20 花吹雪ひらひら。
「ジルは?」
そう聞いてから、今日は忙しいので昼は来れないと言っていたのを思い出す。口癖のようにジルの名を呼ぶあたしに、リリィは夜にはお会いできますよ。と笑顔でなぐさめてくれた。
あれから四日経った。ジルは暇を見つけては様子を見に部屋へ来てくれる。あたしがジルと五人の女官さん達以外を極端に警戒するからだ。
事件の被害者であるあたしの話を聞こうと、何人かの文官がやって来たがあたしは会うことができなかった。部屋から出る事もできないし、部屋に入れるなんてもっての他だ。
最終的には女性ならばと女官長を送り込まれたが、そもそもあたしを昏倒させたのが女官だ。我慢できずに「入らないで!」と悲鳴を上げてしまった。ごめんなさい。
ただひとつ良かったことは、女神を守りきれなかった責をとってリリィ達が処罰されなかったことだ。ジルが側を離れた時に、泣いて「ジルがいないならリリィを呼んで!」と叫んだあたし、えらい。リリィ達がいなければあたし絶対病んでたよ。
リリィはあたしを守れなかった事を泣いて謝ったが、そんな事はどうでもいいからそばにいてくれと言えば、今まで以上に完璧なスーパー女官にバージョンアップしてしまった。
恐いくらいの忠誠心で、私に無理に会おうとする人は女官長だろうが貴族だろうが笑顔でシャットアウト。普段はどちらかといえばおっとりとしたタイプのお嬢さんなので、落差が恐い。
絶賛対人恐怖症中のあたしにジルはちょっと焦ったのか、昨夜は『ディディーとガウル兄上だけは信用して欲しい』と真剣な顔で頼み込まれた。
ジルが信頼してるなら信じる……って言いたいけど、会ってみないとわかんないよなぁ。でも部屋に呼ぶわけにはいかないし、あたしは部屋から出れないしで確認しようがない。
あ、でも多分ジョエルは大丈夫だと思う。あの子は愛おしむべき生き物だって、本能が教えてくれてる。会って癒されたいけど、暫く無理だろうなぁ。
「リリィ、書き物がしたいのだけど……」
「わかりました。ご用意致しますね」
誰にも見られたくない文章を書く時どうすれば良いかと聞いたら、リリィ達は小ぶりの衝立を二基用意した。書物机とあたしを囲むようにして隠してくれて、リリィは部屋の端で背を向けて椅子に座る。他の女官さんたちは退出するけれど、二人ぐらい入り口の前に出した椅子に腰掛けて、待機してくれているみたいだ。最初は立っていたので、お願いだからと椅子に座るようにしてもらった。
普通、女官さんは主人と秘密を共有する。魔法陣の練習をするたびに衝立を立てるのは心苦しいけれど、リリィはあまり気にしていないみたいだった。
「本をゆっくり読む時間ができました」
そう言って本を何冊か持ち込んで、待っている間に読んでいる。熱心に読み込んでいるのが衝立の隙間から見えて、一体何を読んでいるのか気になるので聞いてみた。
仕事に役立つかなと思いましてと、照れくさそうに見せてくれた本は三冊。『お茶会を彩る菓子と小物』、『季節の花々と花言葉』、『貴族社会を生き抜く方法~よくある悩み~事例とその対策』。なにそれ三冊目がすごい気になるんだけど。
私に何かお薦めの本はないかと聞くと、探しておきますと嬉しそうに張り切っていた。
緩やかな時間が流れる。
リリィ達を信頼してから、ジルがいなくても気を張らずにいられる時間が増えた。ジルは以前より頻繁に会いに来てくれて、時々優しいキスをくれる。
甘やかされているのはわかっていた。私が穏やかでいられるのはこの部屋の中だけ。いつまでもこんな時間が続くわけがないとわかっていたけれど、周りの優しさに甘えて逃げてしまうぐらいには……疲れていたのかもしれない。
