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それからもシオは、夜になるとバクと共に出かけた。あちこちの夢を食べたが、バクが腹を壊すことはなかった。
きっと何かの間違いだ。彼女はやはり良い人間なのだ。シオはそう思うように努めた。
夕食の買い出しに出かけた午後、サツキの姿を見つけた。
彼女は誰かの隣を歩いていた。それはシオの知らない、町の住人ではない青年で、しっかりと身なりを整えていた。身に纏っているのは、小さな町の人間には手の届かない、高価な衣服であることは間違いなかった。彼は楽しげにサツキに笑いかけ、サツキも何かを言って頷いていた。
声をかけることができず、遠目にその姿を見送ったシオは、顔見知りの住人に呼び止められた。
「見たかい、さっきの男。サツキちゃんの婚約者だってさ」
子だくさんの女性は、買い物かごを手に提げたまま、眉根を寄せた。小さな子どもが指をしゃぶりながら、母親のスカートを握りしめている。呆気にとられるシオが「婚約者?」と呟くと、彼女ははっきり首肯した。
「そうだよ。まさかサツキちゃんにそんな人がいたなんてねえ。遠い街のお金持ちらしいよ。ああいうのと結婚すると、将来楽だろうねえ」
でもなんだろうね。彼女は続けた。いけ好かないね、なんだか。
「サツキは……」掠れそうな声を、シオはなんとか振り絞る。「さっきの人が、好きなのかな」
「どういう経緯でそうなったか知らないから、なんともいえないけど」ため息を吐く。「あの子には、シオがお似合いだと思ってたからねえ。なんだか意外だよ」
彼女と別れてから、用事も忘れてシオはひと気のない路地裏に入った。ポケットから出てきたバクが、肩の上に乗る。心配そうにこちらを見つめている。
「ぼくは、大きな勘違いをしていたのかもしれない」
「シオさま、そんなことは」
「一緒になりたいとか、思ったこともなかった。ぼくには絵を描くことしか出来ないんだし……。だから、これが正解なんだろうね」
「シオさまは、とてもとても優しいお方です。どうか、そんなことは仰らないでください」
ありがとうと囁いて、シオは塀にもたれて空を仰いだ。そうしなければ、胸の中の熱いものが零れ落ちてしまいそうだった。
「彼女を、ぼくに縛り付けるわけにはいかない」
わかっているのに、もう声が出せなかった。胸の中に大きな穴が空いた気分だった。そこを埋めてくれる者がいない寂しさに、崩れてしまいそうだった。
描き上げた絵は、自分でも最高と呼べる出来だった。だが、これを渡すべき相手はもういない。サツキと関われないのなら、自分でどこかに売ってしまおうか。絵を見るだけで、苦しくなってしまうのだから。
午後、家の呼び鈴が鳴った。扉を開けて、シオは驚いた。
「こんにちは、シオ」
そこには、いつもと変わらぬ笑顔のサツキが立っていた。
「今日はね、マフィンを焼いてみたの。初めてだから少し不安だけど、上手くできたと思うわ。一緒に食べようと思って」
いつものように部屋に入り、テーブルにバスケットを置く。そこでようやく、返事をしないシオを振り返って不思議そうな顔をした。
「ごめんなさい。都合が悪かったかしら」
「いや、そんなことはないけど……」
むしろ都合が悪いのはサツキの方ではないのか。そう思いながら扉を閉める。サツキは怪訝な表情をしていたが、「ねえ、シオ」と嬉しそうに両手を合わせた。
「この間描いていた絵、もう完成したかしら」
「うん。昨晩、描き上げたよ」
「よかったら見せてくれない?」
頷いて、シオはサツキを二階のアトリエに案内した。キャンバスの絵を見て、サツキは目を輝かせた。
「すごい! とっても綺麗ね。夜空をそのまま切り取ったみたい。ううん、それよりもずっと綺麗!」
はしゃぐサツキの様子は全く普段と相違ない。いや、新しい絵を目にした彼女は一段と嬉しそうに見える。
「よかったら、あげるよ……」
「本当? シオ、本当にいいの?」
頷くと、サツキは「夢みたい」と笑った。「今度、お礼にたくさんクッキーを焼いてくるわね。シオの好きなジンジャーの。他にも欲しいものはあるかしら」
「ううん、喜んでくれるなら、十分だよ」
そう言ったシオの両手を、サツキはそっと両手で包み込んだ。シオより少し小さな細い手は、温かだった。
「シオ、どうしたの。今日は様子が変よ。体調でも悪いの、それとも悩み事があるの」
心の底から心配そうな声に、シオの心で強張っていたものが、やんわりと柔らかくなる。サツキは変わっていない。いつも隣で笑ってくれていた彼女と、何も変わらない。
「サツキ……」だからシオは、決心した。「結婚するの?」
彼女は驚愕に目を丸くした。シオの手を握る両手に力がこもった。瞬かせた瞳を悲しげに伏せ、囁いた。
「知ってたの、シオ」
それから、サツキは語った。