3羽
3
「こんな場所私知らないわ」
絵里奈は立ちすくむ。
「じゃあ和加が言ってたことはほんと?」
素晴らしくわかりやすい、単純なる一本道が2人の目の前にある。その道しかない。確かに、これなら道案内なんていらない。薄いピンクとグレーが混ざった煙がぼんやりとたちこめる。そんな、不思議な霧のかかった世界だった。全てを見渡すことができないのは、ここは何か後ろめたい場所であることの象徴であるかのようだった。
「とりあえず、一本道だ。このまま進んで行けばいいんだ……」
「嘘かもよ!」
「天使の導きがあるって和加が……」
「嘘かもよ!」
絵里奈は不思議な空間に投げ出されたことによって、何か悪いものにつかれているかのように不安をあおることしか言わなかった。刹那はしばらく絵里奈の顔をどこか悲しげに見つめた。
「かもしれない、かもしれない、そんなんじゃ、どこへも行けないだろ?」
刹那は絵里奈に向かってそう言うと足を一歩前へ出した。
「刹那……」
「天使がいた」
刹那は後ろにいる絵里奈に向かって自分に続くよう促した。
「この世界に天使がいた。僕は、ずっと待っていたのかもしれないこの時を」
「刹那?」
刹那は視線を自分の右手にやった。
「この世のものではないと思ってたんだ」
そこには、禍々しいのか、神聖なのか、危うい均衡を保つ紋様が刹那の右手を、蝕んでいる。刹那はこれに守られているとは思えなかった。
「行こう、絵里奈。真実を求めることは、決して無駄なことではないから」
「刹那……」
絵里奈は刹那の声にうっとりとしていた。刹那のいる世界ならどこだっていいんだった。絵里奈がずっと、あたりまえのように刹那の傍にいるのは、刹那から離れないのは、あたりまえのことだった。刹那のことがずっと好きだった。
「そう、だね。ごめん、いきなり。あたしから来たのに」
絵里奈の顔に笑みが戻ったその時、刹那の右手から光が放たれた。
「うわっ!」
「きゃっ!」
2人は悲鳴を上げる。眩しくて、眩しくて、意識を持っていかれそうだった。
『導かれし者よ、私の声が聞こえますか?』
それは、きっと、全てのものの母のようなあたたかさと厳かさを持つ声だった。美しいことには変わりない。だけど、それは儚いような美しさではなくて、確かにそこにある、重々しい強さを秘めた響きがあった。
「きっ、聞こえる!」
刹那は眩しそうに顔をしかめながらもどうにかして目を開こうとした。神々しい光の中に、輝かしい金色の長い髪をたずさえた女性のシルエットが見えた。背中には天使の証明、翼が生えている。
『和加がちゃんと、連れてきてくれたのですね』
「だっ、誰なんだ? 和加が言ってた天使様か?」
『わが名は上級天使。その名だけで結構。そして、あなたを導く者。私はあなたの目的地、夢遊器官塔中央部にいます』
金色の髪の隙間から、耳に飾られてある赤い宝石が見えた。
『さあ、私に近づいて下さい』
「近づく……っていっても、あなたは透けている……」
刹那は薄らと天に浮かぶようなシルエットに向かってそう言った。
「はやく、行き方を教えて下さい!」
絵里奈が懇願するように叫ぶ。
『こっちへ来て。セツナ……』
その声は、逆らうことのできない限りない善なる声だった。天使様が、笑いかけている。
「……」
刹那はその声に足を踏み出した。
「刹那!」
絵里奈はそんな刹那を呼びとめるように叫んだ。それでも止めることはできず、ただぎゅっと両手を握り、刹那の背中を見ていた。
『導かれし者、セツナ……』
上級天使は呼びよせる。
なんだろう? 上級天使に近づくほどに刹那は何かを感じていた。
『感じて。夢遊器官塔の気配を。その方向に私たちはいる。すぐよ、もうすぐ。私はあなたのすぐ傍にいる。この地をその足で踏みしめたその瞬間から、私はあなたの傍にいる。会いましょう、すぐに。まっすぐに進みなさい。私の、この気配を感じて……』
なんだろう? この上級天使の……。
刹那は上級天使の声を聞きながらもどこかで思う。
上級天使の、この匂いは。
「わっ!」
そこで、一筋の光が再び放たれたと思ったら刹那の右腕に落ち着いた。
「……刹那」
不安そうに絵里奈が呼んだ。
「行こうか」
刹那は明るく絵里奈に向かって言った。
「うん……」
絵里奈の不安は解消されていないらしい。
「大丈夫だよ」
刹那はそんな絵里奈に向かって言った。
ザッザッザッ……。コツコツコツ……。
無言の中、足音だけがこの世の音だった。
ザッザッザッ……。
コツコツコツ……。
コツコツ……。
「ストーップ!!」
耐えきれなくなった絵里奈が叫んだ。
刹那は言葉の通りに立ち止まった。
「な、なんだよ」
「きついし、すぐじゃないし、きついし!」
絵里奈はげんなりとした様子で訴えた。
「どこがすぐなのよ!」
「まぁ、ごもっともかもしれないけど」
刹那も少し疲れていた。
「なぁんでこんなに静かなの? 気味悪いよ。少し休もー」
絵里奈はその場にへたり込んでしまいそうだった。
その時、
ドクンッ
「聞こえる……」
刹那は呟く。
「え?」
ドク、ドク、ドク、ドク……
「な、何よ。なんなの?」
心臓の音。自分の? いや、違う。
ドクンッ……!
