病院へ
会社から十分も掛からない場所に中野病院はあった。
この岡山市東区の東端にある西大寺の町の中心部から北寄り、西大寺駅から少し南に行った辺りにある病院である。規模はそんなに大きな病院ではないが、ひと通りの病院設備が整っていた。
この西大寺にはこの中野病院以外に中規模程度の病院が三ヶ所ある。中野病院はその中では中堅どころに位置する。そんなに悪い噂も聞かないが、良い噂も聞かない。
とりあえずそこに行ってみる事にした。職場からは比較的近い病院でもある。
病院の敷地に車を入れると、入って左側に駐車場がある。十数台止められそうな大きさだ。文彦は一番手前ん空いている駐車場所に止めた。今は余り止まっていない。あまり多くない時間帯なのかもしれない。
病院とは普段縁の無いだけに、ちょっと緊張していた。別にためらう事などないのに何故か中に入るのを躊躇する自分がいる。
しかし、このままここで立ち往生していてもしょうがないので、思い切って玄関口のガラス扉を開けて中に入った。
院内に入ると、早速右手側にある受付に向かう。何というか、やはり病院という所は独特の雰囲気を持っていると思う。どこか無機質で生気の薄い空気が漂っている、そんな感じだった。
文彦はとりあえず、二人いた受付の若い女性のうちの片方に声をかけた。
「すいません。体調が良くないので診てもらいたいのですが……」
「体調不良ですか? 具体的にはどんな感じか言えますか?」
「そうですね。全身がこう、ジワジワと痛む感じで――どう言ったらいいのかな、滲むような痛みというか……だるみというか……」
イマイチ説明しにくい。どうも抽象的な表現になってしまう。どう言えば伝わりやすいんだろうか。
「うーん……全身が痛い、もしくはだるい。かなり痛いですか?」
「日常生活が辛いとまではいかないかもしれないですが……数日前からこんな調子で良くはないので」
「数日前からですか、分かりました。診察券はお持ちですか?」
文彦はこの病院には初めて来るので当然持っていない。
「いえ、初めてですから」
「分かりました。ではとりあえずこの用紙に書ける範囲で良いので書いて貰えますか? それからそこの角を左に曲がって二つ目の所が内科になります。この用紙と、このカードを受付に渡してください。そこで順番までお待ち下さい。あ、それから保険証はお持ちですか?」
「はい」
財布から保険証を取り出すと、女性に渡した。
文彦は、用紙とボールペンを持って、受付の女性の言う場所に向かった。
言う通りに行くと内科のプレートが付いた診察室の前にやって来た。この辺りはロビーのあたりに比べて少し古いというか、煤けた様な感じがする。もしかしたら最近ロビーの方は改装か何かして新しくなってるのかもしれない。
近くの椅子に腰を下ろして、先ほど預かった用紙を見る。自分の名前や住所などの個人情報と症状について書く場所がある。言う通り、書ける範囲で全て書いた。診察室の入り口の前にも受付があったので、そこに用紙とカードを持って行った。
そこにいた中年の看護師は用紙とカードを受け取り「少しお待ち下さい」と言って席を立ち奥に入って行った。
文彦は再び椅子に戻り、そこに座って順番を待った。
待っている間、少し薄暗い周辺を見渡す。やっぱり病院だな、と変に納得した。少しして中年の主婦と思われる女性がやってくる。受付にカードを置いて文彦の二つとなりの椅子に座った。
随分長い時間待った気がする。いや、実際はものの十分か十五分くらいだろう。受付の窓の向こうから、
「早川さーん」
と呼ぶ声が聞こえた。いきなり現実に帰った気がする。
文彦は診察室と書かれたプレートの隣の出入り口から中に入った。入ると「こっちへどうぞ」と若い看護師の女性が更にその奥の仕切りの向こうに案内してくれた。
入るとそこはさっきの半分程か、六畳間くらいのスペースで、その奥に窓があり手前に机があった。そこに内科の医師が座っていた。
「早川さん、こんにちは。内科医の武田です」
と武田と名乗った医師は挨拶した。
「よろしくお願いします」
と文彦は答えた。
「全身に痛みがある、ジワっとくる様な――例えば疲労感みたいな? そういった症状だと」
「うーん、まあそうですね。そんな感じかもしれないです」
「とりあえず前を開けて貰えますか」
「はい」
文彦はシャツの前ボタンを開けて、下に来ていたTシャツを捲り上げた。
武田は聴診器を胸などに当てていった。
