29 光。
ぱたり、ぱたり。
水音と共に、体温が奪われていく。鉄臭い臭いに包まれて、少しづつ呼吸が細くなるのが他人事のように感じた。壁に預けていた背中がずるりと滑って、俺はそのまま床へと崩れ落ちた。
出血が多いのは、左肩と脇腹。致命傷はおそらく脇腹の方。ディディーに無理矢理持たされた治癒の陣を使えば傷は塞がるかもしれないが、すでに血液を失いすぎた。魔法は万能ではない。ただ傷を塞いだだけで適切な処置をしなければ意味は無い。一度意識を失えば、もう二度と目覚める事はできないだろう。
――――格好悪いにも程があるだろう
笑おうとしても声にならず、空気の漏れる音がしただけだった。本当に、どこまでも格好がつかない。
まさか、俺の姿を見た途端に国王自らがいきなり攻撃してくるとは思わなかった。馬鹿だと思った事はなかったが、王としての矜持よりも自分の命を迷わず選択した事には、素直に感嘆した。
彼は正しい。いちいち上司に指示を仰ぐ兵達に任せていたのでは、俺を止める事はできなかっただろう。生きる為の最善の方法をあの男は選んだ……はずだった。
「さようなら、皆さん」
そう言って笑ったイシドールの清々しい笑顔を思い出して、苦笑する。簒奪が成功すれば、皇太子は無事ではいられない。逃げ出すのが道理。どうせなら
そのついでに、憎い男の首を。
前触れなく国王の首を刎ねたイシドールの心中を、不完全ながらも察する事が出来たのは俺だけだっただろう。血溜まりに臥した俺を捨て置かず、助け出した理由はわからない。
「子供達を迎えに行きますので。後は自分でどうにかして下さい」
……そう言って、あっさり放り出したから、ただの気まぐれだったのかもしれない。女神が悲しみますと、どこか嬉しそうに言っていたから俺が死ねばリュミエに会いに行く気か? 死神に撃退されてしまえ。
――――リュミエール
俺を馬鹿だと思っているだろうな。違うんだ。ただ、俺は弱かったんだ。
信頼できる仲間はいても、心の中の弱い部分を預け合える存在は居なかった。ガウル兄上は、王族でありながら臣下のような態度を崩さなかった。幼い頃は兄のように思っていたディディーは、俺に王を求めた。父と母は……最初から居なかった。
リュミエに俺が溺れたのは必然だろう。くるくると飾らずに表情を変え、臆病なくせに俺を守ろうとする、傷付いた女神。
見ているだけで癒された。頼られれば心が震えた。俺だけが触れる事が出来る事が誇らしかった。守りたかった、けれど。
彼女は俺なんかよりもずっと強かった。自分の立場を理解し、消化して、為すべき事を弁える分別を持っていた。その上で、自分自身も幸せになろうとする、強い意志も。
眩しかった。彼女と別れる事は辛かったが、この痛みを抱えてお互いの幸せを祈る事が出来るなら、いつか自分も幸せになれる気がしていた。
もしも耐えられなかったなら、国が少しでも落ち着いた時に無理矢理退位して追いかけたっていい。手遅れになるかもしれないが、彼女の幸せな顔を一目でも見られれば、少なくとも自分の為した事に自信が持てるだろう。
そんな風に自分を慰める事が出来たのは、死神が目の前に現れるまでだった。
珍しく、俺ひとりで自室に居たほんの少しの時間に、結界を『すり抜けて』入ってきた人物に背筋が凍った。
反射的に剣を抜こうとしたが、抜剣半ばで身体が動かせなくなる。そこまで抜けるなんて凄い凄い。と、子供を褒めるように死神は喜ぶと、はじめましてと人好きのする笑顔を見せて一礼した。
彼はあっさりと俺の拘束を解いたが、抵抗する気にはなれなかった。どう考えても、俺は獅子の前の鼠だった。覆す事の不可能な、圧倒的な力の差を本能的に感じ取ってしまっていた。
死神を動かす為に必要なものは、おそらく暴力ではなく対話。
「安心して。貴方を殺したりしないから。むしろ感謝しているんだよ」
『女神様』を守ってくれてありがとうと死神は頭を下げたが、安心など出来るはずがない。恩と益を天秤にかけて、迷わず益を取るのが国というものだ。
警戒を解かない俺を見て、居心地悪そうに死神は苦笑する。
「まあ、ね。殿下にはお願いというか、どうしてもしてもらわなければならない事があるんだけど」
「……リュミエールの益になる事なら」
「なるよ。彼女の身の安全の為だからね」
そう言って死神は、俺とリュミエが王宮から脱出する時の計画をいくつか変更させた。特にルートを大きく変更させ、女が通るには厳しい内容になってしまう。どうやってこの茂みをスカートで突っ切るつもりだ?