「はっ!」
ひときわ大きな音がした瞬間、刹那は振り返った。そこに……
「羽……」
一つ目の羽と目が合った。
「きゃああああ!」
絵里奈は叫んだ。
「きっ、気持ち悪い!」
悪態をつく元気はあるようだ。
「行異だ……」
あの時、和加に見せられた、あの悲しい生き物。
「どっ、どうすんのっ!?」
絵里奈は刹那の後ろに隠れる。ズルリズルリと近づくその羽。頭を支配されそうになるほどうるさい命の鼓動が聞こえる。行異の心音か?
「にっ、逃げる!」
刹那はとりあえず走り出した。
「えっ? 待ってよ!」
絵里奈はそれに続いた。
ドク、ドク、ドク……
こっちの心臓にも悪いその音は鳴りやまない。
「ねぇ、ずっとついてくるよ、結構足はやいよ。足あるのか知らないけど」
「うるさいな……」
呑気なもんだ。刹那は思った。だけど確かに、このままじゃラチがあかない。
「あっ!」
そこで刹那は急に立ち止まった。
ドンッ
お約束のように絵里奈は刹那の背中に頭をぶつけた。
「ちょっと!」
「そうだ! この剣があるんだった!」
刹那は背中にしょったままの、和加からもらった聖異剣を鞘から抜いた。両手でしっかりと握りしめ、行異と向かい合った。
絵里奈は刹那の後ろに身を隠す。
羽が地を這って迫ってくる。
「弱点は……、目、かな?」
不思議な感覚で前へ前へと進む行異を、刹那は立ち止まって見つめた。大きな目は、自分を捕らえたままだ。あの視界からは逃げられないだろう。刹那はそう思った。
的は、でかい。
刹那はしっかりと行異の目の瞳を剣の先端で捉える。これ以上前にきたら、自滅するだけだぞ。
それでも、行異は迷わず刹那の方へ向かってくる。
「チッ……」
なぜか舌打ちした。
「刹那っ!」
後ろで絵里奈が叫ぶ。
「わかってる!」
刹那は、行異の目に向かって剣を突き出した。ドクンッ……!!
「はっ……」
刹那が剣を突きさした目から、涙が流れていた。いや、違う、血?
