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第4部 火の鎖、虹の釼  作者: 沙魚川 出海
火の鎖、虹の釼
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【イーリス】(三)

政権を取った者と、権勢を失った者

名声を得た者と、生命を奪われた者


善きものも悪きものも、歴史の掌の上……

 永遠の未来を望む人と、刹那の幸福を願う人。

 絶対に終わらないものなんて、この世には存在しない――だから永遠なんてものはありえない。多くの人はそう言うだろう。未来永劫などというものは存在せず、全てのものは引き寄せられるように零地点へと――刹那へと回帰する。

 それなのに――永遠なんてものはないと皆わかっているのに、どうして追い求めるのだろう。

 幻想を馳せ、懐想に耽り、空想を抱き、夢想に縋る。

 捨てられぬ夢、諦めきれない理想という魔力が人を狂わせ、ただでさえ短い蝋燭をさらに短くする。

 真実の永遠なんてものはない――そんなこと、誰もが理解していたはずなのに。

 永遠は在る――そう真顔で謳う者達が現れた途端、あっさりと心をぐらつかせ、奥深くにしまっていた黴だらけの希望を再び取り出すのだ。もしかしたら永遠はあるのかもしれないと都合よく思い込み、歴史に目を背けたまま――

 永遠なんてありえない。

 けれどもし、過去の幸せの時代だけを切り取って繰り返し見せられたら――何度も繰り返すことができたなら、その誘惑に打ち克てるだろうか。

 先へ進むことなく何度も時計を巻き戻し、刹那の幸福を廻り続ける行為は――ある意味永遠と呼べるのではないだろうか。

 続きゆく永遠の未来か。

 廻りゆく永遠の過去か。

 必滅と不滅。

 有限と無限。

 ニンゲンとイアカス――それぞれを導く運命の軌条が、どこかで交わることはあるのだろうか。



 灰色の厚い雲に覆われた空から、細かい雨粒がぱらぱらと降ってきた。館内に浸み込んだ湿った雨の匂いが鼻をくすぐる。

「イーリスさん」

 任務のブリーフィングが終わり本館から出たところで、沙汀さんに声をかけられた。顔見知りの司令や隊員と別れ、私は入口に佇む彼女に近づく。

「こんにちは、沙汀さん。どうかしましたか」

 今週は東北の基地に赴いて政治家と面会したり、バーラエナの幹部会議に出てただ話を聞いたり、飾りの仕事で忙しかったので沙汀さんにも会っていなかった。昼間は清火を任せきりにしてしまったが、また迷惑をかけていないだろうか。

「すみません。少しお話がしたかったので、待っていました。あの、よろしければわたしの部屋でお茶でもご一緒できないかな――なんて……。す、すみません突然」

 沙汀さんから誘いがあるのは珍しかった。仕事上よく話もするし一緒にいることも多いが、私と沙汀さんはとりわけ仲がよいわけではない――と思う。清火は沙汀さんにいたく懐いているが。

「いえ、喜んで。今日はもう予定もありませんし、是非。――清火も連れてきましょうか」

「……清火君は鯨伏さんと喧嘩しながらアカデミーに行きました。たまには同年代の子と仲良く遊べ、と」

「……なるほど」

 アカデミーとは特殊な知識・能力を教育する施設のことだ。

 超自然的な事象――超能力や異能力、溺屍体に関するできごとは、政府でも東北でもなく、基本的にバーラエナが扱ってきた。近年は東北の干渉も多いが、そういったものごとへの対応や知恵は元来バーラエナの独擅場だからだ。溺屍体関連の事件に巻き込まれた人や、知らず知らず特殊な力を保有していた者に対しては、情報の提供や教育を行う必要性がどうしても生まれる。そのための施設がアカデミーと呼ばれ、中にはもちろん小さな子供も参加していた。

 沙汀さんに案内され、私は休憩・宿泊棟へ向かった。

 小雨の中、早足で前を歩くスーツの女性。よほど気に入っているのか、沙汀さんはいつも同じ髪飾りをつけている。沙汀さんと初めて会ったのは三年半ほど前だが、その時もこのシュシュで髪を纏めていた。

 沙汀さんは昔、東北で医療業務に携わっていたらしい。何かの縁でバーラエナにやってきて、私と清火の担当を押しつけられたのは不運としか言いようがなかった。

「寝泊まりしているだけなので、何もありませんけれど……」

「お邪魔します」

 沙汀さんの部屋に上がるのはこれが初めてだ。私や清火が住むアパートと違い、ここは完全に休むためだけの部屋で、ベッドと机と椅子――備えつけの家具と、小さな円卓くらいしかないワンルームである。キッチンもバスもトイレもない。隅に小型の冷蔵庫が鎮座しているだけだ。

