掲示板の怪談
『指先で占ってやろう。今、君はベッドの上、それも横向きでスマホをいじっている。ことによると充電中だったりしてな』
大学受験を控えた高校三年生、神谷徹は、自室のベッドに寝転がりながら、退屈しのぎにスマホを眺めていた。彼は匿名掲示板のとあるスレッドをなんとなく開く。そこには、多くの名無しさん達がレスをつけていた。
>>1
「うわ、スレ主は神か?全部当たってて草」
>>1
「残念だったな。俺は今トイレで気張ってるとこだ。足が痺れて立てないのは言うまでもない」
>>1
「働いたら負けかなと思ってる」
>>1
「社会って厳しいよな」
徹はスレッドを閉じ、次に勢いのあった別のスレッドを開いた。書き出しはこんな文章だった。
『〇〇県の県立中央病院で当直医をしている者だ。最近、俺の病院でとんでもなく恐ろしいことがあって、怖くてもう仕事に行けず、自宅で休んでる』
「靴のセールスも、怪しいLINEアカウントへの誘導も間に合ってます」
「どうせクレーマー患者に絡まれたんだろ。違ったらこのレス丸呑みしてやる」
「↑またお前か、丸呑みニキ。前回の約束はどうした?」
徹はレスが鬱陶しくなり、「スレ主のみ表示」をタップした。
途端にスレッドはすっきりし、自称・医者の書き込みだけが表示される。スレ主のハンドルネームは無く、ただ「イッチ」(1=スレ主の意)と呼ばれているようだ。
続きの書き込みを読む。
『話は先週の夜勤に遡る。深夜12時頃、救急車である老人が運ばれてきた。救急隊員の話では、マンションの5階から転落したとのことだった。その時、同僚は手が離せず、診断を担当したのは俺一人だったが、その老人に生命の兆候が一切なく、完全に死亡していることは100%断言できた』
『それに、遺体の特徴と胸の温度から判断するに、その老人が今夜転落死したとは到底考えられなかった。常識的に考えれば、人間の体は死後10時間、常温環境下で1時間におよそ1℃ずつ体温が下がり、24時間経てば外気温とほぼ同じになる。だが、俺が触れた老人の体は、その時の気温が22℃だったにも関わらず、常温より少なくとも10℃は低く感じた。もっと低かったかもしれない』
『その時点で、この老人は死後一日以上が経過していると判断した』
すぐに、他のユーザーからのレスが挿入される。
「イッチの『常識的に考えれば』が俺の常識の範囲外なんだが。ガチの医者か、すごいな」
「とりあえず靴が脱げてないか確認しろ。まだ助かるかもしれん」
「kwsk(詳しく)!ゾクゾクしてきた。もう布団から出られない」
徹はさらにスクロールした。
『中学生の時に国民的探偵アニメを300話以上見た経験から、俺はすぐに判断した。これは事故じゃない、殺人だ。遺体はどこかの冷凍施設に保管されていたに違いない、と。俺はすぐに警察に通報し、状況を説明した』
『だが、今日話したいのはそのことじゃない。その後に起きたことだ』
ここで書き込みが一度途切れ、更新時間は二時間後になっていた。
『すまん、さっきドアをノックする音がして、例の件で少し話を聞かれた。刑事でも記者でもないみたいだったが、身分証は持ってたな。まあいい』
『確か、翌日の午前中だったか。俺はまだ出勤していなかったが、同僚の話によると、昨夜運ばれてきた老人の遺体が霊安室から忽然と姿を消したらしい。警察は犯人による遺体盗難を疑い、全力で捜査していると。病院中の監視カメラをチェックするほどの大騒ぎになったが、結局、遺体も犯人も見つからなかったそうだ』
『そして、その夜も俺の当直だった……』
『昼間の騒ぎで少し不安になっていたんだが、入院患者の一人が、その老人の遺体を見たと言い出した。誰かに運び出されたんじゃなく、自分で歩いて出て行った、と。その患者は、老人が通ったルートも正確に指し示した。確かに霊安室の方角から出てきている』
『その話を聞いた時はさすがにゾッとしたが、幸い俺は無神論者だ。患者の言うことを鵜呑みにはしなかった。その後、看護師長から、精神科の先生があの患者の薬を増やすことにしたと聞いて、少し安心した。やっぱり、信じなくて正解だったと……』
『だが、俺が本当に話したいのはそのことじゃない。その夜、当直中に起きたことだ』
『深夜2時頃だったかな。俺は救急処置室(ER)でソシャゲの周回をしていた。あのゲームがどれだけ面白いか、君らには想像もつかないだろうな。仲間との絆、大事にしろよ……』
「おいイッチ、お前最高のエンターテイナーだな!」
「ここまで真面目に読んでた俺の気持ちを返してくれ!不意打ちの広告とか、そういうのやめろよな!」
「社会ってやつを学んだぜ……ところで丸呑みニキ、そろそろ覚悟を決めろ」
掲示板はすっかりお祭り騒ぎだ。
徹も布団の中で思わず苦笑した。手の込んだ宣伝もここまで来ると芸術か。
だが、さらに下にスクロールすると、スレッドの雰囲気は一変していた。
イッチの書き込みが続く。
『悪い、本当に悪かった。広告じゃないんだ。あの夜、本当に信じられない心霊現象が起きた。お前ら、一生想像もつかないようなことが。午前2時15分、ERでゲームをしていた俺は、突然、悪寒に襲われた。霊安室で感じた、あの肌を刺すような冷気と全く同じだった。全身に鳥肌が立った』
