長い眠り
岡本は自宅の机の前で、ノートを開きそこに書かれている日記の様なメモ書きを見ている。文彦がこの病院に来てからの記録を個人的にメモしていたものだ。
丁度、意識を失った後の頃のを見ている。ほぼ毎日書かれていた様だが、その中で幾つかを抜粋する。
――岡本の手記――
二◯一五年十一月十九日十六時二十七分。早川文彦、反応無し、昏睡状態。
早川文彦の両親、早川光男と宣子は昨日から病院に詰めており、特に母親の取り乱し様は見ていてやはり辛い。
既に<若返り>の症状を見せており、既に別人と言っていいくらいの変化をしている。症状はまだ進行中で、どこまで変わっていくのか分からない。
また、早川文彦は<若返り>だけでなく<性転換>も同時に起こっている。これは今の所、早川文彦ただ一人にだけ見られるかなり稀な症状だ。
容姿は既に女性の体と言っていい状態。しかし本人はまだその事に気がついていないのかもしれない。
現時点でどうなっているか。
見た目はかなり若く、少なくとも二十歳より上と言うことはない。十代後半……いや半ばくらい、十五、十六歳くらいだろうか。
性転換にて女性となれば女性器がどうなのかという事になるが、十五日の検査では完全に女性器となっている。当然外観だけでなく内部もそうだ。しかし出産は可能なのか、これは現在では不明。
体型だが、変化前と比べて随分体格が変わった。女性の体となっている事もあり、身長もそうだが基本的に小柄になった。若くなっているものあるだろう。顔が小さく、胴は短く手足は長くなった様に感じられる。骨格が完全に変わっているとしか思えない。
変化前の姿を知っている人からすると、このベッドに横たわる患者の変化の度合いが余りにも大きい事に驚愕するしかない。
ただ、これまでより変化の度合い自体はもう大きくない様に思う。彼の苦痛が少しでも緩和されている事を祈るばかりである。
二◯一五年十一月二十五日
数日経つが、症状の進行は未だ止まらない様だ。
見た目の変化は流石に数日くらいでは分からない。容体は今の所安定している。
二◯一五年十二月一日
昏睡状態から二週間程なる。
肌の感じが少し良くなった様に見える。
容体自体は安定している。
二◯一五年十二月八日
以前から感じていたが、髪など体毛の伸びが非常に遅い。これは入院当時から今まで髪を切っていない。およそ五センチ伸びたかどうかという感じか。
ただ、これは容姿が大きく変わるまでの話で、昏睡状態になった頃辺りからは、殆ど伸びていない様にも感じる。
二◯一五年十二月二十八日
容体変化無し。身体の変化も特に顕著な部分は見られず。
今年ももう後数日だが、大変な一年だった。
早川文彦……彼、いや彼女はどうなっていくのか。
二◯一六年一月十日
容体は変わらず安定。
容姿は入院当時と同一人物とは思えないくらいに変化している。
それにしてもこの変化……いつも思うが、<若返り>は何故こうも以前と容姿が変わり果ててしまうのか? 完全に別人である。何らかの遺伝的特徴は残っても良さそうなものだが。
二◯一六年五月十一日
今日、倉大で二人、若返り患者が退院したそうだ。比較的症状が軽い患者で、リハビリも順調にいったらしい。
二◯一六年七月六日
最近は身体の変化が見られない。ようやく止まったのかもしれない。
アメリカにて<老化>及び<若返り>患者は受精する事が出来ないと発表される。性行為自体は可能でも子孫を残す事は出来ないと結論付けられた。<性転換>が起こっている早川文彦の場合はどうだろうか。いや、多分同じく出来ないのだろうと予想される。
二◯一六年七月九日
精密検査を行う。変化は止まったと判断していいだろうと思う。
こうして見ていると身体の構造は完全に女性だが、はやり彼女も他の患者と同様だと考えられる。
――盆休みを利用して帰省している従姉妹の高村景子は、目の前の光景を信じられないでいた。
「これが文くん……どうして? <若返り>は全く変わってしまうとか言うけど、まさか……」
景子は山陽医大の五階、早川文彦の病室で文彦の姿を目の当たりにして驚愕していた。
目の前で静かに眠るあの可憐な少女が、自分の従兄弟である「早川文彦」だというのだ。文彦が<若返り>だというのは、前に聞いていたので知っていたものの、変化の具合がまさかこれ程とは……大まかには話に聞いていたが、いざ目の前で見せられると衝撃は大きい。
「信じられないのは無理もないねえ。僕もずっと見てきているから……いきなり見せられるとさすがに信じていないかもしれない」