「せっかくイーリスさんに来ていただいたのに、こんなところですみません。でも、一度ゆっくりお話がしたかったので」

 勧められた座布団に腰を下ろす。円卓にはポットのお湯で淹れた紅茶と、先日街で買ったという茶菓子が並べられた。お湯は各階にある共同キッチン――と呼ぶにはあまりにお粗末な給湯室で沸かしたのだろう。

 円卓を挟み、向かい合って座る私達。沙汀さんは上着を脱いでブラウス姿である。

「…………」

 話がしたかった――というわりに、沙汀さんはなかなか口を開かず、妙な沈黙が室内を満たした。まだ夕方と呼ぶには早すぎる時間だが、レースカーテン越しに見える外はどんよりとした雲のせいで薄暗い。雨足も次第に速くなってきた。

 じっと。

 向かい側で正座している沙汀さんが――じっとこちらを見つめていた。私の目を、正面からまっすぐに。いつもの幼い面差しとはどこか違う、やけに強い視線が眼鏡越しに向けられていた。

「あの――」

「イーリスさんには、大切な人がいますか?」

 唐突な問いに面食らいながらも、質問の意味を考える。

「大切な人、ですか」

「はい。その人のためになんでもしてあげたくなったり、その人がいなくなったら生きる意味がなくなってしまうような――大切な人です」

「私にとって、沙汀さんはとても大切な方ですよ。いつもお世話になっているし、イサナも清火もそうです。バーラエナの皆さんは私にとって大切な存在です」

 真顔でそう言うと、いえ、そういうことではなくて――と沙汀さんはおかしそうに表情を崩した。

「言い方を変えますね。イーリスさんには、好きな人がいますか?」

「好きな人……」

「はい、好きな人です。とても大切で――愛している人」

「どうでしょう。私は人間じゃありませんし、そのような感情は」

 なぜそんなことを訊くのかわからないが、当たり障りのない答えを選んだ私に、沙汀さんはまた薄く笑みを零した。

「イーリスさんは嘘がお上手ではありませんね」

「…………」

「あ、すみません。出すぎた真似を……」

 場を紛らすために一口、紅茶をいただいた。氷で冷やされた液体が体に染み渡る。

 ふと、気になるものを発見した。壁とくっついて固定されている机の上に、写真立てが置かれている。フォトフレームの中で笑っているのは二人の男女だった。

 気づいた沙汀さんが、写真を手に取って見せてくれた。一人は知的な顔をした青年で、もう一人は――

「あ、わたしです」

 やはり、私服姿の沙汀さんだった。厚着をしているから季節は冬だろう。手を繋いで幸せそうに微笑んでいる。沙汀さんが今と変わらぬ幼さの残る顔立ちで写っているため、随分前に撮ったものなのか最近撮ったものなのか判断がつかなかった。

「この方はどちら様ですか?」

「えっと――実は」

 恥ずかしがっているのか、顔を赤らめ言い淀みながら、照れたように彼女は言った。

「わたし、もうすぐ結婚するんです」

 結婚――

 思いも寄らない言葉に、視線が写真と沙汀さんを行ったり来たりしてしまった。なるほど、この男性は沙汀さんの恋人か。手を繋いで写っているのだから当たり前なのに、その発想が出てこなかった。

「そうなんですか。おめでとうございます、沙汀さん。全然知らなくてすみません」

「いえいえ、ありがとうございます。イーリスさんにはどうしてもお話したくて」

「もう日にちも決まっているんですか?」

「いえ、その辺りは全然です。でも、もうすぐ彼が帰ってくるので」

 沙汀さんは昔の話をしてくれた。彼とどこで知り合ったか。彼と何を話したか。彼のことを語る沙汀さんはとても嬉しそうで、今まで見たことのない表情をしていた。

 沙汀さんは彼のことを本当に愛しているのだろう。

 まさしく、汚れのない純粋な愛情で。

「――イーリスさん。イーリスさんにも――大切な人はいますよね」

「…………」

「もし、もしもその人が死んでしまったら――イーリスさんはどうしますか?」

「え――」

 いつの間にか真剣な表情をしていた沙汀さんが、まっすぐにこちらを見ていた。

 大切な人が死んでしまったら――どうする?

