7羽
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「涙目のルカ、あなた一体どこから来たの?」
アイオーンは何気なくルカに話しかけた。刹那と上級天使の話が終わるのまでの暇つぶしだ。
「……」
ルカは何も答えない。
「ねぇ、あなたの目的はなんなの?」
答えないルカにアイオーンはそう続けて聞いた。
「……」
ルカは下を向いたままだった。
「……刹那様じゃないとお口が開かないのねぇ」
アイオーンは口を引きつらせながら笑った。怒りを露わにしたが、ルカは何も見てはいなかったし、見ていたとしても何も感じないだろう。
「涙目のルカさん、質問に答えてくれる?」
そこで、ずっと黙ったままの絵里奈がルカと向き合った。ここにきて、初めてまじまじとルカと向かい合った。
「質問によるわ」
絵里奈には返事をした。アイオーンはムッとする。しかし興味もあった。
「いいわ」
絵里奈と目を合わせたルカ。その目から頬を伝う涙はどこへ流れていくのかわからない。
「アイオーンと同じ質問だけど……、目的は刹那?」
絵里奈は真剣な表情で、睨みつけていると言っていいぐらいの顔でルカを見ていた。
「違う……」
ルカは呟くように言うと目線を下へと戻した。
「彼が私を誘うから」
そして続けてそう言った。
「だから、のこのこついてきた? ついてきたのは刹那だからでしょ? ねぇ、刹那だから来たんでしょ? 今まであそこから動かなかったし、動く必要なんてなかったんでしょ? だったらやめて!」
絵里奈は今まで保っていた冷静さのたがが外れた。
「違う……」
ルカからの言葉を聞くたびに頭の抑制装置が次々に解除されていくようだった。
「刹那を巻き込まないで!」
「違うわ。私の目的は『キレイな愛』」
静かな声で、ルカははっきりとそう言った。俯いた顔を再び上げて絵里奈を見た。
「その愛を……、刹那に求めてるんじゃないでしょうね」
絵里奈の震える手。
「どうしたの?」
それを見たルカが言った。
「彼のこと、好きなの?」
その瞬間、完全に頭のネジが飛んだ。絵里奈はカッとなった。
「そ……うなの?」
アイオーンはぽかん、とした様子で事を見ていた。どこか他人事だった。
「そうよ……。そうよ、これは嫉妬よ! いつも一緒にいた私が、いきなり現れたあなたに愛してる人をとられそうになってる。こっちは……、腹が立つに決まってるじゃない! しかも、こんな場所で、たった一目……、一目合っただけで……」
ずっと刹那を見てきた。だから絵里奈にはわかった。
「ただの嫉妬ですか」
ルカの言葉。
「醜い、キレイじゃない。私に言われても困ります」
その言葉に、絵里奈の頭は真っ白になった。正しい。ルカは正しいからこそ許せなかった。そしてこの醜い感情は、理不尽だと思った。今、愛が足りないのは私の方なのに。きっと、私なのに。どうして私ばっかり汚れていくの?
