目覚め
「——早川さん、早川さん。分かりますか? 島崎です。早川さん!」
……僕は自分を呼ぶ声に気がつく。目の前の視界はまだ真っ白だ。どこから声が聞こえているのだろう?
——暫くすると目の前がぼやけているものの、薄っすらと見えてきた。人の顔らしきものが見える。今必死に声を発しているのは、どうやらその顔の人の様だ。
この顔は……もう少し見える様になると、それは看護師の島崎である事に気がつく。
声を掛けようとするが、声が出ない。まだぼんやりしている感覚で、どこかスッキリしない。
いつの間にか人が増えてきた様に感じる。何人いるのだろう? まだ視界もぼやけたままだし、身体が金縛りにあった様に全く動かない。周りが騒々しかったが、その内また意識がぼやけていった。暫くして再び眠りについた——。
「——早川さん!」
夜勤の島崎は、この真夜中の巡回中に文彦が目を開けたのを見た。とうとう目覚めたという事だ。慌てて呼びかけるが反応は無い。
とにかく岡本を呼ぶべきだと考えて、ナースコールを手に取った。
少しして岡本と原田、青山がやってくる。
「本当だわ、目を開けてる」
原田は文彦の目が開いているのを見て声を上げた。
「早川さん、早川さん!」
島崎は再び呼びかけたがやはり反応は無い。
「ふむ、まだ呼びかけに反応出来るほど回復はしていないのだろう。……とりあえず検査の準備を」
翌日午前六時、島崎は文彦が再び目を覚ましているのに気がつく。
「早川さん、早川さん。分かりますか?」
やはり文彦の反応は無い。島崎は文彦の幼く華奢な肩に触れてみる。暖かい生命の温もりを感じた。彼女は生きている。そして目を覚ました。ただ、まだ何らかの反応を示す程には回復していない。でもきっと……。
それから他の仕事をこなしつつ、折を見て原田ら他の看護師達と交代で声をかけ続けていた。ナースステーションに戻ってきた原田を見るが、原田は無言で首を振った。
「ダメか……」
再び病室に来ていた島崎は、——やっぱりまだ身体がいう事を聞かないんだろうか。と、少し落胆した。そんな折、後ろでドアの開く音が聞こえた。
「どうだい?」
岡本がやってきた様だ。
「ええ、目が覚めている様なのですが、呼びかけに反応がありません」
「うん、まだ時間が掛かるかもしれないね」
岡本は文彦の状態をじっと観察しながら言った。
「そろそろご両親が到着するから、用意しておいてくれ」
岡本はそう島崎に伝えて、病室を出た。
文彦の両親には夜が明けてから一時間程前に連絡をしていて、電話に出た宣子は「すぐに行く」と言っていた。
それから十分程して病室にやってきた。
「文彦、文彦!」
部屋に入るなり、宣子は泣きそうな顔をして文彦に呼びかけた。
「お母さん、呼びかけには答えられません。まだ身体の自由が効かない様です」
島崎は宣子に説明する。
「目が開いてるし、覚めてはいるんだなあ」
光男は文彦の顔を眺めつつ言った。
「そうですね。聞こえてはいるのだと思うのですが……まだ時間が必要だと思います」
島崎は親達の安心した様な表情に少し安堵する。
「おはようございます」
岡本が病室に入ってきた。
「先生! どうもありがとうございます、文彦が……ようやく……」
宣子は嗚咽を漏らしつつ、岡本に何度も頭を下げる。
「お母さん、まだまだですよ。文彦さんはこれから日常生活を送れる様に、やらなくてならない事が沢山あります。とりあえず、我々の呼びかけに応えられる様にならないと」
岡本が宣子と話をしている間に、島崎は文彦の顔を見る。
焦点が合ってない感じではあるが、目を開けている。とても可愛い顔の少女だ。多分笑うととても魅力的なのだろう。早く笑顔を見せられる様になってくれれば……。
その後、暫く宣子と光男は病室に居たが、今日は流石にこれ以上の進展はないだろうと岡本が判断したので昼には帰った。
文彦が意識を戻して五日目の事。
岡本は柴田と共に病室で文彦の容体をチェックしていた。
ふと岡本は文彦の顔を見て、
「早川さん。気分はどうですか?」
と声を掛けてみる。やはり反応は無いか、と思ったら……文彦の目が動いた。
「あ、早川さん?」
「どうしたんですか?」
柴田が側に来る。
「早川さん、分かりますか?」
文彦は岡本の方を見て、少し微笑む様に口が動いた。
「先生! 早川さん、口が動きましたよね!」
柴田は少し興奮した声で言った。
「そうだね。少しづつだが確実に回復している様だ」
岡本は文彦を見て、
「早川さん。まだ話す事は難しいでしょうが、焦らずじっくりいきましょう」
そう言って微笑んだ。
意識が戻ってから二週間程経った頃。文彦は目や口だけでなく、指など身体を僅かに動かせる様になっていた。
島崎は文彦の手を握ってやる。とても綺麗で繊細な指だ。人の温かみを感じて嬉しいのか、可憐な容姿の少女は少し微笑んだ。
「早川さん、気分はどうですか?」
「……」
何か聞こえた。声が聞こえた気がした。
「早川さん、早川さん?」
「……しま……ざき……さん……」
——やっぱり! 聞こえる。僅かではあるけど、声が出るようになった。
「すごい! 早川さん。聞こえますよ、出せるようになったんですね!」
文彦は微笑んだ。普段落ち着いた物腰の島崎も、この時ばかりは興奮を抑えきれなかったみたいだ。
それから更に一週間ほど経つと、声自体は小さいけど短時間なら会話が出来るようになった。岡本は少しづつ様々な事を聞いた。
——まず、気分は良い。頭もスッキリしている。
