散歩
二月に入り、寒さも厳しさを増してきた。
文彦の住む岡山県南部では、雪は滅多に積もらない。この年も、降る事はあっても積もる事は無さそうだった。
文彦は最近少し歩ける様になったので、外を歩いてみたいと思う様になっていた。去年意識を回復して以来、大体三ヶ月くらいなるが、一度も外には出ていない。病室を出られたのも今年に入ってからだし、リハビリを始めて、少しだけでも歩ける様になったのなら、やっぱり外を散歩してみたいと思い始めていた。
「あの、先生。外を散歩してみたいんですが……」
文彦は岡本に尋ねてみた。
「うん、確かに良くなってきてはいるし、気分転換にもなるからいいけれども……今の時期は外はかなり寒いし、ちゃんと着込む事と、当然だけど必ず看護師の誰かを付き添わせるなら構わないですよ」
「分かりました」
岡本が病室を出た後、ナースコールを押した。すぐに看護師がやってくる。やって来たのは島崎だ。
「——早川さん、どうしましたか?」
島崎は笑顔で部屋に入ってくる。
「島崎さん、あのう、外を散歩したいんですけど……付き添ってもらえますか?」
「外ですか? 今日も寒いですよ。先生はどう言ってました?」
「先生は付き添いがいたら構わないって言われました」
「じゃあいいんですが……早川さん、そういえば何か防寒着はありますか?」
「そういえば手元には無いなあ……」
基本的に屋外に出る事が今までに無かったので、手元にあるのは室内で寒くならない程度の衣服しかなかった。
「——じゃあ今日はとりあえず、誰かのを借りてきましょうか」
島崎はとりあえず借りてくる事を提案した。
「お願いします」
島崎がナースステーションに帰ってくると、柴田と太田がコーヒーを飲みながら談笑している。一息ついている様子だ。島崎は柴田に声をかけた。
「柴田さん、何か防寒着があるかしら。あったら貸して欲しいのだけど」
「え? ——そうですね、私のダウンジャケットでいいですか?」
「ええ」
「ちょっと待っててください」
柴田は更衣室に行って、自分のダウンジャケットを持ってきた。いつも通勤時に着ているものだ。細身のスタイルで、色は水色である。
「どうするんです?」
「早川さんが外を散歩したいって言っててね。早川さん防寒着が無いから、とりあえず誰かから貸してもらおうと思って」
事情を説明しながら、柴田からダウンジャケットを受け取った。
「へえ……早川さん、外を散歩かあ。もしかして初めてじゃ」
側に座っていた太田は、コーヒーをひと口飲んで言った。
「何かいい傾向ですね。リハビリも軌道に乗ってきたし、順調に回復してるんじゃないですか」
柴田もコーヒーをひと口飲むと、嬉しそうに言った。
「そうね。何だか前向きになってきたのかもしれないわ。じゃあ、借りてくわね」
「はい、行ってらっしゃい」
「柴田さんのダウンジャケットを借りてきたわ。着れますか?」
水色のダウンジャケットを腕に抱えて部屋に入って来た島崎は、文彦の前で広げてみて、大きさを確認してみる。みた感じではサイズ的には着る事に問題なさそうだ。文彦はそのダウンジャケットを着てみる。少し大きいが、サイズは問題無さそうだった。柴田は身長が高く、文彦よりも高い。小さくて着れないという事はないだろう。
文彦は一度脱いで、パジャマの上にフリースを着る。これは病室の外で寒いと困るので用意しているものだ。この上に柴田のダウンジャケットを着る。最後に看護師達からのプレゼントであるマフラーを巻いて完了である。
「じゃあ行きましょうか。とりあえず、車椅子で下まで行きましょう」
島崎は文彦を車椅子に乗せて、松葉杖を文彦に渡す。文彦が松葉杖を抱えると、病室を出た。エレベーターまで行って、そこから一階まで降りる事になる。病室の外は閑散としており、二、三人の患者と病院関係者の姿が見えた。
すぐにふたりがエレベーターのところまでやって来ると、そばに備え付けられているボタンを押した。少ししてエレベーターのドアが開いた。すると、中から原田が出てきた。
「あれ? 早川さんどこか行くの?」
不思議そうな顔をして聞いた。ダウンジャケットなど着込んでいるのは、初めて見る姿だったからだ。