と、文彦の叔父である角川慎介は言った。
慎介は妻と共に、文彦が入院した初期の頃から定期的に見舞いに来ていた。その為、文彦の変わっていく姿をずっと見ていた。
「でも、あの子は女の子に見えるわよ。それとも顔だけで体は男なの?」
「いや、完全に女の子の体だそうだ。かなり珍しいみたいだけどね」
「珍しいというか、そんなの聞いた事無いけど」
景子にはどうにも信じられなかった。
「それに……文くんは意識が戻るの? 確かもう半年以上になるよね」
「そうだね。でも何時かきっと目覚めてくれる。そう信じるしかない」
沈んだ表情で淡々と語る慎介。
「文くん……」
景子は再び文彦の顔を見て表情を曇らせた。
二◯一六年八月二十三日
経過を見ているが、身体の変化はここ数週間前からやはり変化無し。進行は止まったと考えられる。
後は患者が意識を回復するだけだが。
二◯一六年八月二十六日
入院していた別の<若返り>患者が今日退院した。早川文彦より後に入院した患者だったが、症状が軽い分回復も早かった。
しかし早川文彦は未だ意識が戻らない。
二◯一六年八月三十日
患者の身体の検査を行う。
容体は安定。意識は戻らないが、身体には問題は見られない。
身体は、身長は一六二センチ、体重は約四十五キロ、性別は女性。見た目の容姿は十代半ば。現状ではやむえない事だが痩せ過ぎだと思う。
実年齢とはかなりかけ離れた容姿だ。意識を取り戻した後、どう説明すれば良いだろうか?
二◯一六年九月十三日
患者の職場の上司がやってくる。長井という、以前から定期的に見舞いに訪れている人物だ。職場復帰は出来るだろうかと聞かれた。本人も分かっているとは思うが、肉体労働の仕事と聞いているし、この体ではまず無理だろうと答える。
患者は職場では重要な立場にあるそうだが、同じ様に働くのはとても厳しいだろう。
諦めて後継の人に引き継いて貰う方向でいった方が良いと思うと答えた。
二◯一六年九月二十八日
相変わらず。患者は本当に目を覚ましてくれるのか、時々不安になる。
教授は絶対に目覚めさせろというが、前例の無い状態でどうなるか分からないというのに。
出来る事はした。最善は尽くしている。
二◯一六年十一月七日、未明。
早川文彦の意識が目覚めた。その時の担当の島崎が気がつき対応。私も連絡を受けて直ぐに駆けつける。
まだ意識が戻っただけで話す事も出来ない。しかし意識は戻った。まだまだこれからだ。
~夢、四~
とても白い。目の前が真っ白だ。
フワフワと体が浮かぶ様な感覚がずっと続き、寝ているのか起きているのかあやふやな感覚が僕の体を包み込んでいた。
どちらが上で、どちらが下なのか、それも分からず只そのまま身を任せて漂っていた。
そうしている内に、少しづつ視界がはっきりしてきた。薄っすらと見えてくる線、Y型に伸びている。あれは何だ?しかし段々と見えてきた。その線は空間の角の様だった。ここは四角い空間の内側、窓のない四角い部屋の中と言ったところだろう。その部屋の中に僕は居るらしい。
更に感覚がはっきりしてくると、僕はこの部屋で寝転んでいる事に気がついた。そして背中にに感じる感覚。包み込まれる様な優しい感覚だ。これは……布団の上に寝ているのか。頭を右に振ってみる。部屋の右側の状態が視界に映った。何も無い。只真っ白な部屋の中だ。今度は頭を左に振ってみる。そこには何も無い部屋の中の空間がある……はずだが、違う。
僕の視界の先に人がいた。
誰だろう? どうやら女の子の様だ。
とても綺麗な女の子だ。綺麗で優しい瞳をしている。僕の側でじっと立ち尽くしたまま、僕の顔を見ている。
この子は以前、夢にも出てきた子に似ている。いや、あの女の子だろう。僕はそう確信した。
「君は誰?」
僕はその女の子に声をかけてみた。声が出るか分からなかったが、どうやら問題無かった様だ。
――
やはり女の子は答えてくれない。
「どうしていつも僕の前に現れるんだろう?」
――
どうしても女の子は答えてくれない様だ。
――なた――
ふと声が聞こえた。
「え?」
――私はあなた。あなたは私――
「どういう事?」
女の子は意味の分からない不思議な言葉を呟いた。
――また会いましょう――
「ちょっと!」
女の子は僕に微笑むと踵を返して、向こうに歩いて行った。
僕は追いかけたかったが、動けなかった。
次第に遠ざかっていく女の子。
ただその後ろ姿を見送るしかなかった。
ふと、目の前が明るくなった。それは次第に広がっていき、僕の体を覆い隠していく。
そして視界は真っ白になっていく……。