変化
六月に入った。山陽医大にやって来てもう一ヶ月以上になる。季節はもうそろそろ夏と言っていいだろう。岡山県では今月頃から梅雨の時期に入る。部屋の中は快適な温度だが、外は大分暑くなっていた。病気になってなかったら、今頃汗だくになって仕事をしていたんだろうと思った。
文彦の体は未だ回復傾向を見せていない。しかし全身の痛みは少しづつ増していく……。
文彦の全身の痛みは、はやり肉体の変化に伴う痛みだった。骨や筋肉、皮膚などが少しづつ変形していく、その工程で痛みがジワジワと出てくるという。
痛み具合は一定ではなく、楽な時もあった。ただ、痛みの激しい時は鎮痛剤を使わないと耐え難い辛さだった。
暫く入院していて文彦は大分痩せた。以前は少し肥満気味だったが、今はもう標準的……いや、もう標準を下回る体重まで減っている。
しかし何といったらいいか、なんとなく体全体が細くなった様な——いや、痩せて細くなったんじゃなく——そう、体自体が縮んでしまった様な感じに思えた。
鏡を見ると、これが自分かと驚く。やはり自分はやっぱり病人なんだと認識せざるを得ない。顔色も青白いとまでは言わ無いが、肌の色は本当に白くなった。文彦は元々肌の色は白いが、サイクリングの趣味のおかげで日焼けする為、夏場は黒くなっていた。春から入院して全く日焼けする機会が無いので白いままなのは当然だろうが、鏡の中の文彦の顔は健康な白さではなく病人らしい白さの様に思う。
しかし……老化していく——いや、岡本は老化とは違うという考えの様だが——これは本当に老化しているのだろうか?
文彦の顔は老化の逆、つまり若くなっている様に思えた。シワとかシミとか僅かにあった白髪などがいつの間にか見当たらなくなっていた。顔の輪郭も滑らかになった様に感じる。
驚きを隠せ無いのが、指の傷跡だ。文彦には左指に目立つ傷跡があった。子供の頃の怪我の跡で、ずっと残ったままだったのが、随分と目立たなくなっている。完全に消えている訳ではないが、うっかり傷がある事を忘れてしまいそうな程に目立たなくなった。他にもホクロなどもいつの間にか無くなっている様に思った。右腕も左腕も数カ所ホクロがあった筈なのに……そういえば指も細くなった。
——今、自分の体で何が起こっているんだろう? ここまで変わってくると流石に一体何が起こっているのか、少し恐怖を感じる。
ここに来た当時は体は痛いものの、ベッドから降りて室内をウロウロする事や、トイレの時など、病室から出て歩く事も多い。最近は痛みで辛い時が多く、ベッドの上にいる事が多くなった。
ベッドの上では大概は文庫の小説を読んでいる。時々買ってきて貰っては読んでいる。
実はこの病室はWiーFiが使えた。その為、スマホでネットが普通に使えた。しかし思った程使っていない。文彦には読書の方が楽しい様だ。
ここは急遽用意されたらしいが、文彦の治療専用の部屋になっている。何でそんな仕様になっているのかというと、文彦が特殊な症状だからという事だ。
数日前、文彦の担当看護師が更に増員された。青山と太田の二人である。青山は原田と同期らしく親しい様だ。太田は文彦の担当看護師の中では唯一の男性となる。今後も文彦は症状が悪化するであろう事からの増員だった。やはり大変なのだろう。
——今日、両親がやって来たので聞いた。
「今の姿って、前と比べてどう?」
「どうって?」
母の宣子は怪訝な顔をしている。
「大分変わったと思わないかな」
「——うん、変わったと思うわねえ。随分痩せたし」
宣子は息子を見て言った。
「それに何か白くなったよなあ」
父の光男も言う。
「やっぱりか、まあそうだろう。あと……これ分かる? 前はこの辺にホクロがあったし、ここには傷があった筈なんだ」
文彦は左腕を見せてあれこれ説明する。
「どういう事? 消えたって事?」
宣子は何も無い所にホクロがあったという文彦が、一体何を言っているのか段々と分かってきた。
「そうだよ。どういう訳なのか分からないけど、こんな事になってる」
「不思議ねえ……そういえば顔つきも何か印象が変わった様な……」
「そう、顔もそうなんだ」
「どうなってるのかしら……」
