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灰銀の華と行く魔術世界  作者: 鮮井落葉
第二章 まっさらな本と藍の少女
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第二十三話

「師匠ー!」

 すっかり聞き慣れた声が近付いてきたかと思えば、勢いの乗ったイチジクの跳び蹴りが、振り返ったフラトの腹に刺さった。

「師匠とな?」

 斜め後ろからエンカの明らかに怪しんでいるような、面白がっているような声がフラトの耳に入ったが、面倒そうなので無視。

「おい師匠、何で何も言わずに去ろうとしてんの!」

 腹を殴られた。

「いぃぃぃ」

 ぷらぷらと痛そうに手を振るのはイチジクの方である。

 何度目の同じやり取りなのか、学習しない少女である。

「授業は?」

「先生が、ちょっとなら行ってもいいって」

「そっか。見送ってくれるのか?」

「当たり前じゃんか。臭いなあ」

「言い方。僕が臭うみたいに言うなよ」

「なははっ。あとこれ、もう外れかかってたから外しちゃったんだけど、テープありがとね。いい感じで治りかけてるよ」

 そう言ってイチジクが差し出してきた両手の指先は確かに、数日前に見たときより傷自体が小さくなっているし、ほぼ全てがかさぶたになっていた。

「そんじゃ折角だし、あげるよ」

 フラトは肩に掛けていた鞄の中に手を突っ込み、中から缶に入った軟膏と、箱に入った傷用のテープを取り出してイチジクに押し付けた。

「え、いや、でも…………」

 珍しくイチジクが遠慮した様子で受け取るのを躊躇っている。珍しくというか、こんな様子、初めて見たかもしれない。

「お礼だよ」

「お礼?」

「この数日、ヨリギのおかげで面白い経験ができたから」

 実際、イチジクに出会えなければ本を壊すような仕掛け、部外者のフラトじゃあ出来なかっただろう。

 そういう意味では、全然躊躇わなかったイチジクの極端な性格に救われたし、魔術を利用した仕掛けも見られた。

 純粋に、楽しい時間だった。

「それに、これから必要になるだろ」

 とフラトが更に強く押し付けると、流石にイチジクもそれらを受け取りつつ、おっかなびっくり振り返ってクビキを見た。

 他にも子供がいるのに、自分だけもらってしまってもいいのだろうか、と。

「もらっておきなさい。言う通りあんたにはこれから必要になるでしょうし、そういうのをもらえるだけの絆を築いたのは他ならぬイチジクなんだから、遠慮しなくていいわ」

 などとこっぱずかしいことを言った。

「じゃあ…………ありがとう師匠」

「難しくないんだから丁寧に巻けよ」

「うん! あ、それからね、師匠ー」

「ん?」

 呼びかけておいてイチジクは、すう、はあ、と一度深呼吸をしてから目を閉じ、受け取った缶と箱を左手だけで抱え直す。

「?」

 そして。

 そして――目を開くのと同時、あまりにも自然に。

 不自然なくらい自然体で、フラトに向けて一歩踏み込んできた。

 踏み込みと同時に、イチジクの右拳が放たれる。

「っ!」

 フラトはその拳を、ぱし、と。

 お腹辺りに自分の手を置いて受け止めた。反射的に、思わず、受け止めてしまっていた。

「…………」

 これまでふざけ混じりに何度もイチジクから殴られ、フラトは受けもせず殴らせていたのに。さっきだって、殴ったイチジクの方が痛がっていたのに。

 なのに今の一歩は、一撃は――咄嗟に、手が動いた。

 いや、動かされた。

 受けてみれば矢張り、きっと食らったところで痛みなんて感じるはずもない、これまでと同じくらい軽いものだったが。

 ただ、イチジク・ヨリギの纏った雰囲気が、その洗練されたように見えた動きが、一瞬だけさも強力な一撃であるかのように錯覚させ、フラトに受けさせた。

「へへぇー。どうよ師匠」

 拳を突き出したまま、イチジクがへらっと笑顔を見せて言う。

 その姿に先ほどまでの雰囲気はない。

「…………」

「え、あれ? もしかして師匠怒ってる? またこの前の朝に見せてもらったやつの真似だったんだけど、駄目だったかな?」

 結構自分の部屋で練習したんだけど…………、とちょっと慌てたように、焦ったようにイチジクが言う。

「お前…………真似してみたって、見てたのあの一度くらいだよな?」

「ふふん、記憶力には自信があるイチジクさんなのです」

「…………」

 なんと言えばいいのか、フラトは言葉に詰まった。

 確かに、一緒に朝稽古をした、というかフラトが朝稽古をする傍らでイチジクが寝ていたあの日。

 その日の内に、フラトの借りていた部屋にイチジクが来た際――あれは蹴りだったが、片鱗は見た。

 妙に様になった蹴りを彼女は放って見せた。

 ちらっと視線をやると、クビキも驚いたような表情でイチジクのことを見ていた。

 その様子から、普段からイチジクが体術の稽古なんてしていないのがわかる――というか、この施設でそういったことは教えていないのだろう。だからこそ余計に、その『様になった』ように見えた動きが、異様に浮き彫りになったのだ。