「……特に異常がある様には思えないですね。今かなり辛いですか?」
どうも聴診では異常らしいものは無いらしいが、辛さは昨日から特に変わっていない。
「辛いといえば結構辛いです。体を動かすのも辛い。」
「ふむ、リウマチなどが考えられるんですが……腫れや、炎症等も見られないですね」
その後骨の異常なども考えて、レントゲンなども撮ったりして、色々検査したが異常は見つからない。
「今の時点ではまだはっきりしないです。特には異常と思える所は無い。とりあえず様子見とするしかないです」
「はあ、そうですか」
「しかし余りにも辛くなったら、入院も考えないとダメかもしれません」
入院か……でも酷くなったらそうなるしかないか。
とりあえず様子見という事で、鎮痛剤を処方して貰って帰る事になった。
「異常が分からないかあ……どうしたんだろうね?」
長井は顎に手をやり、首をひねる。
「しかし結構色々やったんですが、ダメでしたね。おかげでこんな時間になったけど」
もう午後四時前だった。一時過ぎ頃に行ったので、何だかんだで三時間くらい掛かった事になる。色んな事をしたが、特に検査の待ち時間が長かった。
「大丈夫?」
長井は心配そうに文彦の顔を見た。
「まあ……今の所は」
「うん、辛かったら遠慮なく休んで病院に行って欲しい。倒れたら一大事だからね」
「そうですね。気をつけます」
あれから二日後、土曜日で今日は会社が休みである。しかし文彦の体の痛みは収まる気配は無い。
朝起きて体を起こそうとした際、針で刺した様な大きな痛みが走った。これは尋常じゃないと思い、手足など恐る恐る動かしてみる。肘が大きく動いた際、やはり大きな痛みが走った。他の箇所も同じように痛む。
暫くベッドに寝たまま、あまり動かない様にする。十分か十五分くらいすると次第に痛みが和らいできた様に思えた。少し楽になった気がするのだ。
ゆっくりと左腕を動かしてみる。先ほどの様な大きな痛みは無い。どうやら落ち着いた様で大丈夫みたいだ。
すぐにベッドの脇に置いてあるスマートフォンを手にとって、中野病院に連絡した。
午前八時頃だが、電話には出てくれた。自分で来る事は出来るか?と言われたが、今は特に起きて直ぐの大きな痛みは無くなっていたので自分で行けると伝えた。しかし運転中にまた大きな痛みが出たら良くないな……と思ったが自分で行くと行ったし、今更と思い早く行こうと着替えを急ぐ。
文彦はシャツとジーパンを履いて早々と服を着替える。起きた時の大きな痛みは流石に無いが、相変わらずジワジワとした筋肉痛にも似た痛みはまだずっとしている。
財布と携帯電話をポケットに突っ込むと早々と部屋を出て、車に乗って病院に向かって走らせた。
病院に到着すると、既に看護師が待っていてくれて直ぐに診察室に案内してくれた。
「早川さん、大丈夫ですか? 痛みは前と比べてどのくらいですか?」
診察室に向かっている途中で看護師が聞いてきたので、
「前よりかなり痛かったです。今はそれ程でも無いですが……」
あまり体を動かさない分には問題無いが、激しい運動は無理だろうと思った。
診察室に入ると武田が既にいて、とりあえず聴診と触診を行う。特に異常らしい異常は無い。その後更にレントゲンなど様々な検査を行った。しかしとりたてて異常な部分は見られなかった。
見た目も特には変化無し。皮膚や筋肉も問題無い。骨も問題無い。様々に検査をするもののやはり痛みの原因を特定する事は出来なかった。
効果があるか分からないものの、痛み止めの注射をした。筋肉痛など、肉体の疲労や炎症に効果のある鎮痛剤という。
効果があるかは正直分からなかったが、打ってしばらくすると少し楽になった。どうやらある程度は効果はあったようだ。
とりあえずベッドを用意してあるから、暫く休んでいた方がいいと言われ、病室に案内された。
武田は文彦の症状がはっきりしないのに困惑していた。検査の結果では特に異常は見られないが、患者の容体は見た限り確実に良くない。
とりあえず調べらる限りは調べたが——どうも分からない。どうしたものか……経過を診ていくしかないのか、これはかなり大変かもしれない。
頭を抱える武田の姿を、看護師は心配そうに見ていた。
昼頃、武田が病室にやってきた。
「早川さん、痛みの方はどうですか?」
「朝に比べてだいぶ良いんじゃないかと思います。でもまだ良くはないです……」
「そうですか。鎮痛剤が何時まで持つか分かりません。入院を勧めたいのですが、どうですか」
