早川由衣
文彦は新しい名前を『由衣』とした。読みは『ゆい』だ。はっきり言って、本当に改名出来るのかは分からない。ただ——今までの自分から、これからの自分に変えていく為には、どうしてもしなくてはならないと思った。
ようやく梅雨も明けた今日の午後、家庭裁判所の呼び出しに応じて、両親と共に向かった。実はこれが入院してから、病院の外に出る初めての事になる。随分久しぶりなのだけど、思った程は感動は無かった。
——幾つかの質問があったが、特に問題にされる事なく改名の許可が下りた。
やっぱり、前例が無い特殊な件だけに判断が難しかったのかもしれない。普通はありえない事態だろう。意図しない形で性別が変わってしまうというのは。それとも未知の病気で性転換という事態に同情があったのだろうか。その辺りはよく分からなかった。
その後、光男の運転する車で病院に戻る。家庭裁判所は山陽医大から割合近い場所にあったので、裁判所を出発してからものの10分程で戻ってきた。
駐車場に車を止めて、母の宣子に降りるのを手伝って貰う。後は正面玄関まで松葉杖で歩いた。もうこの頃になると、松葉杖で歩くのも慣れたものである。
事前に連絡していたので、玄関前で島崎と原田が待っていた。
「——はい、変えられる事になりました」
「良かったわ。これからは心機一転、新しい人生ね」
島崎は笑顔で言った。
「とうとうかあ、これからは早川由衣ね。よろしく由衣ちゃん!」
原田は嬉しそうに由衣の前に手を差し出す。
「こちらこそ、宜しく」
由衣は原田の手を握った。
「早速お祝いしなきゃあね。やっぱし」
「お祝いですか?」
「そう、パーっといかなきゃ!」
「そ、そういうものなんですかね?」
由衣は原田のテンションの高さがよく分からなかったが、何にせよ喜んでくれているのは嬉しかった。
——今日からわたしは『早川由衣』と名乗る。今後は新しい人生を生きて行く事になる。
色々とハンデの多い状態ではあるけど、名前が変わった事で新しい自分で生きていけそうな気がする。
これからは「由衣の冒険」が始まるんだ。そう思ってこれから頑張ろう。
由衣はふとこれまでの人生を思い出した。特別良い人生とは言えない、平凡な人生。
子供の頃はごく普通だったと思う。大人しい子供だと思うが、特にどうと言う事も無かった。勉強は全然ダメで、高校は親に私立にだけは行ってくれるな(県立に比べて私立は学費がかなり高かかった)と言われ必死に勉強して、なんとか県立の工業高校に行けた。
その後は普通に地元の中小企業に就職して、金属加工職人の道に進んで行く。しかし、六、七年後にその会社が倒産。知人のツテで今の会社——倉岡工業にやってきた。はや十年以上になり、早川文彦は社内ではベテランの部類に入る存在にまでなった。会社の倒産なんて無ければ、このまま平穏平凡なその後だったのだろう。
しかし……それもこの病気で全く違ったものになっていく。仕事はもうダメだと思う。この体では続けられないだろう。
今までの人生は一体何だったのか? そういう気持ちもあるのだけれど、いつまでもあれこれ考えててもダメだ。前に進まなくては。
新しい自分と生活には期待もあるけど、不安もある。殆どそれまでと真逆の体になった早川由衣、今後はどうなるのか。
それは誰にもわからない。
午後、長井がやって来た。
「やあ、早川さん」
相変わらず人の良さそうな人物である。
長井は由衣が入院している間、ずっと定期的に見舞いに来ていた。大体月一回から二回くらいの割合だ。由衣が意識の無い時期にも相変わらず来ていたそうで、由衣の体が変わっていくのをリアルタイムで見ていた人だ。今日は来ていないが、後輩の大越も時々来ている。大抵は長井と一緒だ。
「どうも長井さん」
「これ、お土産だよ」
そう言ってチョコレートのセットが入った箱を出した。
「ありがとうございます」
由衣は微笑んだ。
「調子はどうだい?」
