第11話
ローライト・マクドゥーガルは、すべきことをする。職業軍人として、将校として、そうあるべきとされることをする。
履帯が破損した二号車の状態はより悪く、右前部の転輪が吹き飛ばされ、貫徹はないものの装甲にはあちこち被弾跡が目立ち、牽引するにしてもそれだけの価値があるかと言われれば怪しいところだった。砲弾のいくつかをマクドゥーガルのT-55Lに積み込ませ、機関銃弾も同軸の車載機銃もすべて回収した。残った砲弾はラックから取り出して車内に立てかけた。代わりに六十ミリ迫撃砲の榴弾などの爆発物や銃火器を押収し、それらを二号車の車内に積めるだけ詰め込んだ。歩兵がF1手榴弾を束ねて車内に投げ込み、全速力で疾走して塹壕に駆け込んでくるのを眺めていると、時間差でT-55L二号車から炸裂音がし、装薬が引火してハッチから火柱が上がった。次に六十ミリ迫撃砲弾が車内で炸裂し、百ミリ榴弾もさらに炸裂して砲塔がボフッと浮き上がって車体に圧し掛かった。
敵が使っていたDPM軽機関銃やPM1910重機関銃などは車体後部に二号車の乗員と一緒に乗せる。ロヴァニエミへの攻勢が失敗した今、捕虜を抱えてここに居座るわけにもいかない。捕虜はこのままおいておくしかないが、まったくの非武装で極北の地で救助を待てと言うのはサーミとしての己が許せなかった。兵の一人が戦利品代わりに持ち帰ろうとしていた、改造されたモシンナガンから照準器を取り去って、PM1910のベルトリンクから二〇発の弾を引き抜かせた。それを塹壕に落ちていた空の弾薬箱に入れて、捕虜と負傷者が押し込まれた兵舎へマクドゥーガルが持って行った。
鉄筋コンクリート造りの要塞の通路を歩きながら、マクドゥーガルはここが要塞などではなく訓練施設だという捕虜の話を思い出していた。大昔に建造されてそのまま意味を失い、戦後に一線級の装備が引き払われ、学校の国防実習を選択した学生たちが課外訓練を行ったり、予備役たちが訓練をしながら駐屯する場所なのだと。そしてそんな施設の大佐は軍内部では陰口を叩かれるような反共主義のタカ派、かつての戦争の記憶に取りつかれた活力だけのある老い耄れなのだと。
「………おれは、どうしてこんなところにいるんだ」
第十七任務部隊の隊長として、六十人を超える部下を指揮する指揮官として、そしてサーミ人のローライト・マクドゥーガルとして、なぜ自分はここにきてしまったのか、彼は考えずにはいられなかった。戦術的にも戦略的にも価値はなく、ただ敵の迂回進撃に備えた当て馬が我々だったはずだ。それが気づけば民兵同然の寄せ集めたちと交戦し、戦死者を出し、支援を受けながら進撃し、ついには彼らを撃ち滅ぼしてしまった。まだ18にもなっていない学生が、女が、怯えた表情で、戦場に打ちのめされた虚ろな表情で、マクドゥーガルを見上げていた。何故そんな目でおれを見るのだと、部下がいなければ聞いてみたかった。
右手にモシンナガン、左手に金属音を奏でる弾薬箱を持ちながら、マクドゥーガルは自分自身に応えた。勝利とは、勝者とは、賞賛と報酬よりも、敗者の怨嗟や絶望や悲嘆をその身に受ける。勝利とは、それらすべてを含むことを言う。戦いが苛烈であればあるほどに、その情念は巨大化して勝利が霞むほどの影を産み出し、勝利の陽の中にあってもそれが目に入る。おれは今、職業軍人をしていてようやく、戦争の生み出した勝利と敗北の狭間を知ったのだ。大尉にまでなって、おれはようやくそれを知ったのだ。コンクリートを踏みしめるブーツが立てる音が、マクドゥーガルにはなぜかメトロノームの音のように聞こえた。
兵舎の扉の前には衛兵としてAKMを持った歩兵が四人いたが、マクドゥーガルは彼らに鍵を開けさせ、一人でその中へと入っていった。護衛としてそのまま中へ入ろうとした歩兵は、マクドゥーガルに手で制され、そのまま彼は兵舎の扉を閉めた。