——そして全身の痛みが無くなった。
——体はまともに動かないけど、少しづつ動く様になっているし良い感じだ。
という事を、時間をかけて少しづつ話ていた。
更に一ヶ月程経った頃、もう十二月に入っていた。この頃になると文彦はかなり体が動くようになった。腕を動かして、物を持ったりする事が出来る様になった。声も小さいながら普通に声が出るようになり、普通に会話が出来る様になった。まだ体を起こすのは大変だが、少しなら出来る様になったみたいだ。
しかし、これから文彦は厳しい現実を知らされる事になる。
「早川さん。もう薄々気づいているかもしれません。あなたは<若返り>を発病したことにより、体が変化しています」
「はい、それは分かります……」
文彦は、当然体の変化はあると思っていた。<若返り>である以上、そうなる事は必然だったし、自分の手を見ても、かつての手じゃないのは分かる。とても細くて繊細だ。
それと、声。高く澄んだ可愛らしい声はとても自分の声に思えなかった。
「どうか冷静になってください。あなたの姿がどうなろうと、早川さんは早川さんに違いないのです」
非常に気を使った言い回しで、変化の度合いが激しく、衝撃的であろう事が予想された。
「さあ、体を起こしましょうか」
看護師の島崎はベッドのサイドに備えられたスイッチを操作する。小さな電動音を鳴らしてベッドの半分が起き上がり、文彦の上半身が起き上がった。
それから島崎は三十センチ程度の大きさの長方形の鏡を文彦の前に掲げた。
文彦は鏡に映る自分を見た。一体自分はどんな顔になってしまったのだろう。悪い予想はしていた。とても醜い顔になっているんじゃないか、そんな風に考えたりもしていた。
しかし――その予想は裏切られた。とても若くて綺麗な顔立ちの人物が映っている。かなり若い感じがする。良い方に裏切られたかなと思ったが……どうも違和感がある。
「何だか――これは?」
「早川さん、あなたには大変に稀な症状があります」
岡本は一息つくと落ち着いた声色で話始めた。しかし文彦の動揺は誰の目にも明らかだった。
「あなたは<若返り>によって容姿が変化しました。その姿は――見た感じでは二十歳以下、およそ十代半ばから後半くらいでしょうか。どうあれ未成年に見える様な姿です。そして……同時に『性別が変わってしまった』のです。早川さん、あなたは今『女性』なのです」
緊張した面持ちで話す。岡本は不意に眼鏡のフレームを触った。
文彦は何を言うんだろうか、まさか信じられない、という顔で岡本を見ていた。
「……なぜ? いや、まさか……」
文彦は視線を落とし、下を見た。
「島崎さん……」
岡本は島崎の方を見る。
「はい。早川さん、ちょっと失礼しますね」
岡本から言われ、島崎は鏡を一旦テーブルに置いて、文彦の方に手を伸ばして患者着の胸元を少し開いた。胸が半分程露出している。その状態で島崎は再び鏡を持って、文彦の胸元を映した。
そこには、男の胸とは到底思えない膨らみがあった。そこまで大きくは無いが、明らかに女性の乳房としか思えないものだ。
「――これ、は?」
文彦は驚愕していた。顔もそうだが、体も女性なのは明らかだった。
「性器も女性のものに変わっています。見てみますか?」
「ええ……まあ」
島崎は患者衣の腰の所を捲って股間の部分を見える様にした。そこには女性の下着を履いている腰が見える。その下着の内側に在るべきものが無い――明らかに女性だった。
「体は完全に女性の体に変わっています。今年の八月頃、大体四ヶ月程前に変化が止まりました。それから現在までは体の変化は確認できません」
「あ、あの……<若返り>は性別まで変わると言うのは聞いた事が無い……です。これはどうしてこんな事に」
文彦は冷静になろうとしつつも、動揺が隠せない表情だった。余りの事にどうしたらいいのか、何が何だか分からないという顔である。島崎は文彦の顔をまともに見る事が出来なかった。
「我々もこれは未知の部分が多すぎて、分かりません。引き続き検査と研究を進めていくしかありません」
「あの……分かりました……もういいです。少し休みたいです。一人にしてください……」
「ええ、ゆっくり休んでください。我々も早川さんの一日も早く退院出来る様、頑張ります。では」
「ベッド倒しますね」
島崎は鏡を置いて、ベッドのスイッチを操作した。
文彦は考える。薄々はそういう事だろう、というのはあった。
若返った——それも未成年と言ってもいい程の年齢になった。でもそれは時間が解決してくれるだろう。数年後には成人の容姿になって、時と共に老いていくのだろうし。
しかし性転換というのは、かなりの問題だった。
――男にあって、女に無い物。
――男に無くて、女にある物。
それぞれあって、文彦は今まで男として生きて来た。だから男としての生き方や社会のシステムで生活してきたのだ。今更――そう、今更女として生きようとしても出来るのだろうか。とても難しい……そう、とても厳しいだろう。
そういう事を考えていると、気が重くなってきた。とりあえず今は考えないほうがいい。少し眠ろう……。眠ったところで何の解決にもならない、起きたらまたこの現実が待っているだけだ。しかし文彦には今はもう眠る事でしか精神を落ち着かせる事が出来なかった。
暗闇の中、文彦は目が覚めた。真っ暗な天井を眺めて、先ほどの鏡に映った自分の姿を思い出す。気になっていたのだ。どこかで見たことがある顔だと。
――ゆっくりと思考する。
君は誰だ? 誰なんだ?