「もうずっと良いですね。もうあれから体調が悪くなる事は無いです」
「そうか、それは良かったよ」
長井は自分の側にあった金属パイプ製のスツールを自分の側に持ってきて座った。
「それにしても、可愛くなったね」
「はは……どうしてこんなになったのか未だに分からないんですけど」
「そういえば<性転換>ってニュースでは全然言われないね」
「聞くところに寄ると、<性転換>はわたしだけの症状らしいです。でも今後他の人にも起こるかもしれないですけど」
山陽医大の方針で、<性転換>に関しては基本的には発表しない方針にしていた。またマスコミにも報道はしない様に要請しており、実際<性転換>が報道された事は無い。
由衣、一人だけの症状であり、由衣の心情面での影響を考えての事だった。もっとも世界の研究者には周知であり、時々外国の学者や医者が来て由衣に会ったりしている。つい先週もドイツの<若返り>の研究者グループが来ている。由衣も会って質問されて答えたりしていた。
「ああ、それでなんだね。<若返り>の方は結構知られる様になってきたけどねえ」
長井は足を組んだ後、シャツの胸ポケットからタバコを取り出そうとして、すぐ気がついて止めた。この部屋は勿論禁煙である。
「そういえば会社では<老化>や<若返り>になった人っているんですかね?」
「うん、そうそういるんだよ。<若返り>の方。黒田さん。今年の冬頃だったかな」
「黒田が?」
黒田は由衣の同級生で、由衣の発病二年前くらいに中途採用されてやってきた。特に由衣と仲が良かった訳ではないが、人が良い性格で再開後は職場が違うものの時々雑談する仲だ。
「症状は軽かったそうだから退院も早かったね。もう職場復帰してるし」
「そうなんだ」
「入院してた時は辛そうだったけど、背も高くなったし、ちょっと羨ましいねえ」
苦笑いしながら長井は言った。
「見た目が変わりますからね」
やっぱり知っている人の中にも<老化>や<若返り>の人がいる。やっぱりこれからも増えていくのだろう、そう思った。
黒田は職場復帰した。むしろ体格が良くなったかの様な事を長井は言っているので運が良かったのだろう。
「退院はいつ頃になりそうなんだい?」
「退院ですか? うーん、まだちょっと分からないですね。大分良くなってると思うんですが」
由衣は両腕をいろいろ動かしながら言った。
「少しは歩けるんですが、でもまだ完全には杖無しでは辛いですね」
「それじゃまだかかるかもしれないね」
「かもしれません」
長井は、ふうっ……とため息をついた。
「実はねえ、前に担当してる先生に聞いてみた事があるんだ。退院後の職場復帰は出来るのかって」
「多分、無理だって言われたんだと思うけど……どう言われたんですか?」
「その通りだよ。まあ、確かに無理だよねえ……」
「この体じゃ、かなり危ないだろうと思います」
重いものを持って歩く事も難しいだろうし、この女の子の姿では……。
「せめて経験とか技術面だけでも、大越くんに受け継いで貰えたらと思うんだけど」
「わたしは教えるのは苦手だからなあ……大越くんには頑張って欲しい」
「退院して落ち着いたら、一度会社に来て何でもいいから彼らに伝えられたらと思うんだけど……それも無理かい?」
「まあ——それくらいなら出来るかもしれないけど、あまり期待しないで欲しいです」
「そうかい、でもそう言ってくれて嬉しいよ。いつでも待っているから」
長井は笑顔で言った。
それから、色々と近況など暫く雑談した。
「そういえば、名前変えたんだってね。ええと、『早川由衣』だったっけ」
「そうです」
「そうか、その方が自然だよね……。じゃあ、また来るよ」
長井はそう言って病室を出た。
由衣は、長井の顔が疲れている様に感じた。自分がいないからだろうか? いや、それは大げさだろうか。今職場でどうなってるか、聞いた話でしか想像出来ないけど——やっぱり大変なのかな、と思った。