『沈黙の手紙』
まだまだ堀辰雄、立原道造の影響下にある文章です。
Ⅰ 〜予感〜
その朝、わたしはまだ夢のなかにいた。
窓辺の薄布を透かして差し込む光が、部屋の空気を淡く染めていた。
それは、言葉になる前の感覚をそっと撫でるような光で、わたしはそのなかに、誰かの気配を感じていた。
それが、わたしではないもの──
わたしの外側にある、けれども、どこかでわたしに触れているようなもの──
であったのか、あるいは、わたし自身の残響であったのか、判然とはしなかった。
その気配は、声を持たなかった。
ただ、沈黙のなかに息づいていた。
触れられることを望みながらも、触れられぬままであることをも、
どこかで受け容れているような、そんな気配だった。
わたしは、静かに立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
外には、まだ風の気配もなく、
遠くの山々が、まるで記憶のなかの風景のように、
ぼんやりと霞んでいた。
そのとき、ふと、わたしは思った。
この記憶は、ほんとうにわたしのものなのだろうか。
それとも、誰かの記憶が、わたしのなかに残像として宿っているのだろうか。
白い花の香りが、どこからともなく漂ってきた。
それは、忘れたはずのものの香りだった。
赦しの予感のような、
あるいは、誤解されることさえもどこかで望んでいた、 そんな「わたし」が、静かに息づいているような香りだった。
Ⅱ 〜余白〜
その香りに導かれるように、
わたしは机の引き出しを開けた。
そこには、折りたたまれたままの便箋が一枚、
静かに眠っていた。
差出人の名はなかった。
けれど、筆跡は、わたし自身のものだった。
それは、かつて書こうとして書けなかった手紙だった。
誰かに宛てたはずの言葉が、
いつのまにか、わたし自身に向けられていた。
赦しを乞う声は、他者のものではなく、
わたしのなかに沈黙していた「わたし」の声だった。
それは、誤解されたまま、語られぬまま、
それでもなお、誰かの記憶のなかに
残っていた「わたし」だった。
わたしは、便箋を開き、
そこに書かれた言葉を読むふりをした。
実際には、何も書かれていなかった。
けれど、わたしのなかには、
確かにその言葉が響いていた。
赦されるとは思っていない。
語らなかったことを、語れなかったことを。
それでも、あなたの沈黙は
わたしを赦していたのだろう。
わたしは常に、「わたしではないもの」に、
そっと撫でられていた。
外の風景は、少しだけ色を変えていた。
遠くの山々が、まるで誰かのまなざしのなかで
見られているように、静かに揺れていた。
そのとき、わたしは思った。
赦しとは、誤解されたままでも、
なお、わたしが抱きしめることのできる、
静かな余白なのかもしれない。
わたしは、窓辺に立ったまま、
その余白のなかに沈み、静かに涙した。
流れ落ちるものは、あの手紙のように、
言葉にならないまま、余白のなかで、ほどけていった。
花の香りはまだ、部屋中に満ちていた。
それが、「わたし」の感じていたものの、すべてだったのかもしれない。
そして、それだけで──十分だった。
もう少し、自分独自の揺らぎや重層感を構築していかないと…。