 大切な人――私の大切な人が、私より先に死ぬ?

 意表を突かれた問いに、二の句が継げなかった。

 あの子が私より先に死ぬ可能性など考えたこともなかった。沈んだ太陽がまた昇るように、当たり前のこととして、絶対に覆らないこととして、完全無欠の決定事項として――私のほうが先に死ぬとばかり思い込んでいた。

 あの子が――清火が死んだら、私はどうするだろう。どうなるだろう。

 あの子と出会う以前の自分に戻るだけ? 

 あの子のいない日常をただ過ごすだけ?

 清火が死んだら、私は――

「すみません、おかしなことを訊いてしまって……。でも、わたしは思うんです。大切な人を亡くしてしまったら、きっと生きている意味なんてなくなっちゃうんだろうなって」

 本心なのだろう、仕事用ではない沙汀さんの語り口は普段より丸く、柔らかかった。それは私の知っている沙汀さんではなく、沙汀渚という一人の女性としての言葉だった。

「……そうですね。大切な人がいなくなってしまったら、どうすればいいのでしょうね」

「わたしには思い出を捨てることなんてできません。失っても、奪われても、幸せだった記憶を消すことなんてできません。誰にも削除させないし、絶対に上書きもしない」

「そう、ですね……」

「彼がいない間、そんなことばかり考えていました。彼との思い出を、ずっと」

「幸せになれますよ。沙汀さんなら、きっと」

 ありがとうございます――沙汀さんは薄く笑った。

 紅茶と茶菓子を口に運びながら、私達は他愛ない話をした。この何もない部屋でどうやって暮らしているのかとか、食事はどうしているのかとか、実家には帰っているのかとか――中でも料理の話は参考になった。沙汀さんと違って、私も清火も料理など全くと言っていいほどできない。空腹を感じないこんな体のせいか、そもそも私は食というものにこだわりがないのだ。試したことはないが、何も口にしなくても当分死にはしないだろう。清火は食べることは好きみたいだが、牛乳以外にこれと言って好物はないようで、何かに熱中していると食事自体摂らないこともよくあった。ちなみに、料理が全くできないのはイサナも同じである。

 私が料理なんてしたら、清火は笑うだろうか。

 あの部屋の小さな台所で、包丁を握る私。隣には心配そうに見つめる清火。そんな光景を想像したら、なんだか気恥ずかしくなった。

「つかぬことをお訊きしますが――イーリスさんは、本当に昔のことを憶えていらっしゃらないのですか?」

 その質問に、私は少し戸惑った。昔のこと――『一人目』の私のことだ。イアカスとして、天枢院の手先として生きていた過去の記憶を、本当に憶えていないのか。同じようなことを過去に何度も尋ねられた経験はあるが、「憶えていない」と首を横に振り続けてきた。

 しかし。

 断片的に――いや、断片ですらない塵のような、記憶と呼ぶにはあまりに虚ろなものを私は知っていた。何を意図しているのか読み取れない、心の奥に飾られた拙い絵画。その数枚の絵を、夢の中で何度も鑑賞していた。

「実は、誰にも話していないのですが――同じ夢を何度も見るんです」

「夢、ですか」

「はい。昔のことを憶えていないのは本当なのですが、よく夢に出てくる光景があるんです。あれはきっと私の――以前の『私』の記憶なのだと思います。この体の本当の持ち主であったイアカス――生前の彼女が体験したことが、何度も夢に出るんです」

「それはどんな夢なんでしょうか」

「そうですね……。おそらくあれは――彼女が」

 死ぬ瞬間だと思います。

 そう告げると、沙汀さんはわずかに目を見開いた。

「大きな月――あの夜、彼女は……誰かに、襲われて――殺された」

 夢の中の風景を描写するように、自然と口が動く。

「周りには、人の亡骸がたくさんあって――たぶん、どこかの集落……。殺された……殺したのは、白い髪の女……黒い影が、襲いかかってきて――私は剣で」

「イ、イーリスさん、もう大丈夫です」

 沙汀さんの声で思考が戻された。とても大切なことに思い至りそうな気がしたが――それも思い違いなのかもしれない。何が正しくて何が誤りなのかなんて、存在自体が中途半端な私にわかるはずもなかった。

「ああ、すみません……。なんだか混乱してしまって」

「とんでもないです。無理はなさらないでください。でも、もしかしたら――もしかしたらですけど、行方不明になっているイーリスさんのことを、待っている人がいるかもしれませんね。イーリスさんを捜している人が、もしかしたら――」

 一際強く窓を叩いた雨の音が、私と沙汀さんの間に割り込んだ。絶えず冷風を吐き出し続けるエアコンが、カタカタと小さな音を鳴らした。

「私を、待っている人……」

 そんなことを言われても困るだけなのだが、想像してみた。

 私を待っている人。

 私を――『彼女』を待っている者が、イアカスの中にいる?

