茜色の狼
# ベイカーサイド
〈ピシッ…〉
一歩踏み出したその足元がかすかに結露していた
肌寒いような、心地良いような
不思議な感覚がベイカーの身体中に満ちている
貫かれ風穴が空いた心臓は今なお氷に包まれているが、その内側では魔力による修復がゆっくりと進んでいた
死地から呼び戻されたベイカー
その中には亡き友から託された魂がある
アーサー・ビークマン
かつて反逆の左大臣により、悪魔の魔力を宿す〈黒箱〉を渡されたことによりその身体を
極界と呼ばれる四十四体の悪魔の内の一体
〈凍て蜘蛛 ベイガン〉に乗っ取られた青年
しかし、最期にはその支配を御し自らミザリーに討たれるという道を選んだ
ベイカーはアーサーとの死別の際、形見としてアーサーの剣とその魂を譲り受けた
それが改良された機構剣こそがダイバーエースである
そして、〈魂〉という概念を託されただけではなかった
普通の人間が悪魔を倒したとしても討伐という事実以外に得るものはないだろう
だがその身にフェンリルの魔力を宿すベイカーは違う
悪魔を倒し続けることによって散ったその悪魔の魔力はベイカーの中に溜まり続ける
その魔力が呼び水となり眠っていたままの〈ベイガン〉の魔力を呼び覚ました
その魔力は〈絶対零度〉
魔力によって物質同士の結合を行い、その際に急激に周囲の温度を奪う
「貴様…死んでいなかったのか?」
〈ゾゾゾ〉
と悪魔化を行い、ジャープも臨戦態勢となる
巨大な鉈を構えつつ警戒の様子は途絶えない
「悪いけど俺にもよく分かってないんだ…ただ背中を押してもらってるだけさ。
どいてくれ…俺はまだコイツの扱い方が分かってないんだ」
〈ピシシシシッ〉
ベイカーの意志なのか足元からジャープに向かって地面が凍結し始める
「…舐めるな!」
その凍結に触れれば脚をとられるだろうということは想像に易い
ジャープは飛び上がり鉈を振り上げベイカーに猛然と向かう
〈ガギィンッ〉
勢いよく振り下ろされたジャープの鉈は、ダイバーエースによって防がれる
剣と鉈がぶつかり
本来なら弾き合う勢いだが
「っぬぅ!」
〈ビシ…〉
即座に離脱を行う予定だったジャープのリズムが狂う
鉈が、剣から離れない
ダイバーエースから迸る絶対零度の冷気により、剣と鉈を氷の結晶が繋いでいるためだ
その足元さえ絡めとろうと地を這う氷が迫る
鉈だけでなく足さえ絡め取られれば命取りだと判断したジャープは鉈から手を離し、自身だけでもとバックステップを踏む
それをベイカーは逃さない
「引かせるかよ!」
〈ガキィンッ!〉
懐からエクスプロッシヴカードリッジを取り出し、ダイバーエースのスロットに突き刺し
そしてレバーを引きながら、刃に氷で結合された鉈ごとジャープへと振りかぶる
〈ドゴォッ!!〉
剣の峰の機構から爆発による炎を噴き出し、刃にまとわりついていた氷を溶かし
水蒸気を纏った斬撃がジャープを捉える
〈ズシャァ!!〉
悪魔と化したジャープの外殻を大きく削り、手応えが視覚的にも感じられる
「ぐぅ…っ、はぁ…」
斬撃で吹き飛ばされながらも倒れず、辛うじて両の足で持ちこたえるジャープ
ここまでのダメージを与えれば大きなアドバンテージであることは間違いない
「もう…引いてくれ、アンタもメルファの叔父さんなんだろ…出来ればこれ以上はやりたくない」
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# メルファ サイド
「はぁっ…はぁっ…」
メルファは走っていた
あくまで警戒という意識は解けないが、それでも走るという行動を取れているのは
思いの外イグリゴリ団員らの動きが少ない
という想定外があったからだった
少なすぎる、という疑問を本来持つべきなのかもしれないが今のメルファにそんな余裕はなかった
「(ベイカー…ッ、大丈夫だよなぁ…死ぬわけないよな…まだ間に合うよな…)」
メルファの痛みは消えない
火傷のようにジリジリと痛み続けるそれは、考えれば考えるほど
自身へと大丈夫だ、と言い聞かせる度に痛みは酷くなる
〈…ドォン…〉
「ッ?」
警戒を解けなかったため、ジャープから随分遅れてしまっていた
そんなメルファの耳にどこからか聞いた事のある音が聞こえてくる
「…これって…ベイカーの剣の…?」
何度か聞いたことのあるエクスプロッシヴカートリッジによる爆撃音
その音はメルファを慰めるように耳に届く
「(じゃぁ…生きてる…?生きてんのか…?っ!)」
思わず走るスピードが上がる、近いはずだ
生きている姿が、ベイカーの後ろ姿が目に浮かぶ