「『女神様』なら大丈夫。もうちょっとだけ彼女をよろしくね。お仕置きリストが完成したら迎えに行くから」
国王とかアンセルムとか、処刑を躊躇うなら逃がしてもいいよ。こっちで始末するし。と死神は物騒に笑う。秘密を知ってしまった俺は生かして、何故彼らを殺すのか? 不審に思って理由を問うと、彼は困ったように頭を掻いた。
「俺達にとっては王だろうが村娘だろうが、等しく価値ある存在なんだよ。その価値ある民が理不尽に虐げられたら、罰を下すのは当然でしょ」
王子様には理解し難いだろうけどねぇ。と、ちょっと馬鹿にしたように付け加えられてムッとする。馬鹿にするな。煽られて誤魔化される程、馬鹿ではない。
「俺を殺さない理由は?」
挑発に乗らずに静かに聞けば、怒れよと死神は舌打ちをした。バツが悪そうに視線を逸らして、小さくため息をつく。
「全てが終われば、殿下の記憶から『リュミエール』を消させていただきます」
――――そういう事か
「全部、か」
「はい」
「秘密の部分だけでは駄目なのか」
「殿下はリュミエールの事で不自然に消えた記憶があれば、必ず思い出そうとなさるでしょう」
その通りだ。必ず俺は思い出すだろう。
魔術師の試験で『精神に作用する魔術に対抗するのに効果的な媒体は?』という問に、『根性』と書いて丸を貰ったという笑い話が頭に浮かぶ。
強い思いは稀に魔力の全く無い人間にすら、抗う為の力を与える。まして、俺はこの国一の力を持つ魔術師だ。
「……そうか」
死神を責める事は出来ない。当然の処置だ。むしろ後腐れなく殺されなかった事の方が不思議なくらいだ。
殺すと言われず、何故か落胆している自分を嘲笑する。全てが終われば殺すと言ってくれたなら俺は……。
乾いた笑いが喉を揺らした。
そして俺はリュミエ達に内緒で、計画の一部を修正した。リュミエールを知る前の、空虚な自分に戻る事は耐えられなかった。
王族の義務などと格好つけて、結局俺は逃げ出しただけだ。それも失敗して、無様にひとり死のうとしている。
凛と背を延ばして、為すべき義務がある。と言ったリュミエの真似をしてみても、所詮は付け焼き刃。俺は元々周りに請われるままに国を正そうとしたにすぎない。誰かに、必要とされたかったから。
本当は、父を弑するのは怖かった。肉親を殺めるなど、王家の罪の頂点に立つような気がしていた。
アンセルムに迷わず殺意を抱いた時は、リュミエールの為なら何でも出来るという陶酔と共に、『やはり』という諦めが胸を満たした。やはり、自分も肉親の情など持たない王家の血を引いているのだと。
リュミエはそんな俺を必死で止めた。あれ程酷い目に遭ったのに、だ。おそらくは俺に兄を殺させない為に。自分の感情は後回しにして、俺の為に。
可哀相なリュミエール。酷い目に遭いすぎて、少し優しくして貰えた俺なんかに囚われてしまった。
もう、解放してやらないといけないだろう。全てを忘れるべきなのは、俺ではなくて彼女だ。どうか、嫌な過去は全て忘れて幸せに。
「俺の事は忘れて、幸せに……」
祈る言葉が思ったよりも穏やかだった事に満足した。頬を流れる冷たさは無視する事にする。強くなる眠気に逆らわずに、ゆっくりと目を閉じた。
「嫌よ」
愛しい声が耳朶を打った。声の主を確かめたくても瞼が重くて持ち上がらない。肩と腹が温かくなって寒気が消えた。湯舟に浸かったような心地良さに、眠気が増す。
「命を捨てるなんて、赦さない」
――――きっと、これは夢だろう
未練がましい、俺の願望が見せる夢。最後まで、リュミエは俺を救ってくれる。怒った顔を作るのに失敗して、泣きそうな顔をしたリュミエールが脳裏に浮かんだ。
「捨てるなら、あたしが拾う。拾ったんだから、あたしのものだよ」
そうだな。お前を手に入れる方法ばかり考えていたが、お前のものになるのも悪くない。ただ、とっくに俺はお前に囚われていたんだか、気付いてはいなかったのか?
「返せって言っても、もう絶対返さないから。ジルは、あたしが貰うから」
涙混じりの声に、泣くなと言おうとしたが、言葉になったかどうかはわからない。
急激に落ちていく意識の片隅で、幸せにと願った気持ちは本当だ。だがその半面、泣いて悲しんで欲しいと願っていた本心に気が付いて、最低だなと俺は可笑しくなった。