「カイガイさん、こいつ…………」

「まあ、うん。あんたが何を言いたいのかは大体想像がつくわ。大丈夫よ。訓練には体力も必要だし、ある程度体術も教える予定だから。その過程で、本人の資質と希望を鑑みながら考えていくわ」

「はい」

 出来ることならクビキとの実践稽古までできるようになるといいのだが、なんてフラトは思ってしまうが、流石にそこまで言うのは踏み込み過ぎか、と言葉を飲み込む。

 やらせるのは良くない。

 魔術はどうしてもイチジクが習得したいと願って、願って、その末にようやくとっかかりを掴んだのだ。

 だから、体術の方も、もし彼女がそれを望むなら――くらいがいいだろう。

 しかし、いやはや。

 一度見ただけであそこまで再現できてしまう才能というか資質というか――ちょっとだけ羨ましいなあと思ってしまうフラトだった。

「師匠の動き、出来てた?」

「いいや」

 とフラトは首を横に振る。

「ええええー」

「僕だってそれが出来るようになるまでに何百、何千回って練習したんだぜ? そうそう簡単に、ましてやちょっと練習してみただけの奴に真似されてたまるかよ」

「むぅ」

 唸るようにイチジクが頬を膨らませる。

「でも、様にはなってたと思うよ」

「え!? ほんと!?」

「ほんとほんと」

「ちょっと言い方嘘臭くない? 臭くない?」

「お前、師匠って呼ぶくらいなんだから少しは僕の言葉を信用しても罰は当たらないと思うぞ。あとどうしても僕を臭い奴にしようとすんのやめろ」

 呆れたようにフラトが言うと、イチジクがからからと楽しそうに笑った。

「よし、決めた」

 意気込んでイチジクが言う。

「私も、師匠の動き忘れないように朝とか、空いてる時間にもっともっと練習する」

「そっか」

「えー、それだけ?」

「最初は少しずつでいいからな。いきなり張り切り過ぎても、身体が付いていかないだろうし。身体を壊したら元も子もない」

「はあーあ。師匠はさー」

 と嘆息混じりに、イチジクが非常に腹の立つ表情を見せてくる。

「師匠は、こんな子供でもわかっちゃうくらい綺麗な身体の動きが出来て、めっちゃ鍛えてて、そんでもって強いんだろうに、緩いなあ」

「いやあ、強いかどうかはわからんよ」

「わかるよ」

「何でさ」

「なんていうか、うーん…………勘ぎゃね」

「いいところで噛むなよ」

 わかりやすくイチジクの顔が赤くなった。緩いのは一体どちらなのか。

「師匠は、これから旅に出るの?」

「まあ、そうなるかな。そうする予定」

 というか言ってしまえばフラトにとっては現在進行形で旅の途中なのだが。

「そっか」

「うん」

「次会うときは、驚かせてみせる」

「楽しみにしてるよ」

 イチジクが顔の横に左手を掲げたのを見て、フラトは右手を上げて――ぽちん、と叩き合わせた。

「にしし」

 イチジクが嬉しそうに笑う。

 それを見てフラトもちょっと可笑しくて口角を上げた。

「んじゃ、またな」

「またね師匠……………………じゃない! 待って師匠!」

「何だよ、どうした?」

「名前」

「え?」

「師匠の名前、教えてよ」

「…………」

 一瞬、蜘蛛頭、のままで通してやろうとも思ったし、いくら言っても『師匠』呼びが変わらないのに、今更名前を教えることに意味があるのかと思ったが、イチジクもふざけているような雰囲気ではなかったの、茶化すのはやめておいた。

 素直に教える。

「フラト・ホウツキ」

「フラト・ホウツキ…………師匠。わかった。憶えとく。じゃあまたねホウツキ師匠」

「次会ったときは、その師匠呼びがなくなってることを願っとくよ」

 そう言ってフラトはイチジクからクビキに視線を移す。

「では、改めて」

「はいはい」

「それでは」

 二人に手を振って見送られながら、今度こそフラトは自分のブーツを履いて紐を縛り、エンカと共に外へ出た。

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