「さすがに、そんな人はいないでしょう。もうあれから十年以上経っていますし、私はとうに死んだことになっているはず。死者の帰りを待ち続けても、意味はありません」

 それに、たとえそんな人物がいたとしても、その人が待っているのは私ではなく生前の彼女だ。今の私には関係がない。

 否定したせいで落ち込ませてしまったのか、沙汀さんは目を細め、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 勢いを増す雨が、さらに強く窓を打つ。

 彼女の頭の上で、シュシュが小さく揺れた。



「好きな人――いる、の、かしら」

 何を言っているのだ私は。

 すぐさま激しい後悔の情念が全身を打ち据えた。自分の口にした言葉が脳内で繰り返し再生される。好きな人いるのかしら? かしらって。いつもならこんな喋り方絶対にしないのに。恥ずかしくて清火のほうに顔が向けられない。

「ん? 好きな人?」

 真っ暗な部屋の中、狭いベッドの上。体を密着させ、すぐ隣で横になっていた清火が、聞こえていなければいいなという私の願いをあっさり打ち砕いた。虫の鳴き声すら騒がしく感じる夜の静寂だ、当然だが聞こえていないはずがなかった。

 つい先ほどまで、いつものように就寝前の雑談をしていただけなのに、なぜこんなことを言ってしまったのか。昼間沙汀さんの話を聞いたからか。清火が船渡川さんの話題を出したからか。不意に、なぜかイサナの顔が思い浮かんだ。にやにや笑う彼女の顔が脳裏を過る。

「僕が好きなのはイーリスだよ。いつも言ってるじゃん」

「そ、そうですか。ありがとう」

 信じられないほど安堵した自分の情けなさに、かつてないほどの嫌悪感を抱いた。清火の手が私の手を取り、指が絡む。彼女の手から伝わる熱は、いつもと変わらず優しかった。

 偽物の私と違う、本物の清火。

 では――本物の清火の、本当の心はどこにあるのだろう。人としての、女の子としての、火宮清火の心は。

 また――イサナの顔が思い浮かんだ。今度は真剣な顔だった。

 わかっている。いつかこの幻想の日々も壊れる時が来る。清火が本当の心を取り戻せば、真実の愛を知れば、きっと私の歪んだ愛は拒絶され捨てられる。そもそも私達が互いに惹かれ合うのは、この胸の中のカルディアが原因だ。果てしない荒野で飲水を探すように、終わりのない夜更に暁光を求めるように、清火はたまたま近くにいた私という、自分とよく似た光に引き寄せられているだけなのだから。

 それは一つになりたいというカルディアの――生命の本能なのかもしれない。

 溺屍体が海を目指すのは、海の彼方にある楽園へ還るためだと言われている。太平洋に浮かぶ海上の楽園――始まりの地〈プエル・エテルヌス〉。人間であった溺屍体が、一つになるため、光に引き寄せられるように――越境者イアカスの楽園都市へ向かうのだ。

 私と清火の間にあるこの思いも、それと似ているような気がしてならなかった。この思いが本物なのか、真実なのか――それとも、何者かによって与えられたものなのか。

「イーリスは?」

「え……」

「え、じゃないでしょ。イーリスの好きな人は?」

「私、は――」

 私は――怖いのか。

 清火の本当の心を知ることが。

 清火に本当の私を知られることが。

 清火の幸せを願っているつもりで、実のところ心の奥底では、この子にずっと眠っていてほしいと思っているのではないか。この子とずっと夢の中で溺れていたいと思っているのではないか。

「私も、貴女が好きです。そんなの――当たり前じゃないですか」

 強く手を握り返す。闇の中、清火の笑顔が感じられた。

 未来か。

 過去か。

 私が望むものは――



 灰色の雲が空を覆っている。風もほとんどなく、いつにも増してじめじめと不快な日だった。連日降り続いていた雨はやっと止んだが、もうしばらくは雨曇りの空を拝むことになりそうだ。

