ゆい
文彦は毎日一時間程度リハビリをしている。そんなに大変なものではなく、時間も割とあっという間だ。そう簡単に効果が出てくるとは思わないが、こう毎回変わらないと本当に良くなるのだろうかと少し心配になってくる。
ともかく今日も島崎に車椅子に乗せられ、リハビリセンターに向かう。
今日のメニューを終えてベンチで休憩していた。島崎はさっき人に呼ばれて、向こうに行っている。
すると、この間から見かける温厚そうなお婆さんに声をかけられた。丸顔で目が細く、ニコニコした優しい表情のお婆さんだ。
「こんにちは。よく会うねえ」
お婆さんは、文彦を見て挨拶をする。
「こ、こんにちは……。そうですね」
文彦も笑顔で挨拶を返した。毎回見かけるという訳ではないが、顔を覚えるくらいには見かけていた。
「ねえ、あなた。お名前何ていうの?」
「え?」
文彦は困ってしまった。以前から考えてはいたのだけれど、後々問題になってくる名前。今までは周りは知った人ばかりで気にする必要が無かったが……。明らかに男性名である文彦だと言えば、変な目で見られないだろうか? そう考えるとうっかり言う事もできない。
「えっと……まあ、その……」
——どうしよう。信じてもらえるかな……いや、しかし……。
本名を名乗るか、嘘でも適当な女性名を名乗るか、どっちが問題ないか迷ってしまい答えられない。
「ん? どうしたの?」
お婆さんはニコニコと微笑みかけてくる。
——あまり黙っていると、その方が変に思われるし……えっと……。
「『ゆい』と言います」
——嘘を言ってしまった。やっぱり文彦では変に思われかねないと思った。それに咄嗟に思いついた名前を言ったが、これは……。
「『ゆい』っていうの、そう。可愛い名前ねえ」
「……あ、ありがとうございます」
——どうしよう。でも名前が違う事には変わりない。嘘がばれたら……。
「『ゆい』ちゃんは中学生?」
お婆さんはさらに容赦無く、言い難い事を聞いてきた。当然、史彦は中学生ではない。もう立派な社会人だ。でもこの姿では未成年にしか見られない。そのくらいに見られても、まあ、おかしい話ではない。
——どう答えたらいいのだろうか?
「えっと、あの……中学生じゃないです……」
「あらそうなの? ――じゃあ高校生?」
——どうしよう。何て答えたら……。
「そ、そうです……」
また嘘を言ってしまった。
一度嘘を言ってしまうと、次もまた嘘をつかざるをえなくなり、また嘘ついてしまう。そしていつの間にか嘘だらけになる……よく聞く話だけど、今まさにそういう事なんだなと妙に納得した。
「早く良くなって、お友達と勉強出来る様になれるといいわねえ」
「そ、そうですね……」
文彦はもう苦笑いしかない。
そんな時、島崎が戻って来た。
「早川さん、それじゃあ戻りましょうか」
「あ、はい」
するとお婆さんは、
「またね、『ゆい』ちゃん」
と車椅子に乗せられる文彦に笑顔で声をかけた。
「『ゆい』ちゃん?」
島崎は何の事? と、文彦の方を見た。
「い、いや……まあ、島崎さん行きましょう! じゃあ、おばあちゃん」
文彦はお婆さんに笑顔で手を振って、すぐに島崎に「いきましょうか」と言って、そそくさとリバビリセンターを出て行った。
「『ゆい』ちゃんって何ですか?」
島崎はニコニコしながら聞いた。
——やはり聞くか……いや、多分どういう事か薄々分かって言ってるんじゃ……。
「まあ、何ていうかな。知らない人に本名を言うのは……ちょっと、って思って」
「ああ、なるほど。こんな可愛い女の子が男性の名前じゃあ、『え?』って言われちゃいますもんね」
島崎は嬉しそうに微笑む。
「はは……そ、そうなんですよ。やっぱり男の名前だし、どうかと」
「確かに問題ですね。気にしないっていう訳にもいかないし。名乗る度に事情を話してっていうのも大変だろうし。うーん、どうせなら――いっその事名前を変える、改名するって言うのも考えてもいいかもしれないですね」
――改名。そこまでは考えていなかったけど、このまま生き続けるからには……まあ確かに手段のひとつかもしれない。
「まあ、改名云々はともかくとして、やっぱり変な風にというか、とにかく違和感を持たれない様にしたいですね」
「そうですね。でも『ゆい』っていうのは?」
島崎は同然の如く、由来を聞いてくる。
「……何だったかな? 小説か何かの登場人物だったかも」
うっかり言ってしまったのだから、由来は何かと言われるとこれだというものが思いつかない。
「ああ、なるほど。なんていう字を書くんですか?」
「うーん、どうだったかな? そこまでは憶えてないな……」
「早川さんが考えて決めちゃえばいいじゃないですか。似合ってると思うし、とりあえず今後はそれで通してもいいんじゃないかな」
「まあ、そうですかね」
文彦は曖昧な返事をした。改名とかいうと結構大事だろうと思うので、やっぱり慎重にしたいところだと考えた。
次の日のリハビリで、昨日のお婆さんにまた会って声を掛けられる。
「『ゆい』ちゃん、こんにちは」
ニコニコしながら近づいてくる。また会ってしまった様だ。
「あ、そうそう。島崎さんが言ってたわねえ。『ゆい』って言うんだって?」
車椅子を押していた原田がニヤニヤして言った。
「ま、まあ……」
文彦は苦笑いした。何か結構恥ずかしいのだけども……。
お婆さんはまた文彦の側にやって来た。文彦は「こんにちは」と挨拶した。
「今日も会ったわねえ」
お婆さんは昨日と変わらない笑顔で文彦に話しかける。
そうこうしていると、いつの間にかリハビリセンターにいた老人達が集まってきた。文彦は何やら面倒な事になりそうな気がして、気が滅入ってきた。
「若い子だねえ、アキさんの知ってる子かね?」
お婆さんの近くに居たやせ細った老人がお婆さんに話した。
「そうなのよ。『ゆい』ちゃんっていうのよ。高校生よ」
周りに文彦の事を話している。それも全部。嘘なのだし困った事だが、今更嘘だとは言えなかった。
「可愛い子だねえ。饅頭食べるかね」
別の老人がどこに隠し持っていたのか、饅頭を食べろと勧めてくる。それにしても老人はどうしてこう、何か食べろと勧めてくるのだろう。
「あ、いや……その……」
オロオロする文彦に老人たちは容赦なく攻め立ててくる。
「うちの孫によう似とって可愛らしいのう」
「学校休んどるの? 大変だねえ」
また別の老人に声を掛けられる。
いつの間にか、老人達が十人くらいに囲まれていた。多分側から見たら、一体何事かと思われているだろう。原田は、いい加減収集がつかなくなりそうな雰囲気になってきたので、
「コラコラ、もう。みんなリハビリに来ているんでしょ。『ゆい』ちゃん、みんなが囲むから怖がってるじゃないの。さあさあ」
原田は老人達を追い払う。別に怖くはないが……心の中で原田に感謝した。
「さ、お爺ちゃん達はほっといて『ゆい』ちゃんはリハビリをはじめましょうか。ね、早川『ゆい』ちゃん」
原田は笑顔で『ゆい』をやたら強調する。
「はは……そうですね」
文彦は苦笑いするしかなかった。