発病
春の嵐とでもいうのか、最近は雨が多い。毎年こんな天気ではなかったと思うので、たぶん今年が多すぎるのだろう。
もうそれなりに暖かくなる季節だけども雨のせいか、それほど暖かくもない――むしろ少し寒い日々が続いている。頻繁に天気が悪い日が続くと、どうにもすっきりしないせいか気分も沈みがちだ。
今日も天気は良くない。今は止んでいるものの昼間は降ったり止んだりで、鬱陶しい天気である。
先週――いや、もっと前からだっただろうか。ずっと天気は良くない。一週間で二日くらいしか晴れた日がなかった様に思う。
ふと上を見上げると、そこには薄灰色がかった雲に覆われた空がある。春の陽気とはとても似つかない陰鬱な色がずっと向こうまで広がっていた。
しかしそんな空もまたいつしか変わりゆくのだろう。
いつだって季節は移り変わっていくものなのだ。
――二◯一五年四月十五日、水曜日――
早川文彦はまだ明るい夕方の空の下、真っ赤なクロスバイクで自宅に帰宅中だった。
文彦の職場は十七時が定時だ。最近になって初めて職場に導入されたタイムカードを打って退社した。
会社の作業服を着たまま荷物を入れたリュックを背負いヘルメットを被る。そして足首に裾止めバンドを巻きつけるとクロスバイクにまたがって発進する。作業服を着たまま帰るのは自転車に乗ると汗を掻くので、洗濯物を減らす為に着替えは自宅でしたい為である。
文彦は自転車で通勤していた。およそ片道十キロ程の距離である。体力に自信があるからか、結構体力を使う仕事だとはいえ十キロの距離などは大した事は無かった。それなりに疲労はあるにせよ、むしろ風を切って駆け抜ける心地よさは、通勤時間のちょっとした楽しみと言えた。
文彦はヘルメットは必ず被っている。自転車用の、穴の空いた流線型のデザインのもので、カラーはつや消しのホワイト。ヘルメットはカッコイイと思っているし、やはりスポーツタイプの自転車なら被るべきだと思っていた。
ちなみに裾止めのバンドはズボンの裾がチェーンに巻き込まれたり、チェーンなどの汚れで裾が汚れない様にする為のもので、これも必ず装着している。
五年程前に購入したこのクロスバイクは、スポーツタイプの自転車に興味を持って初めて買った自転車だ。余り高額な自転車ではないが、通勤には何も問題が無い。メンテナンスをちゃんとしていればいくらでも走ってくれる。もっとも通勤専用車になっているこのクロスバイクはたいしてメンテナンスはしていないのだけれど。
文彦は岡山県南東部にある瀬戸内市に住んでいる。職場は隣接する岡山市東区の東部地域の西大寺という町にあった。どちらも規模の小さい田舎の町だが、岡山市中心部とは比較的近くアクセスし易い為、田舎とはいえ意外と住みやすい町だと思う。
文彦の働いている会社は『倉岡工業』といって、機械の金属加工や取引先である化学プラント工場の設備補修などをやっている会社で、本社は倉敷市にあり岡山県内の四箇所に規模の小さい工場がある。従業員は全部で五十名いるかいないかという程度の中小企業である。文彦の配属されているのは、この西大寺の中心部から西に少し外れた場所にある西大寺工場だ。
この西大寺工場にある三つの班のうちの一つの班長をしている。チームメンバーが他に二人いて、三人組チームといったところだ。
文彦はクロスバイクを走らせながら仕事中の事を思い出した。
——勤務中にどうも体調が良くないのを感じていた。全身がジワジワと痛むというのか、更には全身の気怠さというのだろうか……それに節々に筋肉痛の様な痛みが全身にある。
実は四、五日前から明確に体調不良と言える症状は既にあった。まだそれ程でもないので様子見していたが、今日はもう明らかに痛いと感じる。ジワジワと文彦の体を蝕む様に全身に痛む。
最近は特に忙しい訳でも無く、そんなに疲れていない。それにこの様な全身に渡る痛みは過去に経験が無い。
――クロスバイクを漕ぐ足が辛い。まるで強烈な向かい風の中を必死に漕いでいる様な辛さだ。足だけが辛い訳ではないが、常に運動している足は特に辛かった。
道端に座って少し休もうか、そう考えもしたが文彦は足を止めなかった。ここで立ち止まるともう走れなくなるのではないか、そんな気がしてひたすら走り続ける。
岡山県に三本ある一級河川の一番東にあるのが吉井川で、この川の西側の堤防を北へ南へ走るのが通勤路だ。大雑把に見て、この吉井川を挟んで東側が瀬戸内市で、西側が岡山市の西大寺となる。
しばらくは辛いながらも特に問題無く走っていたが、道中半ば頃まで来たあたりで次第に辛さが堪え難くなってくる。ペースを落としてゆっくり走った。普段何でもない通勤路がとても困難な道で、まるで文彦の体に何かが絡みついて前に進むのを妨害している様な、そんな感じがしていた。
家に着いた頃には、全身に汗を掻いて気分もあまり良くなかった。汗と共に疲れと痛みも体から溢れ出す様でとにかく辛い。
早々に自室に戻って服を着替えた。疲労感だけでなく痛みも相変わらずで一向に良くならない為、机の前の椅子に座ってグッタリしていた。汗を掻いたままで少し不快ではあるが、とりあえず今からシャワーを浴びに行く気力は出てこない。
なんと無く机の上に置いてあったボールペンを手にとっていじってみる。たいしてどうする事も出来ず、とりあえず手にとってみたが結局何がしたいのか分からなかった。しかし、もしかしたら少し気分が紛れるだろうかと考えたのかもしれない。