――――――
僕らがこの国防実習を過ごしてきた兵舎は、血と汗と泥の臭いで上書きされてしまっていた。ベッドは負傷者たちが寝かされ、野戦救護所の二人が忙しなくベッドを見て回っている。二人が足を向けなくなったベッドからは吐息が消え、身体の中の大事ななにかが消え、すべてが動かなくなってしまった抜け殻が残される。ありったけの医療キットを集めても、清潔な包帯とモルヒネは足りず、倉庫から引っ張り出してきたカビた包帯のカビた部分を切り取り、それを蒸留酒で満たした桶の中に浸し、乾かして使っていた。
カルラ・ハーパニエミと並んで僕は椅子に座り、二人が足を向けなくなってしまったベッドの一つの前で項垂れていた。ベッドは二つが並べられていて、僕らから向かって奥側のベッドには血で真っ赤になった包帯ばかりのアラン・メイフィールドだったものが横になっている。ほんの三十分前までは苦し気にながらも息をしていて、目立った外傷もなく二本足で歩ける僕ら二人を見て微笑みを浮かべ、涙を流していた。こんなざまになるのなら、素直に国防軍に入ってれば良かったなと苦笑いを浮かべながら、最期に静かにほうっと息を吐きだして、それきり酸素を吸い込むことを止めてしまった。
まだ辛うじて息をして、生きることをやめていないのはシニ・ケトラだった。左腕を失って、彼女の顔の左半分も包帯で覆われていたけれども、そんな状態になってもケトラはケトラだった。黒のシニカル、モシンナガンをなくしても彼女は彼女のままで、その白くて細い首に死神の鎌が食い込んでいても、まるで変わらずに僕のことを見つめるのだ。白い迷彩服の襟には使用済みのモルヒネのシレットが刺さっていたけれども、今ではもうそのモルヒネだけが彼女の味方だった。僕とハーパニエミは無力で、そのことが僕ら自身を無価値なのだと言われているようで、心が締め付けられる。ガリルを捨てた時、僕の心はもう粉々になってしまって、なにかが決定的に壊れてしまった気がしていたのに、まだ僕の心は悲しみという枷によってぎりぎりと窒息させられ、悲鳴をあげるだけの力は残っているらしい。
「本当に………二人が、生きていて、良かった」
ケトラは何度もそう言って、穏やかな表情を浮かべ、僕に手を伸ばしてきた。僕は彼女の右手をぎゅっと両手で包み込む。ケトラの温もりすらもが過去のものとなって、今こうして僕が握っている手はだんだんと体温が失われ冷たくなっていくのだ。僕の目の前で、僕の手の中で、シニ・ケトラの命はゆっくりと穏やかに、血とアルコールの匂いの中、モルヒネのもたらした安らぎの中で消え去ろうとしている。ターヴィが死んだとき、僕の壊れかけた心をその温もりで繋ぎとめてくれたケトラが、同じように死のうとしている。その時になって僕はガリルを捨てたことを、後悔した。ターヴィもレオンもアランも死に、さらにケトラが死ぬのなら、僕だって戦って死ぬべきだったのかもしれない。
けれど、ハーパニエミが眼鏡を外して涙を懸命に拭おうとしているのを見ると僕は絶望に突き落とされる。僕が死んでいたら、このドジでチビなハーパニエミの心の傷を共有してやれる人がいなくなってしまう。僕がもし死を選んでしまっていたら、誰が彼女の小さな背中に手を添えて一緒に泣いてやるのだろうか。バカだけど頼れるレオンはもういない。マイペースだけど大人びたアランもいない。そしてシニ・ケトラももうすぐ僕らの元からいなくなってしまう。その時、僕までもが死を選んでしまったら、ハーパニエミは一人ぼっちになってしまう。
「僕は、生かされたのかもしれない」
誰にも聞こえないように小さくつぶやいたはずなのに、ケトラは僕をじっと見つめて、不器用にほほ笑んだ。彼女の胸がすうっと小さく萎んでいき、その口から最後の吐息と一緒に大切ななにかが解き放たれる。僕の両手の中に残っていた命が、穏やかに、そして静かに失われたことに気づく。彼女は行ってしまった。ここではない違うどこかへ。