真っ直ぐ前を見て、真っ直ぐ人を
物理的に存在しないはずの心を真っ直ぐに見ているような瞳を
優しくも温かい夕陽のような髪を
呼吸も忘れた
幾つか角を曲がり、かすかに聞こえていた戦闘音を頼りに走った
そして
〈ザッ〉
辿り着いたそこには
枯れた噴水 大分消耗している様子の人型の悪魔
状況から察するにジャープ・スタッグだとは目星がつく
そして
「ベイカー…ァ…」
震える声が零れる
ベイカーが立っている
剣を持ち、真っ直ぐに敵を見据えて
衣服は損傷し、出血の跡が拭いきれてはいない
広場の一部分には血溜まりの跡も生々しく残っている
重傷なのは間違いない、間違いないがそれでも
「生きてる…良かった…」
安堵からメルファは思わず膝をついた
目の端から温かい涙が流れる
「…?」
ふと気づく
ベイカーが立っているの目にした瞬間
生きているとこの目で確かめられた瞬間
胸の痛みが、消えた
「あ…そっか…そうなんだ…」
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# ベイカー サイド
「情けのつもりか?」
ベイカーから引け、と言われたジャープだがそれを呑むつもりがない
そんな事はベイカーも分かっていた
「…何が目的かは分からない、だからアンタらが間違っているとも言いきれない。
俺は正直、ミザを連れ帰りたいだけだ。
しなくていい争いなんてする必要がない。それに…」
ミザリーを取り戻すことが、メルファの〈代魔病〉を治癒する一縷の望み
「甘いんだよ、お前は。
お前のような小僧に辞めろ、引けと言われてすんなり引けるぐらいの安い意志だとは思っていないだろう。
それを理解してお前が引け、というのも分かっている。
…それを言わずに入れないのがお前の甘さ。そして…」
〈ビシビシ…〉
鉈を失ったジャープだが、その腕を見る見る内に槍のように尖らせていく
「己の意志のために!人を殺す覚悟がないのが!お前の甘さだ!」
「人の命を奪う覚悟なんて…俺にはない!あってたまるかよ!」
歯を食いしばるベイカーへと、ジャープは猛然と襲いかかる
「その程度の覚悟で我らを、我らの意志を阻むなぁ!!」
「く…っっ!?」
ガクンッと自身の膝が意識外で折れる
「(なっ!?)」
無理もない
いかに貫かれた心臓がベイガンの魔力で補われているからといって、ベイカーの身体が悪魔となったわけではない
あくまでベイカーはフェンリルやベイガンの魔力と同調しているだけで、肉体は人間である
つまり、失われた出血を無視できるわけではないということだ
全ての血管は、心臓へと血を運ぶ役割を果たし心臓には多くの血液が集まっている、それを貫かれたベイカーの血液は常人では生きていられない失血量となっていた
「…こんなときに…っ!」
「見放されたな!小僧っ!!」
ただ、自らに腕を突き立てようとするジャープを睨むしかできない
できなかったベイカーの前に何かが現れた
流れるように、しかし突然にジャープとベイカーの間に立ちはだかり
両手を広げた格好でベイカーを庇うようにそこにいたのは
「っ……メルファ…?」
振りかぶったジャープの腕は、無情に
感覚的にひどくゆっくりとだが間違いなく
メルファの背中を切り裂いた
「メル…ファ……ッ!…メルファァァ!!」
笑っていた
優しい顔をしていた
その表情の理由はベイカーには分からなかった
それでもベイカーは力を振り絞りながら立ち上がる
それが遅かった、という後悔で剣を握る手から血が滲む
メルファの肩を支えながら
ジャープへと剣を振るった
〈ドシャッ!!〉
と既に傷を負っていた箇所の一撃は、ジャープには耐えられない
「…ガッ………、ディエゴに…顔向け、できんな…」
どちらの意味なのか、いや恐らくはどちらの意味でもあるだろう言葉を残し
ジャープは結晶化し、その身を砕きながら散っていった
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# メルファ サイド
気づいたのは直ぐだった
ジャープとの応戦中、本人が自覚しているかどうかは分からないがベイカーの挙動に微かにふらつきが見える
その理由も明白
「血を流しすぎてんじゃないのか…?」
と心配が変に汗をかかせる
それが杞憂に終われば良かった
しかし、メルファの目の前でジャープはベイカーへと迫り
ベイカーが膝をついた
その瞬間に、身体は動いていた
思考を身体が追い越したように
感情が直接身体を動かし始めたように
メルファは知ってしまった
