オレンジ色の街灯にオーロラの夜空
忙しいだけの日常の暮らしの中で
旅をする暇も無く自由をも奪われている
そんな忙しくもある日々に
私の過去の一人旅を此処に遺そうと想う。
まだ私が、幼稚園に通っていた頃から中学時代まで
親父の運転するセドリックに揺られ
東北秋田に今もある母の育った家に
夏休みとなれば毎年出掛けていた。
親父は自分でトラックの会社を経営していたので
母親とまだ小さかった私の弟と3人で出掛け
住んでいた栃木市から親父が追っかけてくる
そんな夏もあり 北海道からは従姉妹家族も集まり
雄物川の堤防で一族揃って写真を撮ったりもした。
小学校にあがる前には家の事情で大阪に住むことになり
方言の違いに、慣れるまで時間がかかったが
今でも、言葉には馴れない部分もあり訛りもある
私が中学生時代に、親父側の従兄弟の医者の大伯父が亡くなり
その数年後 親父側の私からすると
祖母に当たる人に絵を教えていた
一人の画家が京都で亡くなった。
当時は、まだ若かった祖母も今では90代になったが
今でも現役で絵を描いて過ごしているらしい
そして私が17歳になったある日
青春18切符でトワイライトエクスプレスという
緑色の夜行列車に乗り 一人 雪の北海道を目指した。
大阪で暮らす様になり 初めての一人旅に
不安と期待が入り交じりながらも
見慣れたガラスの向こう側の風景に
一人寂しくもあった。
秋田を越えて初めての北海道に
しかも時期は十月というのに雪が降っているらしく
そんな話を電話の向こうの聞き慣れている叔父の声に
早く会いたいという想いでいっぱいだった。
北海道を目指し揺れる列車に
なかなか眠れずに、閉めたカーテンの隙間から
見慣れた外の風景を眺めたり
列車内のラジオから流れる放送に
耳を傾けたりしながら暇を持て余していた。
今でもあるのかな 当時は新聞の片隅に
四コマ漫画等が描かれていたが
その四コマ漫画の単行本を何度も読み返していた。
列車も見慣れた秋田を越え青森も過ぎ
初の青函トンネルへと進んでいた。
トンネルを抜ければ 白く輝く銀色の世界
函館を越えて 目指すのは私が産まれた苫小牧へと
そして迎えに来ていた叔父に 数年ぶりにあった感動
いつしか背丈も叔父を越え178になっていた自分に
小さくも見えた叔父の運転するスカイライン
駅前の細い通りでは、車が軽くスリップしたが
雪の世界での運転に慣れている叔父をかっこよく思う
次の日、車内の電気を付けたままにしていたらしく
バッテリーが、あがったようで
当時、叔父が働いていた木材加工件家具制作工場から
トラックを持って来て、大雪の降る中に
トラックとスカイラインをケーブルで繋ぎ
エンジンを掛け、そのまま先祖の墓参りへと出掛けた。
雪の北海道で、何十センチも積もる雪に
足元に何があるのかさえ判らずに歩いていたが
足元も見えない大雪の中で、驚いた事があった。
白い雪の上を歩きながら、所々にある灰色の石に
これは、何だろうかと、手で雪を払うと
どうやらその灰色の石は、墓石らしく
私は知らぬうちに、墓の上を歩いていた様である。
雪の世界では、珍しくもない光景らしい
十月というのにマイナスの気温に
家の屋根から流れ落ちる雫で氷柱が出来るようで
初めて、まじかに観る氷柱に
何時かのゲームを思い出した。
夜になり、初の北海道に少し景色を思い出にしたいと
オレンジ色の街灯の輝く寒空の中を
従姉妹が働くセイコーマートだったかなを目指した。
星の輝く夜空には緑色のオーロラが輝いていた
久しぶりに見る従姉妹に美人だなと更めて再確認
危うく恋に落ちそうになった。
そして初のスキーでアルファトマムへと
アルファトマムでは 馴れないスキーの板に
何度も外れる板に悪戦苦闘しながらも
教わることも無く雪の上を滑れたのは本人も驚いた。
夜には、ジンギスカンを食べ
初のカラオケにも挑戦し
当時の私は聴く音楽のジャンルも少なく
叔父の若い頃に流行った
いちご白書をもう一度を唄い
叔父はSACHIKOという唄を唄った
去年には毎週日曜日にラジオでDJを務める
叔父と私がカラオケで唄った歌手本人に
リクエストをしてラジオネームを呼んでもらい
リクエストした曲も掛けてもらった。
そして帰りの列車に乗る日がやって来た。
見送る従姉妹家族の姿にまた会おうと約束をして
一人 雪の降り積もるホームに
その光景を脳裏に焼き付けた。
当時に乗ったブルートレインや
トワイライトエクスプレスは今は何処に有るのだろうか
また、いつかあの列車に乗り一人旅がしたい
出来ればまた揺れる列車のガラス窓から
あの当時の景色をもう一度観る事が出来たらと願う。