『その後、どうなったと思う?』
『昨日、霊安室から消えたあの老人が、いつの間にかERの外にいたんだ。死んでなんかいなかった。一歩、また一歩と、ひどく緩慢な足取りで、病院の外へと歩いていく』
『ありえない。俺はこの目で見たんだぞ。あの老人は死んでいた。しかも死後一日以上経っていた。それがどうしてまた生き返る?』
『悪戯か?ゾンビか?医学の奇跡か?』
『一瞬でいろんな考えが頭をよぎったが、普段から遺体を見慣れているせいか、そこまで恐怖はなかった。俺はすぐさまスマホを取り出して写真を撮った。SNSにアップするつもりでな』
『下にその画像を貼る。ガチだ。絶対に加工じゃない』
徹がスクロールすると、一枚の写真が現れた。
写真は不鮮明などではなく、むしろ非常にクリアだった。ERのガラス窓越しに、外を歩く一人の老人が写っている。
老人は黒い和服のようなものを着ており、どこか古風な印象を与えた。全身は干からびたように痩せこけ、肌は褐色で、無数のシミが浮き出ている。そして、撮影角度から老人の片目が窺えた。それは、どんな目だったか……死んだ灰色で、虚ろ。一切の光を宿さず、人を慄然とさせるほどの死の静寂を湛えていた。
写真に血やグロテスクな場面はない。だが、この老人から醸し出される雰囲気そのものが、見る者の肌を粟立たせ、頭皮を麻痺させる。
イッチが「この老人はかつて冷たい死体だった」と明言していることを思い出すと、さらなる恐怖が湧き上がってきた。
見れば見るほど、写真が不気味に感じられる。
まるで死人を見ているようだ。いや、もっと正確に言うなら……**“怪異”**を見ているようだった。
「ひぃ、こわすぎ。この写真、見れば見るほど怖いんだけど。イッチ、どこで見つけてきたの?」
「老人の手のシミ、多すぎない?集合体恐怖症だからやめてほしい」
「それは“死斑”だ。この老人がもう死体だって証拠だよ」
「悪霊退散、悪霊退散!」と、誰かが有名な霊能力者の画像を貼った。
「その画像で霊が退散するなら警察はいらねぇんだよw」
だが、他のユーザーがどう茶化そうと、イッチは投稿を続けた。
『写真は本物だ。俺が撮った。その後、老人はそのまま病院を出て、どこかへ行ってしまった。どこへ行ったのかはわからない。だが、もし俺と同じ市に住んでる奴がいたら、少し気をつけたほうがいい。俺は無神論者だが、信じざるを得ないこともある』
『……待て、また誰かドアをノックしてる。多分、事情聴取の続きだろう。すぐ戻る。戻ったら続きを話す』
しかし、投稿時間を見ると、まだ一分も経っていないうちに、イッチは再びメッセージを発信していた。
『やばい、やばい、病院から出て行ったあの老人だ。あいつが、うちの玄関の前に立ってドアをノックしてる。ドアスコープではっきり見た。どうすればいい?俺は何か、とんでもないものに関わってしまったらしい』
「イッチ、その悪ノリはもういいってw」
「え、マジ?さすがにそんな邪悪なことある?」
「すぐ110番しろ!急げ!」
「イッチ、演技はもうやめろ。嘘じゃなかったら、さっきのレス、倍にして丸呑みしてやる」
「またお前か、丸呑みニキ。どんだけ腹減ってんだよ」
だが、イッチはさらに投稿を続ける。
『警察には通報した。でも、どうすればいい?あいつはまだドアをノックしてる。帰る気配がない。まずい、たった今、リビングの電気が突然消えた。怖くてリビングに行けない』
『寝室に閉じこもった。ありったけの照明を全部つけた。でも、老人はまだドアをノックし続けてる』
このあたりから、イッチの投稿は切迫していた。各メッセージの間隔は30秒もなく、誤字も目立つ。
投稿者の医者が、今まさに恐怖と混乱の只中にいることが窺えた。
徹も、作り話の可能性が高いとわかっていながら、全身が冷たくなるのを感じた。写真の老人が自宅のドアの前に立ってノックしている光景を想像すると、身の毛がよだった。
死んだはずの老人が生き返り、自分の家まで訪ねてくる。誰が遭遇しても恐怖するだろう。
しかし、スレッドはまだ終わっていない。
『だ、だめだ、リビングから足音が聞こえる。嘘だろ、家には俺一人しかいないのに。さっきまで玄関をノックしてた老人が中に入ってきたんだ。きっとリビングにいる。な、なんでだ、ドアを開ける音なんて聞こえなかったのに。どうやって入ってきたんだ』
『足音が、俺の部屋の前で止まった気がする』
『あいつ、またノックしてる。今度は、この寝室のドアを』
『やばい。本当にやばい。今からこの音を録音する。証拠として残す。電話番号も残しておく。もし俺の電話が繋がらなかったら、俺の身に何かが起きたってことだ。誰か、親切な人がいたら通報してくれ:090-....』
その下には、音声ファイルが添付されていた。
クリックすると、重苦しく、圧迫感のあるノック音が響き渡る。
ドン、ドンドン。ドン、ドンドン……。
一打、また一打と、まるで心臓を直接叩かれているかのように、息が詰まりそうになる音だった。
そこで、スレッドの更新は少し途切れていた。
徹が一番下までスクロールすると、そこには、一行だけ、最後の書き込みがあった。
『あの老人が、入ってきた……』