 ブリーフィングを終え、作戦戦闘用の式服に着替えた私はヘリポートへ向かっていた。上下揃いの暗めの色で、一応動きやすさが重視された意匠ではあるが、それでも目を引く服に変わりはなかった。

 輸送ヘリの傍には、既に数名の隊員の姿があった。全員がバーラエナで支給されている黒い制服を身につけていて、中には顔馴染みの者もいた。仲間から『チョーコ』という愛称(本名は丁子(ちょうじ)大五郎(だいごろう)。三五歳、独身)で親しまれている巨漢だ。誰にでも分け隔てなく接する器の大きな人物で、幾度も死線を越えてきた筋骨逞しい猛者である。

「すみません、お待たせしました」

 一言、二言と挨拶を交わす。珍しく飛田さんが遅れているらしく、あとは彼を待つだけのようだった。前日に荷物や機材の積み込みは済ませてあるので、集まり次第すぐにでも出発できるだろう。

 ちなみに、清火は今回の任務には参加しない。数人が参加する作戦であり連係が不可欠なことを伝えたら、意外にも謙虚な態度で自宅待機に納得してくれた。彼女自身、前回の反省を踏まえ私に迷惑をかけまいと気を遣ったのだろう。沙汀さんもここ数日は休暇のため本部を離れている。結婚の話を進めるため実家に戻ったのかもしれない。

 待つこと数分。

 現れたのは飛田さんではなく、吊り上がった細い目をした青年だった。バーラエナの制服を身につけてはいるものの、初めて見る顔だった。

「いやあ、遅れちゃってごめんなさい」

 随分と甲高い声だ。誰だお前はと隊員の一人が口にした。

「飛田さんに代わってパイロットを務めることになった――そうっすねえ、『キツネ』とでも呼んでください」

 一同が顔を見合わせる。「知ってるか?」「いや、知らない」「飛田と一緒にいたのを見たことがあるぞ。確か最近入った――」とその時、『キツネ』が持っていた端末が鳴った。画面を確認した彼は通話を始めたかと思うと、今度は訝る私にそれを渡した。

「はい、イーリスです」

 電話の相手は沙汀さんだった。

 いつの間にか本部に戻り仕事に復帰していた彼女は、今回の任務から飛田さんが外れ、代わりに狐塚(こづか)という男が加わる旨を簡単に説明した。飛田さんが病気で倒れたため、急遽代役を立てることになったそうだ。

「ってわけで皆さん、よろしくお願いしますね。操縦は任せてくださいよ。さあ乗った乗った」

 そう言って、狐目の男は意気揚々とヘリに乗り込んだ。私達もそれに続く。

 ヘリが目的地へ向かうまでの間、機内では各々がくつろいでいた。今回の任務は、一夜にして住民が皆殺しにされたという集落の調査で、先遣隊の報告によれば、山間部にあるその小さな集落は略奪の限りを尽くされ、住民達は見るも無残に殺害されていたらしい。男どもは四肢を失い、若い女は凌辱され、道には子供の首が転がり――この無慈悲な行いは、おそらく最近暴れ回っている野盗の仕業だというのがバーラエナの見解だ。発見次第捕縛せよとの命令だったが、遭遇すれば交戦は避けられないだろう。今は戦闘に備え、皆がリラックスすることに集中していた。

 ここ数年、こういった任務が増えているのは官軍派の意向である。捕まえた犯罪者を東北に引き渡し、貸しをつくる。東北はそれで政府に対し点数稼ぎができるし、バーラエナも表に進出するコネクションを得られるというわけだ。

 前線に立つ者達がそんな事情に振り回されるなどいい迷惑だが、だからと言って野盗を放っておくわけにもいかない。東北が機動力に欠ける以上、小回りの利く私達がやるのは都合がいいのも確かなのだ。

 一時間ほど安定飛行を続けていた間、私はベルトを外し、小さな丸い窓から外を眺めていた。眼下に広がる湿地が一望でき、遠くには太平洋も見えた。この辺りは春雷以来、もう何十年も手がつけられていない。元々何かがあったとも思えない場所ではあるが、今は草木が好き放題に大地を覆い、手をつけようとも思えないのが現状だ。

 そこで――違和感を覚えた。

 どうして海が見える? 