だから、部屋の前で争う声と扉を叩く荒々しい音が響いた時も、ディディエが怒りの滲む声で『女神!』と叫んだ時も、あたしの心は思ったよりも凪いでいた。
「遂に、来てしまいましたね」
怖くても、辛くても、もう逃げられない。あたしは険しい顔をするリリィに微笑んで、ディディエを部屋へ入れるよう告げて衝立の向こうを片付けた。
書き散らかしたものを箱に入れるだけの作業はすぐにに済む。リリィに衝立を寄せてもらうよう頼む頃には、部屋に招かれたディディエが風の魔法陣を取り出していた。
「いつまで、部屋に篭っているつもりですか?」
低い声で唸ったディディエは顎を上げてリリィを一瞥する。会話を漏らさないようにする風の魔法陣は、部屋の扉を開けると効力を失う。リリィを追い出せという仕草だろうが、あたしは右手を上げて笑ってみせた。
「私はリリィを信用しています。まだ、ジルとリリィ以外の人間は怖いんですよ」
細かく震える手のひらに、ディディエは眉を寄せて舌打ちすると魔法陣を発動させた。あんたほんとに神官? 神に仕える立場の人間が舌打ちってないわ~。
「……私のことも怖いのですか?」
質問の前に見えたほんの一瞬だけの迷いに、頬が緩む。安心して、ジル。あたし大丈夫みたいだよ。
「少しだけ。でも、ディディエ枢機卿には助けていただきましたから」
大丈夫。まだ大丈夫。心の中で何度も呪文のように繰り返してきた言葉。大丈夫。まだ頑張れる。対人恐怖症? そんなもの半年前にどん底で一度克服してんだよ!
「ジルに、何がありましたか?」
「どこまで聞いているんです?」
「……何も。人に会うことはできませんでしたし、ジルは何も教えてくれませんでしたから」
アンセルムがどうなったのか。あたしの扱いはどうなったのか。事件のことを女神が話さなくても大丈夫なのか。
何度も聞いたけど、ジルは何も教えてくれなかったし、リリィ達も口止めされているみたいだった。親を追う雛鳥のように、ジルを探してくっつきたがるあたしをただ甘やかすだけだった。
そんなに痛々しかったかなぁ? ちょっと……夜中魘されて目が覚めることはあったけど、ジルがいればすぐに安心して眠れたのに。
「ジルは、罪を犯した王族が収容される東の塔に幽閉されました」
あたしが聞き及ぶどの国の王室よりもこの国のそれは複雑怪奇。一体全体どうしてそんなことになったのか。この場合幽閉されるべきなのはアンセルムでしょう!?
今すぐジルの傍へと走り出したい衝動を抑えて、ディディエに問う。
「詳しい話を、聞かせて下さい」
結果から言えば、アンセルムはお咎め無しだったようだ。あれだけのことをやらかしておいてふざけるな。
「アンセルムがあの場にいたのは、攫われた女神を助けるためだそうですよ。もちろんジルは女神を攫ったのはアンセルムだと主張しました。女神もアンセルムが犯人だと言っていると。ですが」
「女神がそんなことを言うはずがない、女神を連れて来い……そう言ったのですね。あの男は」
ジルが今のあたしをアンセルムの前に出すはずがない。でもだからといってなぜジルが罪に問われるのか。
「ジルは彼を殴り飛ばしましたからね。さらに、殺そうとまでしました。貴女が意識を失っていた時にも一悶着ありましたし、ジルの殺意は最終的にその場にいた兵の知るところになってしまいました」
「私が錯乱した後の事ですね。貴方がジルを止めてくれたのでしょう? ありがとうございました」
思った通り、あたしの為……あたしのせいだ。
「アンセルムはどうやってジルよりも早く、あたしを見つけたと言っているのですか?」
「不審な行動を取っていたので、貴女を攫った女官の後をつけたと」
「彼女は何と」
「もう生きていません。アンセルムの護衛が捕えようとしたら毒を飲んで自害したとのことですが、どうだか」