〈代魔病〉に蝕まれた7年、度重なる発作にも苦しめられてきた
痛みと常に共にあった、慣れることはないその激痛と過ごし続けた
だが、その痛みが何かを駆り立てる事は一度もなかった
そんなものがなんの苦にもならないほどの痛みを知った
自分の死を招く痛みよりもずっと、ずっとだ
「(ベイカーが死ぬほうが…アタシには痛えっ!!)」
だから
だからメルファは、ベイカーの前に立ち
ジャープの攻撃を背に受けても
それが自分にできる最後だと分かっても笑っていた
後悔はないと言い切れるほど
この人が生きていられるなら
この人が生きている事が嬉しい、と
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# ベイカー サイド
「なんで…なにしてんだよ、メルファ…」
ベイカーはメルファの肩を抱いたまま
支えながら地面へと寝かせる
背中を少し浮かせるとその出血が地面を濡らす
「…身体が…動いちゃってさ…はは」
「…待ってろ…止血する…大丈夫だ」
ベイカーが処置をしようとする
だがメルファはそれを止めた
「いいよ、ベイカー…もう…無理だ」
「無理だなんて言うなよ!喋らなくていいから」
「いーや、聞けよ…もうベイカーだって分かってんだろ?」
ぽわ…とメルファの身体から淡い、小さな蛍のような光が浮かび上がる
「なんだ…これ…」
「…多分さ、もうこの身体はダメだって代魔病がアタシの身体を食って魔力にしてんだ…」
「そんな…俺のせいだ…俺が弱かったせいで…メルファを…」
ベイカーの目に涙が滲む
アーサーに助けられたばかり、それどころかミザリーの奪還の為に自分を助けてくれていたメルファまでも
自分が泣いてる場合じゃない、そうは分かっていても堪えられない
ポタリポタリと涙が地に落ちる音は静かな広場の中で悲しくもよく聞こえている
すっとメルファがベイカーの顔へ手を伸ばしてきたかと思えば、親指で中指を弾き、鼻を打った
「違ぇよ…ベイカーのせいじゃない、ベイカーのおかげだ」
「…そんなわけないだろ…俺は、君も助けられるつもりだった。救えるつもりだったんだ、なのに…」
「アタシはさ…多分ずっと死んでたんだよ。
代魔病に冒されて、ずっとずぅーっと明日には死んじゃうんじゃねえかって思いながら
それでも生きてきたんだ。言っちまえば生きるのを諦めながら生きてきた…でもそんなの生きてるって言えねぇよ。」
「メルファ…」
「んな時にベイカーと会えてさ
盗賊なんてやってる嫌われ者のアタシをさ…悪魔から庇うように立ってくれただろ
なんか知らんけど…その後ろ姿見てアタシの中でなんか変わる気がしたんだ…」
「そのご挨拶が荷物スることか?」
泣きながらベイカーは笑った
悲しい顔をすればいいわけではない、メルファがそれを望んでいないことを感じ無理をして茶化した
「へへ…ごめんて……他に気の引き方がわかんなかったんだよ」
メルファの息が少しずつ乱れていく
それでもその言葉を遮ることはベイカーにはできなかった
「そりゃ…盗賊だってわかってなかったから庇うだろとも思ったけどさ。
一緒に行動してると…すぐに分かった。
多分こいつはアタシが盗賊だと分かっててもアタシの前に立っててくれただろうなって」
ごそ、とメルファは自分の鞄から本を取り出した
お守りだと言っていた母の日記だ
「これさ…父さんと母さんが出会ったころからのこと書いてんだけどさ。
…そん中に、母さんが…人買いに攫われたことがあったって話があって
それを父さんが助けてくれたって事が書いてあんだ…多分誇張とかあるんだろうけどさ
その話がアタシ好きで…何回も、何回も読んでた」
ふと自分の血で表紙が汚れることを気にしたのか、汚れを上着で拭うと
それをベイカーに差し出す
「…憧れてさ。そしたら、ベイカーも幼馴染を助けたいって言うだろ…
こんな話の主人公にはアタシはなれない、でもそんな物語に関われるんじゃないかって…ごめんな…不純な動機でさ…」
「そんなことない…本当に助かった…本当に、メルファのおかげでここまで来れた…ミザに手が届く所まで来れた
だから…こんな所で…」
「良いんだって…なんていうか、ほんとに…明日には死ぬと思って生きてるだけだったアタシに希望持たせてくれたんだ
もっかい、生きるってことに望み持てたんだ
それだけで十分だ…へへ」
力なく笑ったメルファ
溢れ出る光が少しずつ多くなっていく
まるで終わりが近いことを暗示するように
見送るための光を灯すように
