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最後の日

 二◯一七年十月十八日。この日、由衣は珍しく早めに起きた。今は午前五時頃だ。まだ病室は暗い。静寂に包まれたその空間に自分ただひとりだけが存在していた。

 今日――由衣は家に帰る。ほぼ二年半程この山陽医科大学病院に入院していた。

 長かった、本当に長かった。もうこの病院がわが家だと錯覚してしまいそうな程に。辛い事も、楽しい事も、悲しい事も、嬉しい事も、この入院生活の中で人生が完結しているかの様な中身の濃い時間だった。

 ——上半身を起こして室内を見渡した。ここへ来てからずっといた部屋。午後一時に病院を出る予定で先日から準備していた。もう数時間、半日も経たないうちにこの部屋を去っていく……。

 由衣は暗がりの中、この空間を目に焼き付けておこうとしているかの様に、じっと見続けた。

 しばらくして由衣は部屋の照明を点けた。

時計を見た。午前七時を少し過ぎていた。


 ——午前八時、朝食が部屋にやってくる。最後の朝食だ。未だに多くは食べられないし、あまり美味しくないのでよく残していた。今日は全部食べた。少し辛かったけど。


 ——それから三十分程後、柴田が部屋にやってくる。今朝の定期チェックだ。いつも通り手慣れた手つきで次々にこなしていく。その間、少し雑談など交わした。


 ——午前十時頃、原田がやってきた。ちょっと休憩の合間に覗きに来ただけの様だった。ひとしきり話して部屋を出て行った。


 ——十二時前に岡本と島崎が最後の診察にやってきた。いつもやっている様に一通りこなすと、やはり雑談など交わして帰っていく。入れ替わりに昼食が運ばれてきた。ここでの最後の食事だ。


 ——午後十二時半、服を着替えて母の宣子や島崎と病室を出る。振り向くと泣いてしまいそうなので敢えて振り返らなかった。

 島崎と母に連れられて、ナースステーションの所までやってきた。


「みんなに挨拶していくから」

 由衣は母に言った。

「正面玄関に車を横付けしておいてください。青山さん、早川さんのご両親についていってね」

 島崎は青山に指示を出す。青山は、宣子から荷物を積んだ台車を、「私が押していきますよ」と言って宣子と代わった。

「じゃあ、荷物をもって行っておくからね。由衣ちゃん、ちゃんとお礼言ってね」

「うん」

 宣子は青山と共に玄関に向かい、由衣と島崎はナースステーションの中に入っていった。


「——今までお世話になりました。本当に、あの、本当に……」

 由衣は言葉が続かない。瞳からは涙が溢れ、頰を伝っていく。手で拭おうとするが、涙がとまらない。わたしはこんな涙脆かったかな……と、ふと思っては直ぐに涙と共に流れ落ちた。

「早川さん、本当によく頑張りましたね。色んな事があったけど……辛かった事も沢山あったけど……それでもね。早川さん。退院おめでとう。おめでとうございます」

 島崎は、由衣をそっと抱きしめる。

 由衣は涙が止まらなかった。

「さあ、ご両親は待っているよ。そろそろ行こうか。僕も見送りさせてもらうね」

 岡本はニッコリ笑って由衣に語りかけた。

「はい」

 由衣は涙を拭って微笑んだ。


 由衣は松葉つえを使って、正面玄関に向かう。岡本や島崎達と一緒に。

「早川さん大丈夫?」

「大丈夫ですよ。もう車椅子はいらないです」

「うふふ、そう」

 島崎は自信をもって答える由衣に、本当に良くなったんだなと思って、嬉しくなった。

 その後は正面玄関までの数分の間、特に何も話さなかった。目の前の自動ドアの向こうに由衣の車の姿が見える。


 目の前には、由衣の車が横付けしてあった。母が車の後部座席を開けて由衣が乗り込めるようにしてくれていた。

 車の目の前で、何気なく後ろを振り向いた。

 ――いつも真剣に治療に当たってくれた岡本准教授。

 ――後輩看護師達を引っ張って、わたしを看護してくれた島崎看護師。

 ――島崎さんを筆頭にわたしを看護してくれた原田さん、青山さん、太田さん、柴田さん。

 みんなこの病院で出会った素晴らしい人達。

 見送りに来てくれた人達に笑顔でお辞儀をしたが、気がつくと頬にまた涙が伝った。

 そしてそれを誤魔化す様に由衣は少し見上げた。その視線の先には、そろそろ秋らしい空気をまとった青い空がどこまでも広がっていた。

 「由衣の冒険」完結です。最後まで読んでくださった方々、どうもありがとうございました。

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