「何よ……、なんなのよっっ!!」
絵里奈の目からも涙がこぼれる。大声で全てを拒否するように叫んだ。
刹那にもその悲鳴は届いた。
「ん? 今の声は……」
刹那は閉じられた扉の向こうを見た。3人を置いてきた場所。アイオーンはもういないのかもしれないけど。
「絵里奈の声だ。何かあったのかな……」
あいつ、ここに来てから何かおかしいし。刹那は思った。
「ちょっと行ってきます」
刹那が駆け出そうとしたとき、
「セツナ……、あの子の気持ちに気付いてあげて」
上級天使がそう言った。
「?」
刹那はその言葉の意味がわからなかった。手に上級天使からもらったディスクを持って、そのまま扉を出た。
扉を出て左右を確認する。少し奥まった場所に絵里奈の横顔が見えた。
「おい、絵里奈……、なにやって……」
「キレイじゃないのはどっちよ!」
刹那の声は絵里奈へ届く前に打ち消された。
「なんで、なんで行異はあの時あなたを襲わなかったの? あんた、本当は行異みたいな化け物なんじゃないの? あなたに、『愛する』なんてこと、できるわけない……」
その時、刹那が絵里奈の肩をつかみ、自分の方へ顔を向けさせた。
「絵里奈! 何言ってるんだ!? ルカが傷つく」
「え?」
刹那はそのまま絵里奈の肩から手を放し、ルカの方へかけよった。
「ルカ、大丈夫か?」
しゃがみ込んでいるルカの肩に今度はそっと優しく手を置いた。
「春名さん。行異は悪いものではありません」
ルカがスッと刹那を通り越して、絵里奈に向かってそう言った。
「……くっ」
絵里奈は唇をギュっと噛んだ。
「絵里奈?」
刹那は絵里奈の顔が涙で濡れていることには気付かなかった。
「あははっ……!」
次の瞬間絵里奈は顔を手で覆って笑いだした。
「笑わせないでよ、涙目のルカさん。なんであなたが行異を庇うの? あなたもやっぱりあの化け物の仲間なんでしょ? ねぇ、そんなあんたが『キレイな愛』なんて意味わかんないもの探せるわけない……」
「絵里奈……」
刹那の手はルカの肩から放れていた。とても辛そうにルカを罵倒する絵里奈へと意識は持っていかれ、ルカの体がガタガタと小さく震えだしたことに気付くのが遅かった。
「あんたは醜い……あんたはキレイじゃないわ!!」
泣きながら言い放った絵里奈。それは、ルカの危うい均衡を破るのに十分な言葉だった。
ドクンッ!!
「なっ!」
刹那はその音がした方へ反射的に顔を向けた。
ルカの背中から羽が生えてくる。それは上級天使やアイオーンの持つ羽とは違う。ドロドロとしていて、べったりと濡れている。
知らぬ間にたくさんの行異がルカに集まるように壁じゅうに浮き上がってきていた。
包帯で見えなかったルカの左目は、青い目ではなかった。包帯から滲み出てくるのは赤い液体。それが解けた時、そこにあるのは行異の目だった。その目から、赤い涙が落ちる。
「行異だわ! ルカは、行異と人間の狭間にいたのよ。でも、今行異になった!」
アイオーンは目の前の光景を暫く眺めることしかできなかったが、やっと震える手でルカを指さし、そう言った。
「違う……、まだなってない。そんなわけない!」
ルカは露わになった瞳をぐるん、ぐるん、と不器用に動かしていた。
「刹那! 刹那離れて!」
絵里奈はゾクっとして叫ぶ。ルカの体じゅうから羽根が湧きでてくる。その光景はおぞましいものだった。
「刹那! 行かないで! 逃げようよっ!」
絵里奈は叫んだ。私は近づけない。怖くて近づけない。きっと、こうなった責任は私にあるから。でも、それでもどうしても嫌だった。絵里奈にとって、こうなったことは好都合のようにも思えた。
「逃げる場所なんてどこにもないんだよ!」
刹那はそう答えた。そう、ここから先、道なんてない。
「こうなった責任は僕にある。僕はルカを、行異から救わなきゃ」
「刹那!」
「絵里奈、わかってくれ」
絵里奈にとって絶望的な状況だった。わかりたくなんてない現実。
「私を……、私を守って!」
絵里奈の口から本当の望みが発された。
「……絵里奈、僕は、ルカを守らなきゃ。アイオーン、絵里奈を頼む」
暫くの沈黙の後、刹那はそう言った。
「う……、うん」
アイオーンはそう返事をするしかなかった。
「……」
ぼそ、と何かを呟く絵里奈。
「春名絵里奈?」
薄情なはずのアイオーンも、心配せずにはいられなかった。
「醜くて……、キレイじゃなくて……そして傷つくのも……私だわ」
絵里奈の囁き。
アイオーンにはちゃんと聞こえてしまっている。本当に伝えたいことは、いつも誰にも届かないのに。