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ハンスはそれに従うつもりだった。いや、そうした意思など最早関係無く、恐怖に怯える身体は自然とグスタフに屈しただろう。だが、何かがハンスの胸の奥につっかえた。堪えきれずに吐き出すと、それはか細い疑問となった。
「な…… なんで…… こんなこと、するの?」
グスタフは、嘲りの笑みを浮かべる。
「だから、貧乏人どもの為だと言っているだろう。何べん言えばわかるんだ。クズ! お前なんかよりも、俺に使われたほうが、何だって、ずっとマシなんだよ!」
荒々しく吐き捨てられた筈のそれは、しかしハンスにとって驚くほど虚しく響いた。トンネルの中で音が行き場も無く反響するかのようだった。吠えるグスタフが何処か哀れにさえ思えた。そしてハンスをあれほど縛り付けていた恐れや怯えといったものは、跡形も無く消えていた。ハンスは財布の口を空ける。その手は、もう震えていない。
「そうだ! 全くもってクズが。早くこうしておけば、痛い思いもしないで済んだんだ」
グスタフはハンスの右肩を掴んでいる手に、また一つ力を加えて引き寄せ、もう片方の手で募金缶を掲げる。ハンスは財布から一番大きな硬貨、銀色の五十ペニヒ硬貨を摘み出す。グスタフの目がにやりとした。それもハンスには酷く下卑たものに映った。
「誰が! お前なんかにやるもんか!」
ハンスは募金缶に五十ペニヒ硬貨を入れた。グスタフのではなく、ハンス自らの缶に。ハンスの手元でコインが弾んだ。瞬間、動揺の為か、肩を掴んでいた力がめっきりと抜けた。それを知るとハンスは笑みを浮かべた。いや、全くの無意識の所業だったのだから、浮かべさせられたといった方が正しいのかもしれない。
思い出したように改めて力が込められ、拳を襟に持っていかれ、吊るし上げるようにされても、ハンスには最早滑稽にしか思えなかった。グスタフは先程までこれ見よがしに掲げていた募金缶を、怒りと共に石畳へと叩きつけた。そうして空いた手で、ハンスをぶん殴った。
「クズが!」
例えば遊びの延長での喧嘩のそれとは違い、首の骨がきしみ、頬に痛みが熱として残るような拳を受けたのは、ハンスには初めてのことだった。それが教会の鐘を打つかのように、何度も何度も繰り返される。一発、二発、三発……。十発を超えると、ハンスはそれを数えるのも止めた。
しこたま殴られると、壁際に押し付けられた。そうして延々と殴り続けたグスタフが息の乱れを正そうとした際、僅かに間ができた。奇妙な間だった。グスタフの後ろでは取り巻き二人が、オリンピックのレスリング観戦に興じるかのように野次と歓声を挙げていた。けれど、ハンスの印象に強く残ったのは、更にその向こう側で、怪訝そうな顔をしながらも足早に過ぎていく沢山の通行人だった。そしてハンス自身、彼らと同じように、こんなことは、たいしたこともない他人事のように感じられたのだった。
グスタフの蹴りが腹に飛んだ。胃が潰れるかのような衝撃が走った。ハンスは呻き声を挙げるが、グスタフは容赦ない。腹の中を暴れる痛みが抜けぬうちに、次の蹴りがぶつけられる。息が詰まり吐き気がした。ハンスは涙を流していてツバを垂らしていた。ツバには血が滲んでいて、それは口の中の切り傷からのものだった。飽きるほど蹴ってから初めて、グスタフはハンスの襟を放した。ハンスはそのまま崩れ、石畳にしゃがみこんだ。
「クズが! クズが! クズが!」
グスタフは金を財布ごと奪い、足元のハンスを二度、三度と蹴りつけて、大通りを去って行った。