神泉の翠華
【結界旗】
「これより先は神域。気をつけるんだよ、那由多」
「いや、あんたも行くんだよ。先生」
「え?何で?」
「何でって」
あんたの呪いを解きに行くからだろうが。
那由多と呼ばれた少女は後ろから押した。
呪いをかけられて、少女の背丈よりも高いぺらぺらの長方形の白紙の上に、中身がくり抜かれて空っぽになった、緑に黒の縞々模様のまんまるスイカが乗っけられるという謎の姿に成り果てた先生を。
嫌だいやだと喚く先生を、押して、押して、地面に突き刺された白い結界旗の先へと、神域へと足を踏み入れた瞬間。
視界いっぱいに広がったのだ。
ぷかりぷかりと泉に浮かぶ数多のスイカが。
(2023.7.7)
【記憶】
老婆の巫女は告げた。
老婆の巫女より大きな白い旗を、胡坐をかいて振りながら。
謎の姿に成り果てた先生に向かって。
呪いをかけられている。
神域へと赴き、神に赦しを乞うのだ。
どうせ酒をしこたま飲んで酔っ払い意気揚々と神域に足を踏み入れた挙句、神聖なスイカを盗んだのだろうこの罰当たりめ。
そんな罰当たりな事はしていない。
先生は反論したが、那由多はそうは思わなかった。
確かに今迄、酒による失態はなかったけれど、いつかはやりそうだと思っていたのだ。
けれどまさか、神域に足を踏み入れてはいけないという禁を犯すばかりか、神聖なスイカを盗むなんて。
いいや、どんな禁を犯しても、失態を侵しても、ここまで育ててくれた先生だ。
川から流れて来たスイカを拾って食べようと家に持ち帰り刃物を持った瞬間、中から飛び出て来た自分を、血の繋がりもなく利益も生み出さない自分を、ここまで育ててくれた先生だ。
今こそ、その恩に報いよう。
先生にかけられた呪いを解くために、神域に行って神に頭を下げよう。
そう思っていたのに。
神域に足を踏み入れた先に広がる光景に。
世界の果てまで続くような空色の泉に、ぷかりぷかりと浮かぶ数多のスイカを見ている内に、ではなく。
ぷかりぷかりと浮かぶ数多のスイカの内の一つが、空に浮かんで那由多と同じ姿に変化したかと思えば、そのスイカに泣きつかれた瞬間。
那由多は記憶が蘇ったのだ。
(2023.7.8)
【スイカ】
老婆の巫女のお告げは当たっていた。
神域に足を踏み入れたという点は。
ただし、その他は間違っていた。
酒をしこたま飲んだのは、酔っぱらったのは、神域に入ってからであり、スイカは盗んだわけではなく、同意の上で連れて行ってくれたのだ。
(あちゃー)
那由多は片手で顔を覆いながら、片手で那由多に変化したスイカの頭を撫で続けた。
何故、先生が神域に足を踏み入れたのか。
疑問を挟む暇もなく、久々の客人、しかも酒が飲める人間の登場が嬉しくなって、ついついめいっぱいもてなしたのだ。
飲めよ、飲めよ、しこたま飲めよと、スイカの酒を勧めに勧めて、那由多も飲みまくった結果、お互いにでろんでろんに酔っぱらった。
だけではなく。
何がどーしてそんな思考が生まれたのか。
あんたを先生として敬い現世で生きたいとのたまう那由多に、先生は間髪入れずにいいですよと快諾。神としての記憶は邪魔だと、那由多は自分と先生の記憶を書き換えたのだった。
(あちゃちゃー)
先生に呪いがかけられたのは、恐らく、確実に、同胞の仕業だろう。
神域に来るように仕向けたのだ。
遊んでないで帰って来いと、顔を真っ赤に、はしていないだろう澄ました顔で、けれど、確実に怒りを含んでいる事だろう。
(あちゃちゃちゃちゃー)
先生は何も悪くない、とんだとばっちりだったのだ。
(あ~あ~。自由気儘生活もここまでか。いや。神域でも自由気儘に過ごしてたけどね。でも何か。何て言うの。う~ん。違ったんだよねえ。現世の方が生活を謳歌できた。んだけど)
けれど、しょうがないここまでだ。
先生をこんな謎の姿にさせたままにはできない。
ちょっと謝って、もう神域から出ないと宣言すれば、先生の呪いは解けるはず。
那由多は先生を振り返っては微笑んだ。
「那由多?」
「先生」
那由多は先生の手だと思われる紙になってしまった身体の部分をそっと掴んだ。
「先生。先生は何で禁忌とされる神域に来たんだ?」
「え?いや。この呪いを解く為に来たんでしょ」
「いや。その前。初めてこの神域に来た時の事だ」
「いやいや。だからこれが初めて「先生。思い出せ」
那由多の真剣な表情に口を噤んだ先生は、じっと那由多のまん丸く少し赤みがかった黒い瞳を見つめた。
(まんまるい、赤い、黒い。まんまるい、赤い、黒い)
そうだ。
何かを探して。
噂に聞いた美味を探して。
「先生。思い出したか?」
「あ~え~う~」
(そうだ。神域にとびっきり美味しいスイカがあると聞いて、盗み出そうと神域に入ったら神に手厚いおもてなしを受けて。その神が現世に行きたいって言うから、お返しに現世で美味しい物を食べさせようと思って、いた、はずなんだけど。どうしてだか、幼子を拾った事になっていて、先生と呼ばれて一緒に暮らす事になって。なったんだっけ。あれ。私は)
「先生。どうした」
「那由多。いや。神」
「思い出したのか、先生」
「うん」
「じゃあ、どうして神域に足を踏み入れたんだ?」
「とびっきり美味しいスイカが食べたくて来たんだ」
「………スイカが食べたくて禁忌の神域に入ったのか?」
「うん」
「スイカは現世でも食べられるだろう」
「うん、そうだね。でも、とびっきり美味しいと聞いたらね是非食べてみたくなったんだ」
「先生。禁忌の意味、分かっているか?」
「うん。分かっているけど。こっそり入ってささって帰ればいいかなって考えたんだ」
「神に罰を下されるとか考えなかったのか?」
「神は慈悲深い方だから罰なんて下さないよ」
「じゃあ、人間の長に罰を下されると思わなかったのか?」
「思ったから、人目に注意しながら夜分に行ったよ」
「………先生」
「うん?」
「先生は酒を飲もうが飲むまいが、心配だ」
「心配してくれてありがとう」
「いや。うん。じゃあ、どうして今回は神域に行きたがらなかったんだ?」
「うん、何でだろう。嫌な予感がして行きたくなかったんだ」
「嫌な予感がする神域に私だけを行かせようとしたのか?」
「うん。君は大丈夫だと思ったから」
「はあ。まあ。いいか」
那由多は先生から手を離すときょろきょろ見渡しながら泉の中を歩き続け、一つの小さなスイカを採ると戻って先生に手渡した。
さようなら。
ありがとう。
別れの挨拶と感謝の言葉と共に。
「あれ、私は。そうか。神域のスイカを取って来たんだ」
ここより先は神域だと示す結界旗を視界の端に入れながら、男性は小さなスイカを常備していた小さな刃物で切り分けては手渡そうとして、首を傾げた。
誰に手渡そうとしたのか、一人なのに。
「うーん。まあいいいか」
男性がぱくり、スイカの一口頬張った瞬間、全身に静電気が駆け走った。
今迄食べてきた中で一番。
(2023.7.9)