そのまま羽根をぱらぱらと落とし、行異は形を失っていった。赤い血の中に、羽根が一つ浮いていた。
「泣いていた?」
やはり涙を流していたように刹那には思えた。その横を絵里奈が通り過ぎた。
「絵里奈?」
絵里奈はあんなに怖がっていたのに、液体と一つの羽根になった行異のもとへと近づいていった。
「血の涙よ、かわいそう……」
そしてしゃがみ込むと一つの残った羽根を手にとりそう言った。
「絵里奈?」
それは絵里奈じゃないみたいだった。
「におうの……、この羽根、におって」
そう言って絵里奈は刹那に羽根を渡した。
「涙で濡れてる……」
「ねぇ、どこの匂い?」
絵里奈は立ち上がった。絵里奈の目から光が消えていた。それを不思議に思ったけど、刹那はとりあえず無視した。
「あ……」
そして気付いた。
「上級天使の……、夢遊器官塔の匂いだ!」
あの時の、匂いだ。
「その場所は、こんな化け物がいっぱいいるところよ! 行きたくないわ……」
絵里奈は弱弱しく、少し体を震わせながらそう言った。
「絵里奈が自分から来たんだ!」
刹那は絵里奈とは逆に強い口調で言う。今更引き返せない。それだけは確かなことだった。
「僕にはわかる。必ずあそこにユッチはいる」
それもまた、確かなことだった。
「そうだよね。ごめん、刹那。私からきたのに」
「ううん」
刹那は優しく笑った。
「いこう。上級天使が言ったことが本当なら、もうすぐだよ」
刹那がそう言うと、絵里奈はつられて自分も笑っていることに気付いた。後悔してないんだ、何もかも。この世界へ来たことも。私と一緒にきたことも。
どんどん好きになる。刹那。
「あっ!」
優しい雰囲気を崩す刹那。間抜け面で大声を出した。
「なっ、何? びっくりした」
「上級天使……、気配を感じていけって……」
『まっすぐに進みなさい。私のこの気配を感じて……』
「確かに、そんなこと言ってたかな。でも、私は少し離れてたし。刹那は何か感じたの? 上級天使の気配ってやつ」
絵里奈は口に手をあて、上級天使の言葉を思い返そうとしていた。
「感じた……」
刹那は言った。
「感じたんだ。行異に近づいた時。行異の羽根をにおったとき……」
「え?」
絵里奈は嫌な予感を感じ取った。
「確かに、上級天使の、夢遊器官塔のにおいがした!!」
「でもっ! それどういう意味ぃ? わけわかんないよ。入り口が行異とでも言うわけ?」
「上級天使はすぐって言ってた。行異が現れればすぐなんだ。この道に終わりなんてないんだ」
刹那は確信したようだ。
「でもっ!」
絵里奈は全然わからなかった。
「きっと行異の中に僕らは入れるんだ」
「えぇっ! 何言ってんのよマジで!」
絵里奈は青くなる。
ドクン……ッ
「来た」
刹那は静かに言った。
「ど、どうやって入るのよ」
「こっちから突進するんだよ、絵里奈」
にっこりと笑って刹那は言った。何よ、その笑顔。絵里奈は少しムスッとする。
「透けてるっていうのね」
「そういうこと。大丈夫、確かに上級天使の匂いだった」
「じゃあ、夢遊器官塔は……血の匂いってわけね」
「絵里奈?」
絵里奈は光のない目をしていた。たまにある。和加と出会って? ここへ来てから? 絵里奈の様子がおかしい。
ドク、ドク、ドク、ドク、
ズル……
そんなことを考えている余裕はない。逃げない2人のすぐ傍に行異は迫っていた。
「うっ!」
大きな瞳。ガラス玉。とてもキレイなはずなのに。どうしてこんな異形なものへと変わったんだ。
「僕に続けっ!」
「うっ……」
でかい目に見つめられると壊れそうになる。絵里奈が一歩下がる。
「絵里奈! ついてこい!」
「うんっ!!」
今度は剣を抜かない。お前の目の中に飛び込む。目をつぶったままの絵里奈の手をとり、刹那は行異の一つ目を見つめ続けた。どんどん大きくなる。
「うっ」
刹那はつい、小さく声を漏らした。ああ、なんて悲しみ……。『敵』なのか? 本当に。
ドスンッ!!
「うわっ!」
「きゃっ!」
「いったぁーい……」
そう言った絵里奈はしっかり刹那を下敷きにしていた。
「僕のセリフだ」と、刹那は言いたかったが言わなかった。
「すごーい、刹那。これ、本当にあの行異の中なの? とってもキレイじゃないの!」
絵里奈はまるでお城に来たかのようにうきうきしていた。元気になったのはいいが、ふに落ちないぞ。刹那はまだ床につっぷしたままだった。
はぁ、よかった。もしここが入り口じゃなかったら……。あの時は強い意志を持っていたが、冷静になった時に体に震えがきた。よかった……。刹那は心底そう思った。
「信じられない。こんなところが行異の住処なの?」
「本当だな……」
刹那がやれやれ、と言った様子で答えた。
「そう、ここが無遊器官塔最下部よ」
「だっ、誰だ!?」
刹那は飛び起きる。
「はじめまして。回音刹那」
ここは、背中に羽が生えていることが当たり前の世界だ。
羽を持った美しい女。待っていた、と言うように、やさしく刹那に笑いかけていた。