僕は目の前に自分の姿がある事に気がつく。
――そう、やっと分かった?
――私はあなたなのよ。そうあなたは私なの。
文彦は一瞬大きく目を開いた。
――そうだ、夢だ。夢の中に出てきた……そうだったのか。
あの不思議な夢の中の人は……今の自分だったのか……。
どうしてあんな夢をみていたのだろう。何かを警告していたのだろうか? 考えてみても分からない。
でももうこんな姿になってしまった今では、もうどうでもいい事なのかもしれない。
文彦は再び目を閉じた。次第に眠りの世界に導かれていく……。
それから一週間以上経つが、文彦は未だ苦悩していた。何故こんな姿になってしまったのか。<若返り>で性転換など聞いた事が無い。
そうなのだ。テレビなどでも<若返り>に関する報道はあるが<性転換>などというものは全く無い。
まさか何故そんな事が起こってしまったのか、さっぱり分からない。一体どういう原理で<性転換>なんて起こるんだろう? 不思議でならない。
視線を落とし、胸元を見る。――そして更に下を見た。もう男ではない、男ではないのだ……。
思案した文彦は頑張って上半身を起こす。かなり大変だが、どうにか起こす事が出来た。そして着ていた患者衣を脱ぐ。腹の辺りで紐で結んでいるだけなのでこれを解くと簡単にはだける事が出来る。指がまだ動き辛いが、蝶結びなので簡単に解けた。脱ぐと下着だけの、パンツとブラジャー姿になる。
パンツは白い地味なデザインのものだ。ブラジャーはスポーツブラっていうんだろうか? そういう感じのを付けている。共に病院で用意してあるものだと聞いた。
まじまじと自分の体を見た。本当に女の体だ。膨らんだ胸、括れた腰、股間には本来あるべきものが無い。何度見ても以前とは違う、もう僕は男ではない。
以前の文彦は別にハンサムでもなく、背も低く、イマイチな容姿だった。それに比べたら、今の姿は容姿端麗である。大分若く見えるし、一般的に美少女と呼んでいい容姿だと思う。いや、はっきり言おう、信じられないくらい完璧な奇跡の美少女だ。
しかし、色々と問題も多い。ともかく女の子では……これでどうやって生きていけばいいんだろうか。
この姿では今の仕事は無理だろうし、どうしたらいい? 収入を得て生活していく為にはどうするべきだろうか? 暫くは親の元で暮らしていればればいいのかもしれないが、ずっとそうしている訳にはいかない。
あれこれ考えていると上半身を起こしているのが辛くなって、後ろにばったりと寝転んだ。まだ歩く事はおろか、体を起こすのさえ困難な状態だ。前途多難である。
「ふうっ……やれやれ」
その時、ドアを叩く音聞こえて島崎が入ってきた。
「早川さん、検査の時間ですよ……早川さん?」
青い顔をして駆け寄ってきて、必死に僕に呼びかける。
「大丈夫ですか! どこか辛いですか?」
何事かと思ったが、さっき寝転んだのが、どうやら島崎には体調を崩して昏倒した様に見えたらしかった。
「い、いえ……大丈夫です。寝転んだだけです……どこも悪く無いですよ」
「そっそうですか、よかった……」
島崎は大事でないと分かって安心した様だ。
「でもどうしたんですか? まだ体が完全じゃないのだから、用があれば何時でも呼んでくださいね」
「そ、そうですね……今度からそうします」
「さ、車椅子に座りましょうか」
文彦はこの後、検査に向かった。
文彦の普通の生活への道のりはまだまだ遥か遠い。