いつもはこの辺りで机の上のパソコンでネットを見たりする所だが、そんな気にはまるでなれなかった。
天井を見上げて目を瞑る。視界が真っ暗になり、少し気分が落ちついた様な気がした。
文彦は今年で四十歳になる。この歳になれば……まあ、体のあちこちで悪い所が出てくるものだとも思う。今まで病気とはほぼ縁がなかったが――とうとうきたかな、と考えもした。
いや、しかしこの体調不良はついこの間からで、いきなりと言っていいくらい急に起こった。かなり深刻な重病ではないかと思い、少し寒い感覚を覚えた。
暫くして午後六時頃、母が夕食が出来たと言ってきた。夕食は母に用意してもらっていた。まあ実家に住んでいるのだから……そうなると思う。
少しして椅子から立つと、僅かに視界が揺らいだ。少し目眩がした。ただそれだけだったので夕食を食べに一階に降りた。
階段を降りる際は少し緊張した。途中でまた目眩がして足を踏み外したりしたら大事だ。
しかし特に問題無く降りる事が出来た。降りる途中、夕食のいい匂いがしてくる。この匂いは――今日はカレーライスだろうか? しかし文彦はあまり食欲が無かった。やはり気分がどうにも良くなく、体が辛いせいだろうと思う。カレーライスは文彦の好物のひとつだったが、全部食べられるだろうか、とも思った。残すと親が心配するだろうか。それで色々聞かれると面倒だなあ……と考えていた。文彦はそういうのを嫌った。
ダイニングキッチンに入ると、直ぐ右側にダイニングテーブルがある。予想通りカレーライスだった。自分の席には既にカレーライスが配膳されていた。文彦はスプーンを食器棚の引き出しから取り出して席に座った。隣に座る弟の善彦は既に食べ始めていた。
文彦もカレーライスを食べ始めた。いつもの味のカレーライスでとても美味しい。食欲は無いがやっぱりこれなら食べられそうな気がする。
両親と息子の間に特に会話は無い。文彦も善彦も積極的に会話は無い。長く一緒に暮らしている家族なんてこんなものだろうと考える。
文彦は今までずっと実家で暮らしている。本当は一人暮らしがしたかった。文彦は器用で、割と何でも一人で出来る為一人暮らしでもそんなに苦労する事も無いだろう。しかし金銭面では実家暮らしはやはり有利なのでズルズルと続けていた。文彦は現状に流されやすい性格をしていた。これは良くないな、と思いつつも何時もこの調子でズルズル流される。それで今この状態なのだ。
文彦は体調の辛さを堪えて完食する。そして最後に麦茶を一気に飲んだ。
夕食後、再び部屋に戻ってきた文彦は直ぐにベッドに寝転がる。夕食前より気分はいい。相変わらず体は辛いが、やはり好きなものを食べると気分は良くなる様だ。
天井を見あげてゆっくり目を閉じた。
——自分の体を蝕むこの痛みは一体何が原因なのか? すぐに思いつくのはやはり「癌」だろうか。多分だけれども、ほとんどの人が癌を疑うのではないか——
文彦は会社で年一回やっている健康診断くらいしか医者に見てもらう事が無い。いつの間にか癌に蝕まれていてもおかしい話ではないのかもしれない。
でも癌ってこういう風に痛むものなのだろうか? 痛いし辛いというのは聞いた事あるけど、正直なところ癌になった事のない文彦にはいまいち分からなかった。
他にはどんな病気が考えられるだろう? 健康だとか病気だとか、そういう事にはとても疎い文彦にはさっぱり思いつかない。――ネットで調べてみたら良いのだろうけど、それをするのが億劫になるくらい、気分も体調も良くはなかった。
明日病院に行くべきか――でも……文彦には明日は休めない仕事があった。チームリーダーである自分が居ないのは問題だ、そう考えるとやっぱり明日は病院には行けないなと思った。
大丈夫、まだ動けない様な辛さじゃない。どうしても厳しいなら金曜日に、でもいいじゃないか。
しかし、そういう考えが良くないという事も分かってはいた。しかし文彦には出来なかった。
のろのろと起き上がり、とりあえず風呂に入って寝よう。そう思って着替えを持って風呂場に向かった。
「ふう……」
湯船に浸かるとやっぱり気分が良い。このままずっと浸かっていたいが、そうもいかないだろう。
それにしても一体どうしてこんな痛みが出てくる様になったのだろう? 文彦は最近何か体を痛める様な事をしていたか思い出そうとした。しかし特段何も思いつかない。無意識の内に少しづつ病気にでも侵されつつあるのだろうか? ――今まで健康には全く気を使っていないから、いつ病気になってもおかしくはない。偏食な上に、ジュースや菓子類なども普通に食べる。いよいよそのツケが回ってきたって事かと考えた。
このまま病気が重くなって死ぬ事になったら……まあしょうがないね、諦めよう――なんて考えて、いざ死にそうになると足掻くんだろうな、と考えると所詮は意気地のない人間だな、と少し嫌な気分になった。
文彦は僕が死んで困る人はいるだろうか? と考える。……親は悲しむかもしれないが、困る人なんて特にはいないかもしれないなと思ったが、それはそれで悲しい事だと思った。
風呂から出ると少し気分は良くなっていた。体の痛みも少し和らいだ気がする。気のせいかもしれないけれども。痛み自体が無くなった訳じゃないので、もう寝る事にした。
直ぐ眠れるのかは分からないけれど。