やはりそうなるか――まあ当然だろうな、と思った。
「そうですね。でも仕事もあるし、色々やらないと……」
文彦はもう入院はしょうがないとして、仕事の方が少し心配だった。
大越と石田。彼らは若かった。文彦の目にはまだ未熟だと思っている。大越は士気は高いが、まだ二十代半ばの若者だ。前職も鉄工所で働いていた為、基本的な技能はあるが、やはり経験の面でまだ厳しい。ただやる気があるので出来る限り教え込んできた。
石田はやる気に乏しく、大越がやる気だから、それに引きずられてしょうがないと言った感じだ。経験も技術も圧倒的に足りてない。まだ一年未満だし、これからなのかもしれないが。
入院期間も、まあ一ヶ月くらいならそこまで気にする程でも無いだろうか。それ以上になるなら、結構問題だが……彼らには、まあ頑張ってくれとしか言いようがない。
とりあえず一度、長井と話しをしておかないとダメだろうと考えた。
「とりあえず入院の準備するのに帰ってもいいですか?」
「うーん……ご家族に説明しないといけないし、一度ご家族に来て貰って私の方から話しさせて貰おうと思います。それから様子を見て問題なければ……まあいいでしょう」
「わかりました」
文彦は両親に電話して病院に来てもらう様に連絡を取った。
「そんなに良くないんですか?」
母の宣子は心配そうに目の前に座る武田を見た。
息子は特には変わった様子は無く、突然この様に言われて驚くばかりである。今日も朝早くに出て行ったかと思えばこんな事になっているとは。入院が必要と言われ、目の前が真っ暗になる思いだった。
「今の所、明確に病名を特定出来ません。検査の結果は何の異常も無いのです。いくつか考えられるのだけど、それと決めてしまうのは早いと思います」
武田は心配そうな顔をする宣子を見て言った。
「大丈夫なんでしょうか? どうしてこんな事に……」
心配顔の宣子の隣では父の光男が深刻そうな顔をしている。しかし特には何も言わなかった。
武田は困惑する。しかし今は鎮痛剤で痛みを和らげつつ現状を見守るしか無い。
「とにかく、入院の準備をお願いしたいのです」
「はあ……わかりました。とりあえずどうすれば……」
文彦は病院の外に出ると長井に電話した。——今日は休みだし出るかな……あ、出た。
「もしもし、早川さん? どうしたの?」
「休みの日にすいません」
「ああ、いや別にいいんだけど」
「……実は入院する事になったんです」
「え? やっぱり入院するの?」
「突然こんな事になってすいません」
「うーん、かなり厳しいけどしょうがないよ……今は大丈夫なのかい? どのくらいの期間になりそうなの?」
「まだはっきりしないです。何の病気かはまだ分かって無いし」
「そうなんだ……まあ、しょうがないからね。なるべく早く治して復帰して欲しいね」
「そうですね。本当にすいません」
「いや、いいんだよ。まあこっちは心配しないで治療に集中して欲しい」
「はい」
「あ、そうそう。どこの病院に入院するの? 後日行くから」
「西大寺の中野病院という所です。西大寺駅から南に少し行った辺りです」
「——ああ、あの病院か。なるほど中野病院ね。はいはい、わかりました……じゃあ、お大事にね」
「はい、では……」
仕事の方はとりあえずいいか。
電話を終えて、とりあえず病室に行こうかと思い正面玄関から中に入ると、両親が向こうからやってくる。
「済んだ? 先生が呼んでるわ」
宣子は文彦に言った。
「分かった、行くよ」
診察室に戻った文彦は、再び武田の診察を受けて状況を確認する。
「特に痛みは変わりないんだね?」
「そうですね。朝みたいなのは無いです」
「本当はご両親に準備して貰って、早川さんはここにいて欲しいのだけどね……もし辛くなったら直ぐに来て欲しい」
「すいません。では」
その後、父の車で帰る事になって、文彦は父の運転で一度家に戻った。
車の中では重苦しい空気が漂っていた。
家に帰ると、自室に戻り必要な物を纏めてバッグに入れた。それから、まだ読んでないのを読むのに良いだろうと思い、文庫を数冊持っていく事にした。
着替えや、その他あると便利そうな物を適当に選んで持っていく事にする。
不意に少し痛みが増した気がした。ヤバいかな……と思うが早くしてしまおうと思い、準備を急いだ。
必要な物を全てボストンバッグに詰め込むと、部屋を出て一階に降りた。
母が待っていて、用意は出来たかと聞いてくる。出来たと答えると、外に出て父が運転する車で中野病院に向かった。