「悪ぃ…やっぱり嘘だな…生きれるかもって思えたら欲が出ちまってた。行きたい場所も、やりたい事もできた」
「そうだったのか…どこにだ?」
「ルグリッド公国…そんで機械の技師とかやってみてぇなって…言ってくれたことがあるだろ?公国に来ないかって…アレ、本当に嬉しかったんだ」
言ったことはベイカーも覚えている
だが
「…寝てたんじゃなかったのかよ、なんでその時返事しなかったんだ」
「〈代魔病〉のこと知られる前だったろ?言えなかったんだよ…でもベイカーが…その心も守ってくれるっつったから…だから
心に嘘つけないって思った」
「…技師は?なんでだ?」
「単純に興味ある…面白そうだし…ベイカーの力になれるかもだろ…はぁ…」
「メルファ…」
恐らく余力は少なく無駄な言葉は話せない
残す言葉を考えているような間が哀しい
「…父さんのこと…頼まれてくれるか?アタシが…何しようとしてるかはわかんないけどさ…ミザリーを攫ってやるようなことだ…多分良くないことだ。
アタシがそれを望んでない…って……母さんとアタシと…3人で過ごしてた時の父さんが一番…大切だから…伝えてくれ」
「約束する…必ず…」
メルファはニッと笑った
今まで何度も見たままの笑顔だ
「生きる希望みたいなの…貰ったのはホントだぜ。でもアタシはさ…金色の狼なんて知らねぇんだ。」
フェンリルの魔力を使えるミザリーを救いさえすれば代魔病を解決できる可能性があった。それを言っているのだろう。
「おとぎ話で何度も聞いたことはそりゃあるさ…至る所で話も聞くけど…そんな噂がアタシを救ってくれたことは…一度もなかった
でもベイカーは違う、アタシを何度も助けてくれた。
アタシの為に怒ってくれた、そんで今も泣いてくれてる。
…そうだ…なぁ…夕陽って何色って言うんだ?」
「え…そうだな。橙色とか赤色?」
「…なんかちょっと違うな…」
なにやら不満気なメルファ
「…あっ、茜色とかとも言うな」
その言葉を受け取るとメルファは頭の中で反芻する
そして
「それだ…ベイカーはアタシにとって御伽話みたいな希望だったんだ
【茜色の狼】だ。」
「茜色の…」
「おん…夕陽みたいな色してるだろ、ベイカーの髪の毛
なんか、優しくてさ暖かくてさ。誰にも平等に訪れてくれる…うん、いいな。
茜色の狼…」
折々でメルファは夕陽を眺めている様子があった
〈代魔病〉という苦しみに憑かれた
メルファを慰めてくれていただろう夕陽
その雰囲気をベイカーに感じていたのだ
「ぁあ…ちくしょぅ!!…生きてぇなぁ…!」
突然メルファが力強く叫ぶ
それは風前の灯火か、最後の咆哮か
「こんなに生きたいなんて思ったことない…アタシはベイカーと出会ってからの…この数日が本当に楽しかった
生きてぇって思えたのが…嬉しい。
アタシはベイカーを…守れたよな?」
「ああ…君が俺を守ってくれた。助けてくれた…」
もう…メルファの姿が魔力に変わる光に包まれている
肩を抱くベイカーの腕にかかる重みが軽くなっていく
それに気づいたベイカーの手が、震えた
「へへへ…なら嬉しい。あのさ…アタシさ…」
「…なんだ?」
「…いや…良いや。こんな時に言うのはずっこいからな」
すぅ、と息を吸う
「よし…!行け!ベイカー!
アンタならやれる!
ミザリーを奪い返せ…ベイカーにしかできないんだ。
絶対に!…絶対にできる…!」
もう、ベイカーの腕は重みを感じない
メルファの肉体は〈代魔力〉による最終段階として魔力へと変わる
変わってしまう
「ああ!必ず…!君の父さんもなんとかする
見守っててくれ…メルファ。
俺は…君を忘れない、忘れないから」
「うん…アタシに…任せとけ…!」
〈ポォ…〉
蛍の光のように、魔力へと姿を変えたメルファ
「ぅ…メルファァァ…!!!!」
ベイカーは叫んだ、無力を嘆き、無力な自分を悔やんだ
地面に拳を突き立て、何度も殴りつけた
救えたはずの生命を、自分のために失わせてしまった
驕りだった、傲慢だった
救えるものは余りにも少ないのだと身を割く痛みで自覚する
そんなベイカーを
魔力となった光が包み
そして、慰めるようにベイカーの身体を包み染み込んでいった
「…っ…」
温もりに、ベイカーは動きを止めた
「…これ以上…ダサいとこは…見せられないよな…」
ゆっくりと立ち上がると
ベイカーは剣を背負い直し、歩き出す
涙は未だ瞳から流れようとしているが構わずに進む
誰も知らない
その存在が現れたことを
その物語が綴られていることを
ただ、一人の少女が愛した〈茜色の狼〉というその少女を救った真っ直ぐな英雄の物語を