「ええ、ちょっと外を散歩にね」
島崎が答えた。
「へえ、いいですね。——早川さん、今日も結構寒いわよ」
原田は少し震える様な仕草をした。
「本当ですか。でも晴れてるし大丈夫ですよ」
文彦は笑顔で答えた。
「まあ、折角なんだから楽しんできてね」
原田は文彦達に手を振りながら、ナースステーションの方に向かって行った。
「うーん、やっぱり外はいいな。ちょっと寒いけど」
文彦は気持ち良さそうに背中を反らす。
「そうね。よかったら今後も時々お散歩しましょう」
「そうですね」
文彦は松葉杖を使って車椅子から立ち上がる。最近はよく松葉杖で歩く練習をしていた。
「よいしょ……」
文彦は松葉杖でゆっくりと歩く。最初の目的地は前方、二十メートル程先にあるベンチだ。
「大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
文彦は心配そうな島崎を横目に、意気揚々とベンチを目指す。松葉杖で歩くのは以外と難しいが、最近は結構慣れてきていて、ゆっくり進めば問題無い。島崎がいざという時は支えるべく、そばで歩調を合わせくれてている。文彦は体全体が不調な為、上半身で支える松葉杖は大変だろうと思うだろうが、体の重量のかなりの部分を松葉杖が支えてくれる為、バランスさえうまくとる事が出来ればかなり有用だった。
そんな時、正面から高校生くらいの男の子が歩いてくる。格好からして入院患者だろう。
――男の子は正面から来る松葉杖の女の子を見て、目が離せなかった。凄く可愛い子だ……誰なんだろう? 見た感じは入院してる子かな? あんな子と仲良くなれたらなあ……。
気づかれ無い様に横目でジロジロ見ながらすれ違う。そしてそのまま距離が離れていく。結局声をかける事は出来なかった。はあ……まあ無理だよなあ……がっかりするが、また機会があるさと前向きに考えて歩いていった。
ちなみにその女の子、文彦は歩く事に集中していて男の子には気が付かなかった様だ。
ようやくベンチに辿り着くと、文彦はゆっくりと慎重にベンチに座る。少しよろけるが、すぐに島崎が支えて難なくベンチに座らせた。
「よいしょ」
「到着、おめでとう」
島崎はニコニコしながら手を小さく叩いた。
「たったこれだけの距離でも、まだやっぱり大変ですね」
「でも早川さんは松葉杖だけで、自分の力でこのベンチまで来れたのだから、早川さんの努力の賜物ですよ」
「はは、そんな……」
文彦は照れ笑いした。
「——いい天気ですね。気分はどうですか」
「んんっ、とってもいいです……」
両腕を上げて体を伸ばしながら、文彦は笑顔で返す。
島崎は文彦の横顔を見た。非常に端麗な横顔だ。彼女の髪は太陽の光に照らされてキラキラとまるで宝石の様に輝いていた。島崎は少女の姿に暫し見とれていた。そこに風に吹かれた枯葉が由衣の髪に引っかかった。島崎はそれを取ってやった。
「あ、すいません」
由衣が島崎にお礼をいうと、「早川さん……本当に綺麗な髪ね。ちょっと触ってもいいですか?」と島崎が尋ねた。
「え? ああ、いいですよ」
島崎は隣に座る文彦の方に手を伸ばし、髪を触る。艶やかな黒髪はとても綺麗で輝いて見えた。それほど丁寧に手入れをしている訳では無いにも関わらず、この艶やかさはどうしてなのだろう? 島崎は後頭部に手を回して、頭を撫でてみる。本当に綺麗な髪だ……。
「あの……島崎さん」
「え?」
島崎は目の前の美少女の顔が、自分の胸に埋もれる様になっているのに気がついた。いつの間にか文彦の頭を自分の胸に抱き寄せる様になっていた様だ。
「ご、ごめんなさい……」
顔を赤くして文彦に謝る島崎。
「い、いえ……」
同じく顔を赤くしている文彦。
「さあ、もうちょっと歩いてみます?」
島崎は少し気まずい雰囲気を変えようと提案した。
「そっそうですね。今度は向こうのベンチまで行ってみたいです」
文彦はここからずっと先のベンチを指差した。
「じゃあ、あそこまで行って少し休んだら、東側入り口から中に入って部屋に戻りましょうか」
「はい」
島崎に手伝って貰って立ち上がったら、松葉杖を使って再びゆっくりと歩き出した。