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退院

 真夏の暑さも既に無く、少しづつ秋の気配を感じてきた。散歩で外に出ても暑いと感じる事は少ない。涼しくなってきている。

 由衣の体もかなり良くなってきていた。昨日は病室から松葉杖で外まで歩き、外では自分の足だけで歩いていた。短い距離だけども確かに歩いており、確実に良くなっている。気分もとても良い。とても充実した気持ちでいっぱいだった。

 ずっとこんな気持ちでいられれば良いのだろうと思った。


 いつもの調子で朝起きて、今日は午前十時には岡本准教授が診察にやってくる。看護師を一人同伴してやってくるはずだ。誰と来るだろう? 先日は青山さんだったし、今日は島崎さんかな?

 ドアを叩く音が聞こえる。

「入りますね」

「どうぞ」

 岡本と島崎が入ってくる。岡本は、ベッドの脇に置いてある椅子に座ると、ひと息ついて笑顔で言った。

「おはようございます。気分はどうですか?」

「凄くよいです。体もかなり動く様になったし」

 由衣は笑顔で答えた。最近はとても気分がいいのだ。

「それはよかった。じゃあ始めようか」


「早川さん、今日はとても大事な事があります」

 ひと通り診察を終わらせた岡本は、あらためて椅子に坐り直すと由衣に話しかけた。島崎は立ったままニコニコしていた。

「早川由衣さん。一週間後の十八日を退院日と考えています」

「え?」

 由衣は一瞬何を言っているのか分からなかった。

「退院です……か?」

「そうです。ここまで回復すれば、後はもう自宅で生活した方がよいと思う。幸いにもご両親が介護して貰えるという事だし、だったら早めに退院した方がよいでしょう」

「そ、そうですよね。退院か……やっとですね」

「どうしたの?」

 島崎は、由衣の表情がイマイチ浮かない様な気がして尋ねた。

「あ、いや……何でもないです。とうとう退院なんですね。長かったなあ」

 笑顔で答える。しかし、それは本気の笑顔という感じではなかった。

「……」

 岡本はそんな由衣の姿を見て少し考えた。

 島崎は由衣の浮かない顔を見て、少し心配そうな顔をしていた。


 由衣は考える。とうとう退院だ。待ちに待った退院である。とりあえずは日常生活に戻れる。

 ——でも、この寂しさは。この心に、大きな穴が開いた様な感情は。

 ——認めないといけないだろう。私は……どうやら、退院したくなくなっている。

 ここでの生活が長すぎて、ここの生活が今の日常になってしまった。岡本達の懸命な仕事ぶりと暖かい交流が、いつしか由衣の居場所としてとても大きな存在になっていた。あの人達と別れたくない。当然暫くは通院するだろうが、いつかは会えなくなっていく……会わなくなっていく。

 でも退院する時は退院しなくてはならない。病院にも迷惑だろうし、それに自分自身にもよくない。

 やっぱりここを去らなくてはならない。去っていくべきなのだ。

 由衣は無表情のまま、天井を眺めてため息をついた。


 病室のドアと叩く音がした。

「はい」

「——早川さん」

 島崎が入ってきた。由衣は、何かあっただろうか? と思ったが、特に思いつかなかった。

「朝晩はちょっと寒くなってきましたね。昼間はそうでもないけど」

 島崎は、そう言ってベッドの側にある椅子に座った。

「そうですね。秋らしくなってきました」

「そう思ってたら、あっと言う間に寒くなってくるんでしょうね」

 島崎は苦笑いした。

——少し会話が止まった。多分十秒とかそんなものだろう。でも、もっとずっと長い時間に感じられた。

「……ようやく、早川さんを家に帰してあげられる時が来ました」

 島崎は笑顔でそう言った。

「ええ……」

「早川さんは……早川さん?」

 由衣は窓の外を見ていた。いつも変わらずそこにある窓を——ずっと見ていた。

「早川さん――」

「あ、いや……何でも無いです。やっと退院ですよ。姿は変わってしまったけど、日常生活に戻れるんです。楽しみだなあ……」

 島崎は静かに口を開いた。

「その割には何だかあまり嬉しくなさそうですね」

 ズバリ指摘されてしまった由衣は、動揺してあたふたしている。

「いや……そ、そんな事ないですよ。そんな……」

「ふふ、顔に書いてますよ」

「え?」

 由衣は、顔を真っ赤しにして、慌てて顔を手で覆った。

「あ、あの……」

 クスクス笑う島崎を見て、からかわれたことに気がつくと、赤面したままうつむいた。

「早川さん、私達との別れを惜しんでくれているのだろうと思うと、先生も、私もみんなとても嬉しく思います。でも、お別れはいつか必ずするもの。早川さんは長い間、闘病生活を続けてきてようやく普通の生活に戻る事が出来る時がやってきたんですよ。早川さんの新しい人生は、これからなんですから」

 島崎は由衣の目を見て微笑んだ。その笑顔はとても美しかった。

「島崎さん……」

 由衣は思った。島崎と出会えた事を本当によかったと。

「そう、それから当然だけど、まだまだ通院して貰わないとね。とりあえずは翌週の月曜日——二十三日ね——から検査に定期的にきてもらう事になっているはずですよ」

「そ、そうですよね。って、翌週からって……もう?」

 由衣はカレンダーを見た。退院日が十八日の水曜日だから、翌週の月曜は五日後だ。一週間も待たずしてまたここに訪れる事になるらしい。

「詳しくは後で先生の方から聞かされるはずだけど、早川さんの、定期検査はかなり長い期間でする事になっているみたいだから、まだまだしばらくここから離れる事は出来ないですよ」

「はは……そ、そうなんだ」

 由衣は何かホッとしたような拍子抜けしたような気分になった。

「さあ、まだ後一週間ありますよ。途中で体調を崩したりなどしないように、がんばりましょう!」

「はい!」

 そう答えてニッコリ笑った由衣の笑顔はとても魅力的であった。

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