そうなのか、ケトラ。僕は君に生かされたのか、ハーパニエミが一人ぼっちで壊れてしまわないように、君は僕を生かしたのか。僕がどれだけ心の中で問いかけても、黒のシニカルは答えない。もう彼女はそこにはいない。ハーパニエミはもう徹底的に打ちのめされてしまっていて、椅子の上で体育すわりをしたまま泣き続けている。僕はそんなハーパニエミを見て、そのあとに虚ろなケトラの瞳を閉じてやった。目の前にケトラがいるのに、もうここにケトラはいないのだと本能的に分かってしまう。もうなにをしたって彼女には会えないし、会話もできないし、ただ一緒に歩くことだって出来はしないのだ。それなのにどうして、死というものはこんなにもあっけないものなのか。一つの命が失われる瞬間にしては、これはあんまりにも寂し過ぎるじゃないか。
僕がケトラの死を静かに受け止め、泣き続けるハーパニエミの背中を抱いてやっていると、それまで閉ざされていた兵舎の扉が開いて、モシンナガンと弾薬箱を持った背の高い男が入ってきた。彼は一緒に中に入ろうとするレツィアの兵を制して、そのまま扉を閉じてしまった。混じり気のない金髪をオールバックに纏めていて、がっしりとした体格をしている。そこそこ美形だといえばそうかもしれないけれど、その頬は泥か煤で汚れていて、少しばかり顎が張っていた。彼は兵舎を見回して、何人かがすでに息をしていないことを見ると、静かに目を閉じて首を垂れ、黙祷した。
最初はそれが誰なのかわからなかったけれども、彼の襟と肩にある階級章はレツィア陸軍の大尉であることを表していた。敵軍の大尉が、護衛もつけずに兵舎に入ってきて、無防備にも黙祷をささげているという光景は、少しばかりシュールだった。彼の背後にはいまだに忙しなく治療を続けている野戦救護所の二人がいて、痛みに呻いている負傷者が何人もベッドで横になっているのに、彼は死者にだけ首を垂れたのだ。そして彼は黙祷を終えると、いまだに健在な捕虜である僕らを見回しながら言った。
「私は、ローライト・マクドゥーガル大尉だ。我々は作戦上必要に迫られ、この場より撤退する。撤退に際しての破壊行為や捕虜の移送は行わない。武器弾薬等についてはこちらが大方処分したが、非武装で極地に取り残すのは私の流儀に反する。よって、自衛用にこのモシンナガンと弾薬を返還する」
そのモシンナガンは、シニ・ケトラが使っていたものだった。十発装填の箱型弾倉、マウントも西側製の照準器も外されていたけれども、その古びた姿と傷の付き方はシニ・ケトラのもので間違いなかった。いつ製造されたかもわからないモシンナガン、シニ・ケトラのモシンナガン。僕は気が付いたら立ち上がっていて、マクドゥーガルと名乗る敵国の軍人の前に立っていた。少しばかり困惑した様子の彼は、僕の背後を見渡して他に誰も立ち上がらずにいるのを確認して、観念したかのように僕を見下ろし、僕にそのモシンナガンを手渡した。木製のストックと鉄製のハンドガードの感触と、ガリルとは違う重みがあった。僕には、その重みに黒のシニカルの残り香があるような気がしてならなかった。
ローライト・マクドゥーガルは左手の弾薬箱をその場に置き、僕を見ながら口をもごもごと動かして、目線をずらして何もないところを見たりして、ついに言った。
「君の名前はなんというんだ」
「ユーリ。ユーリ・ヘルレヴィ」
「なら、おれを忘れるな、ユーリ。おれもお前を忘れない。おれの部下を殺し、そしておれと部下たちが殺した少年と少女のことを決して忘れない」
