ずかしい!」
「あと、ロッテさん」
「あら、私ですの?」
マシロはロッテの方も振り返り、ジロジロと観察した。
「髪の毛に砂埃が入り込んでる。これじゃあキューティクルが傷つくよ。……二人とも、このままだと皮膚炎になるレベルだ」
マシロの評価はドライで、単語の意味はわからないが、きっと正しいことを言っているのだろう。
しかし、言われた方はたまったものではない。
「うぅ……だから言ったでしょ! あっち行ってってば!」
「放置は良くない。……よし、帰ろう。今日は徹底的に『洗浄』だ」
マシロは二人の背中を押し、アパートへの帰路についた。
†
アパートに帰るなり、マシロは二人を部屋の隅にある「簡易バスタブ(カーテン仕切り付き)」へ押し込んだ。
「まずは身体の汚れを落として。その間に、隊服とインナーを僕が洗うから」
「えっ」
アリサがカーテンの隙間から顔を出す。
「マシロが洗うの!? いや、隊服はいいけど、インナーって……その、下着も!?」
「うん。汗吸ってるでしょ? 一番雑菌が繁殖しやすい場所だし」
マシロは何でもないことのように言いながら、手袋をパチンと装着した。
その目は、汚染物質を除去する清掃員のそれだ。
「……え、ちょっと……」
アリサは言葉を失った。
嫌なのではない。ただ、美少年が自分の脱ぎたての下着を淡々と洗うというシチュエーションに、妙な背徳感を感じてしまったのだ。
(これ……なんか、ちょっとエロくない……?)
「いいから早く脱いで。お湯が冷めるよ」
問答無用だった。
結局、二人は妙な余韻に包まれながら、脱ぎ捨てた服をカゴに入れ、お風呂へと逃げ込んだ。
「……はぁ。あいつ、無自覚なのが一番タチ悪いわね」
お湯に浸かりながら、アリサが火照った顔で呟く。
「でも、助かりましたわ。手洗いする体力なんて、もう残っていませんでしたもの」
ロッテが気持ちよさそうに伸びをする。
「それにしても……聞こえます? あの音」
カーテンの向こうから、シャカシャカ、チャプチャプというリズミカルな水音が聞こえてくる。
それは、どこか心地よい子守唄のように、二人の強張った筋肉を解きほぐしていった。
「マシロ君、楽しそうですわね。まるで『汚れを落とすのが生きがい』とでもいうようですわ」
ロッテが湯船の縁に顎を乗せ、うっとりと呟く。
「……マシロが作ったご飯を食べて、汚れた服をマシロに洗ってもらって、お風呂まで用意されてる……」
アリサは深く、深く息を吐き出した。
温かいお湯と共に、マシロの献身が体に染み込んでいくようだ。
「……幸せって、こういうことを言うのね……」
†
その頃、キッチン。
マシロは錬金術師の顔になっていた。
「この世界の石鹸は、獣脂と灰を混ぜた粗悪な固形石鹸だ。アルカリ性が強すぎて生地を傷めるし、カスが残る」
彼が取り出したのは、今日の空き時間にこっそり精製した二つの小瓶だ。
一つ目は、透明な飴色の液体。
灰と石灰を反応させた『強アルカリ』で油を煮込み、さらに多量の塩を加えて不純物を分離する『液体石鹸』だ。
市販の石鹸と違い、余計な油脂やグリセリンが除去され、汚れを落とす成分である界面活性剤だけが濃縮されている。
マシロはたらいにぬるま湯を張り、洗剤を垂らす。
泡立ちが違う。きめ細かい泡が、茶色く汚れたシャツを包み込んでいく。
「うわ、汚っ。……水が泥水みたいになった」
溜め息混じりにそう思いながらも、彼の手は止まらない。
洗えば洗うほど服は白くなり、それが妙な充実感をもたらす。
女子の下着だろうが関係ない。彼にとっては「洗いがいのある布」でしかないのだ。
汚れを落とすというシンプルな作業が、マシロの心を静めていく。
気づけば、彼は満足げな笑みを浮かべていた。
†
数十分後。
風呂から上がり、バスタオルを巻いた二人が出てきた。
「ふぅ……生き返ったぁ」
「マシロ、洗濯終わった?」
二人は、部屋の光景を見て固まった。
部屋の中に張られたロープに、自分たちの隊服やインナーが干されている。
だが、それは普段の見慣れた光景ではなかった。
白い。
異常なほどに、白い。
薄汚れていた麻のシャツが、雪のように輝いている。