殺したのか。リリィ達に信頼されていた、聡明そうで優しげな顔を思い出す。彼女は何を思って女神を害する企てに加担したのだろう。
四日間、微睡んでいた脳細胞を活性化させる。考えろ。あたしに何が出来る? あたしは何をすべき? 他人に会うのはまだ怖い。でも酷い目にあった女神が怯える姿を見られても、何も問題はない。必要なのはあたしの勇気だけ。
「ジルの囚われた塔より高い建物は王宮内にありますか?」
「近い位置に星見の塔が。声は届かないかもしれませんが、ジルが窓に寄れば姿を確認することもできます」
「案内をお願いします。リリィ、外出の準備をしてください」
「そんな!」
まだ無理ですとリリィが悲鳴を上げる。ありがとう。でもあたしは行かなくちゃ。
「心配してくれてありがとう。でももう決めたことです。お願い、急いで」
お願いの形をした実質的な命令に、彼女は唇を噛んで部屋の外の女官を呼びに行く。呼ばれて入ってきた二人は、入ってくるなり物凄い顔でディディエを睨む。小さく肩を竦めた彼は、着替えを覗くわけにはいかないので外で待つと部屋を出て行った。
部屋着からズルズルと長い女神の衣装に着替えたあたしは、ローブに隠して魔法の箱を開けると幾枚かの魔法陣を選んで懐に入れる。そして、久しぶりの部屋の外。ディディエ以外の神官が一人いてぎくりとしたが、彼はあたしに一礼するとすぐに先に立って歩き始めた。
「彼が人払いしてくれます。私たちは少し離れて歩きましょう」
ありがたい。まだできるだけ人には会いたくない。ディディエの機転のおかげで、星見の塔まで会話のできる距離に人を近づけずに済んだ。人影を見つける度にさりげなく視線を遮ってくれる彼に、そういえば初めて会った時も似たような優しさを見せてくれたなと思い出す。今回の対人恐怖症は、思ったよりも早く克服できるかもしれないな。
星見の塔は思った以上に高さがあって、頂まで登った時にはすっかり息が切れていた。途中二ヶ所程休憩の為の小部屋はあったけれど、気が急いて一気に登ってきてしまった。
北を見れば少し高さの低い、あまり飾り気のない茶色い塔が見える。あれがジルが囚われている東の塔らしい。
「風向きがあまり良くありませんね」
あたしが何をしようとしているのか、わかっているらしいディディエが眉を寄せる。
「大丈夫です」
そう言ってあたしは祈りを捧げる形で、両手の中に折り畳んだ魔法陣を握りこんだ。息を整えて手の中のものに意識を集中させる。
魔法陣の発動は口に出した方が安定して、陣の威力も増す。さらには周囲の人に注意を喚起する意味でも、口に出して唱えるのがマナーだ。だけど、声に出さなくても陣を発動させることは可能。周囲にはディディエしかいないとはいえ警戒するに越したことはない。あたしは心の中で解放の呪文を唱えた。
――舞え。祝福の花の欠片『解放』
――風よ、私の指し示す方へ『解放』
空が霞む程の花弁が宙を舞う。それは続けて放たれた魔法の風に乗って高く舞い上がり、東の塔を中心にゆっくりと舞い降りる。
ひらり、ひらり。
儚くも見えるそれはどこか物悲しくも美しく、夢の中のように幻想的な景色を造り上げる。
「これは……」
背後で息を飲む声がする。風に巻かれた花びらが舞い込むことを祈って、あたしは頂より少し下に見える小さな窓を凝視した。お願い……気付いて!
「ジル」
人影らしきものが動いた。鉄格子を掴んだ手がこちらへ向かって延ばされる。
「ジル……ッ」
舞い踊る花びらを掴もうとしたのか、それとも……。
「必ず助けるよ。ジル」
降り積もる花吹雪は地面を薄紅に染め上げ、その一部は王宮の外にまで風に乗って運ばれた。