宣子は息子の身に何か起こっているのか、一層心配になってきた。
文彦は窓の外を眺めていた。もう時間は午後九時で、外は夜中だ。岡山の夜景が目前に広がっている。岡山は田舎だとはいえ、まあ中心部とも言えるこの辺りはまあまあの夜景だと思う。
目の前の窓ガラスに映る自分の姿に注意が向く。早川文彦の顔ではあるが、自分の顔じゃないような気分がしていた。何だか最近は髭も生えてこなくなってきているし、顔の造りがやっぱり違う。<老化>の症状とは何か違うような気がするが、最近知られてきた事では、そもそも<老化>は体が痛まないと言う。その辺からしてどうも違う。
ただ何かしらの変化が僕の体に起こっているのは間違いない。それがこの先どうなるのだろうか。
トイレに行く為に病室を出る。今はまだ一人でウロウロ出来るからいいが、今後悪化すると寝たきりになったりするかもしれないな……などと考えながらトイレに向かった。
トイレは病室からは少し離れていて、少し歩かないといけない。
用を足して病室に戻る途中、老人に会う。時々見かける人だ。パジャマを着ているので入院患者なんだろうと思う。
「こんにちは」
老人は笑顔で僕に声をかけてきた。
「こ、こんにちは……」
いきなりだったので吃ってしまった。
「外はもう暑いけど、病院の中はいいね。とても快適だ」
「そうですね。そろそろ梅雨の時期だし、蒸し暑い季節になりますね」
「最近、天気の悪い日も目立ってきてるね」
老人は窓の外を眺めた。
「一昨日も雨でしたね」
「そうだねえ、ところで君は入院患者の様だけど、なんの病気で入院しているのかな?」
「よくわからないんですよ。最近テレビでも見る様になってきた<老化>だろうか、とも考えたんですが、先生はちょっと違うという様な事も言っているし」
実際、<老化>だと思われる症状も無い訳ではないが、身体に痛みが出る事や、体の傷やホクロなどが消えてしまうなど、特殊な症状もある。岡本は<老化>ではないと考えている。
「そうなのかい? それは不思議だね」
老人は僕の顔を不思議そうに眺めた。そして彼は衝撃的な事を言った。
「実は……僕はね。<老化>なんだ」
老人は不意にそんな事を呟いた。
「<老化>……なんですか?」
文彦は今まで<老化>の人には会った事がなかった。目の前にいるのだ。
「そう。僕は歳いくつだと思う?」
「さあ、見た目は六十歳くらい……ですかね?」
「そうだね。見た目はそのくらいだと思うよ」
「そうですか」
「実は四十歳なんだ。先月の誕生日でね」
「え?」
これはやはり驚きだった。四十歳で六十歳の容姿。そんなに変わるものなのか。
「僕も今年の誕生日で四十歳です。八月なんでまだ三十九歳ですが」
「そうなんだ、同い年なんだね。もっと若いと思ってたよ。三十歳とか、いやもっと若いか……」
「そうですか」
文彦は、やはり若く見られているな、と思った。単に痩せたりしてと言うには変だ。
彼は中村博之と言って、山陽医大から割と近い所に住んでいるのだという。
今年の四月に発病して、山陽医大に入院。現在も入院中だが、退院は近いそうだ。
「僕はねえ、こんな事になって悲しい。それにやはり辛い。当然さ。でもね、それでも受け入れて生きていかなきゃならない」
中村の横顔はどこか達観した面持ちがあった。哀しみとも諦めともつかない不思議な表情をみせていた。
「僕はどうなるんだろうか……」
「それは分からない。僕の場合と違って体が痛むのは、もしかすると<老化>とはまた違うのかもしれないね」
「やっぱり違うんでしょうかね」
「——うん、ここには僕以外にも何人か<老化>の患者がいるんだけど、誰も体が痛む人はいない」
「そうですか」
「でも聞いた話では、君みたいに体の痛みを訴える人はいるらしいね。その人達がどういう状況なのかは分からないけど」
「状況がわからないというのはやっぱり怖いです……」
文彦は視線を落とした。
「そうだろうね。それに痛みを伴うというのは相当辛いと思う」
中村は僕の顔をみて言った。
「しかし、君も諦めずに頑張って欲しい。お互い退院したらまた会って話がしたいね」
「そうですね」
文彦はそういって中村と別れ、病室に戻った。