そして何より、部屋中に充満する匂いが劇的だった。
「……なんですの、これ。お花畑?」
ロッテが鼻をクンクンさせる。
汗臭さは微塵もない。高級ホテルのリネン室のような、清潔で甘い香りが漂っている。
「すごい……私のシャツ、こんなに白かったっけ?」
アリサが乾き始めたシャツに触れる。
「っ!?」
指が沈んだ。
ゴワゴワで、着るたびに肌を擦っていた麻布が、まるでカシミヤのようにフワフワになっている。
「魔法? マシロ、魔法かけたの?」
「かけてないよ。……最後の鈴木水にちょっとお酢を混ぜると、石鹸カスが分解されて肌触りがよくなるんだ」
マシロが、事前に洗濯しておいたインナーを二人に渡した。
「はい。着てみて」
アリサがおそるおそる、まだ温かいインナーに袖を通す。
「……んぁっ……!」
その瞬間、アリサの口から艶っぽい声が漏れた。
「なんですの? その声?」
ロッテがニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる。
「だって……! き、気持ちいい……! すごい……!」
アリサは自分の身体を抱きしめた。
布が肌に吸い付くようだ。チクチクしない。締め付けない。
洗いたての柔らかな布に包まれるという、現代日本では当たり前の快感が、この世界では「未知の快楽」だった。
「ロッテも着てみなよ。世界が変わるから」
ロッテも袖を通す。
彼女は一瞬目を見開き、そしてうっとりとした表情で、シャツに頬ずりをした。
「……マシロ君。私、これ脱ぎたくありませんわ」
「でしょ? これで明日からは肌擦れを気にせず集中できるはずだよ」
マシロは満足げに頷いた。
女子二人がうっとりと自分の下着の匂いを嗅いだり、頬ずりしたりしている異様な光景にも、彼は動じない。
彼の関心は既に次に向いていた。
「あと、革鎧用のスプレーも作っておいたから。明日、ロッカーで吹きかけておいて」
マシロが渡してきたのは、小さな霧吹き瓶だ。
中には蒸留酒をベースに、酢とミントの精油を混ぜた液体が入っている。
「吹きかけると酒精が蒸発する時に臭いを飛ばして、酢が残りを中和するんだ。ミントの香りも残るから一石三鳥。名付けて『ハーブリーズ』……これでやっと、隣を歩いても鼻が曲がらずに済むよ」
「一言多い!」
アリサは叫びつつも、柔軟剤の香りに包まれたシャツ越しに、胸が高鳴るのを感じていた。
清潔であること。心地よいこと。
それがこんなにも心を豊かにするなんて。
「(……もう、マシロなしの生活なんて考えられないじゃない。どうしてくれんのよ、この身体……)」
†
翌日。
詰所の更衣室にて。
「……おい、なんだこの匂いは」
汗臭いはずの部室に、突如として「貴族の庭園」のような優雅な香りが漂った。
発生源は、もちろんアリサとロッテだ。
「ふふーん♪」
二人は真っ白でフワフワのインナーを見せつけるように着替えていた。
周りの女子たちの、黄ばんでゴワゴワのシャツとは、明らかに「格」が違った。
「ず、ずるいぞ隊長! なんだその白さは!」
「私なんか、洗濯しても汗の匂いが取れなくて、香水をぶっかけて誤魔化してるのに!」
「そのシャツ、触らせてくれ……うわっ!? なんだこれ、猫の毛皮みたいに柔らかいぞ!?」
「教えなさいよ隊長! どんな魔法を使ったの!?」
詰め寄る衛士たちに、アリサはマシロ特製のスプレーを取り出し、自分の革鎧にシュッと吹きかけた。
一瞬で、染み付いた汗の悪臭が消え、ミントの清涼な香りが広がる。
「「「おおぉ……!!」」
そうしてマシロによりしっかりと人数分用意された『ハーブリーズ』は全員に配られ、一日にして第三警備隊は「汗臭い荒くれ集団」から、「王都で最も香しい騎士団」へと生まれ変わったのだった。
その日から、第三警備隊をを取り巻く環境に奇妙な変化が訪れた。
これまでは「粗暴で汗臭い」と敬遠されていた彼女たちだが、パトロール中に子供たちが寄ってくるようになったのだ。
市場の主夫たちからも「ご苦労さまです」と声をかけられる。
清潔感は敵意を消し、親愛を生む。
マシロの何気ない気遣いは、警備隊と市民の距離を着実に縮めていったのだった。