こつん、とローライト・マクドゥーガルが突き出した拳が僕の心臓のあたりを小突く。僕を見つめる彼の瞳には、悲しみと諦めといった冷たい部分と、熱意と覚悟がない交ぜになった感情があるように見えた。ぎゅっと結んだ唇は、それらのすべてが言葉になって飛び出すのを自分で抑え込んでいるようだった。
僕の手にあるモシンナガンの重みが、黒のシニカルが、僕の友人たちの生きた記憶と死の記憶が僕の体を駆け抜ける。それはまるで雪原に吹く一陣の風のように冷たく、肌を打って、雪のひとひらを弄びながらどこかへと消え去ってしまう。すべてが雪と氷によって白く冷たく覆われてしまっても、それですべてが忘れ去られてしまうわけではないのだと僕は知った。針葉樹の森は傷つき、そのことを記憶する。僕らもまた傷つき、その傷を一生背負って生きていくのだ。傷の意味を、生の意味を、そして死の意味を忘れてしまわぬように。
「僕は決して忘れない。ここで起きたことを、ここで生きた人たちのことを、ここで死んだ人たちのことも。あなたのことも、僕のことも」
「……それが聞けて良かった。そのモシンナガンで身を守れ。みんなを守れ。汚れた雪は、もう雪には戻れないが、汚れた雪としての生き方もある」
言い聞かせるようにマクドゥーガルが言ったけれども、僕はそれに頷くことはできなかった。
僕を見下ろす彼を見上げ、僕は両手でモシンナガンを抱きながら、粉々になった心に食い込んだ僕たちの記憶のことを思い出す。学校で僕らは勉強や先生に不平を言って、放課後になるといつも競争するように教室を出た。雪合戦ではしゃいで雪まみれになり、雪だるまを作ってはその出来の悪さに笑いあった。射撃の上手い下手でからかいあって、得意な課目ごとに訓練課程が決まるとそれを元にあれやこれやとくだらない話をした。そうやって僕らは、学生でありながらも兵士として訓練をして、そしてここで理不尽な戦争に巻き込まれ、学生であり兵士である中途半端な状態で戦って、死んだ。それが泥や血で汚れているというのなら、この世で汚れていない人間などいないはずだ。己が知らぬ罪が汚れではないというのなら、僕らは決して汚れた雪なんかじゃない。
「僕はまだ、汚れてはいない。溶けて消えてしまった友達を、死んでしまった雪のひとひらのことを、ずっとずっと忘れられない。僕は、ただのユーリ・ヘルレヴィだ」
マクドゥーガルはぐっと喉を詰まらせて、押し黙ってしまった。それ以上、彼は何も言おうとはしなかった。彼は静かに僕らに敬礼し、僕はそれにラフに返礼した。
彼が背中を見せた時、僕はモシンナガンのボルトハンドルを引いて、薬室に真鍮色に輝く7.62mm×54R弾を装填した。簡単なことだ。僕が今まで猟銃でそうしてきたようにモシンナガンの木製ストックを肩付けして、アイアンサイトを覗き込み、それをフロントサイトとマクドゥーガルの背中と合わせて、ただ引き金を引けばいいだけのことだった。それはとても簡単で、理不尽で、ターヴィやレオンやアランやケトラを襲った死のように寂しく、呆気ない。
だから僕は、モシンナガンを構えなかった。安全装置をかけ、それを握りしめながらハーパニエミの元へと戻った。ただでさえ小さいのに椅子の上で小さく縮こまって泣き続ける彼女を、僕はそっと抱きしめる。この傷は僕らだけのもの。僕らだけが一生抱えて生きていく傷だ。この傷を癒すことなどできはしない。
僕とハーパニエミは、雪が降り積もり、氷が張り、針葉樹の森が雪の粒子で煌めき輝く季節になれば、この開いた傷と見つめあい自らの無力さと現実の理不尽さを毎年思い知らされることになる。僕はそれを乗り越えたり、受け入れるつもりはない。開いた傷から滴り落ちる悲痛な血の音を聞きながら、モシンナガンを見つめ、ハーパニエミの温もりを感じながら彼女を優しく抱きしめる。彼女は頭を上げて、僕に抱きつく。二人して抱きしめあいながら、僕たちは自分たちの青春が死んだ音を聞いていた。