 目的地は内陸の山峡と聞いていたが――海沿いを飛行したほうが近いのだろうか。ちょうど疑問を抱くと同時に、操縦士の男が「ここで着陸しまーす。皆さん着陸準備してくださーい」と叫んだ。

「何? もう着いたのか?」

「いや、どこだここは。海が見えるぞ」

「おいキツネ、何かあったのか」

 機内がざわめくも、ヘリの高度が下がり始めたので、私達は仕方なく着陸に備えた。停止飛行した機体は、ゆっくりと森の中の開けた場所に着陸する。

「ちょっと機体の調子がおかしいんで見てきます。あ、皆さんはそのまま待っててくださいね」

 皆が顔を見合わせる中、『キツネ』は外へ出ていった。すると数秒のうちに、機外から私を呼ぶ声がした。

「イーリスサーン、沙汀さんから電話でーす。こっち来てもらっていいっすかー」

 沙汀さんから電話?

 なんとなく胸騒ぎがした。私は呼ばれるままヘリを降り、機体の点検をすると言っていたのになぜか離れた樹の傍で手招きしている男の元へ――歩み寄った。

「あー、はい。もう少しこっちへ。はい、その辺で。――よし、スイッチオン」

 突然。

 辺りが一瞬光ったかと思うと、凄まじい轟音と叩きつけるような衝撃が襲ってきた。

「――――ッ!?」

 慌てて音がしたほうに向き直ると。

 ヘリが――

 大破したヘリが、炎上していた。爆発したことを理解するのと、乗っていた隊員達が即死したことを悟るのはほぼ同時だった。

「な、何が……」

 丁子や同僚達の顔が浮かんでは消えてゆく。数十秒前まで同じヘリに乗っていた者達が、あっさりと――それもこんな形で死んでしまうとは。爆発がもう少し早ければ、私もあの中にいたはず――

 いや。

 そうではない。

 私がヘリを降りたのは、『キツネ』に呼ばれたからだ。それに爆発の直前、『キツネ』はなんと言った?

「ウフフ、フハハハハッ! 大成功! こんな簡単にいくなんてっ!」

『キツネ』は――狐塚は笑っていた。震える手で小型の機械――爆弾の遠隔装置を握り締めながら。

「これで俺は一級特赦に……! やったやった! アハハハハッ!」

「あ、貴方が、ヘリに爆弾を……!?」

 細い目をさらに細めて、手を叩き大笑いする男。一頻り笑ったあと、なお笑いを堪えるような声で狐塚は言った。

「んん? ああ、そうですよ。こんなにうまくいくなんて思わなかったなあ。でも安心していいっすよ。イーリスサンに危害を加える気はないんで」

「なぜ――こんな真似を。まさか飛田さんも……!」

「頼まれたんですよ。飛田さんならちょっと眠ってもらってるだけっす。――さて、こうしちゃいられない。俺についてきてください」

 狐塚は足早にその場を離れた。

 広葉樹に囲まれた蒸し暑い森。太陽が雲に隠れているため北も南もわからない。だが狐塚は木々を掻き分け、まるで道を知っているかのように迷うことなく先へ進んでゆく。

 いや、実際にこの男は道を知っているのだ。どこからが計画なのか知らないが、任務と偽って私達をこの場所に連れ込み、そして私を降ろした直後にヘリを爆破――丁子さんたちを始末した。ならば当然、この森のことも下見済みに違いない。

 目的が私なのだとしたら、誰に頼まれたのだろう。AIの政治屋か? 東北で私に恨みを持つ者か? それとも何度か衝突したことのある組にでも依頼されたのか?

 いったいどこへ向かっているのか。前を歩く男の背はあまりにも無防備で無警戒だ。私が素直についていかず逃走を図ることもありうるのに、全く考えていない。逆に、組み伏せて拘束しようと思えば簡単に実行できるほど隙だらけだ。だが――仮に男から情報を聞き出したとしても、この状況では何もできない。通信機の類はヘリと一緒に壊れてしまっただろうし、道を聞き出しても私一人ではこの森から抜け出せるかわからない。男が持っている端末を奪い、本部に助けを呼ぶのも手だが――などと思い巡らしている間に。

「いやあ、道が合っててよかったよかった。着きましたよイーリスサン」

「…………!」

 そこには。

 おかしな建物があった。森を切り拓いた空間に強引に捩じ込んで建てたような、角張った建物。高さは二階ほどだが、奥行きがどれほどあるのかは正面からでは判断できない。新しさは感じないが、極端に古いとも思えないため、何十年も前に建てられたわけではなさそうだ。周囲には柵が巡らされ、門らしきものもあった。近くで沢――いや、川かもしれない。海が近いのか、水が流れる音が聞こえる。妙な存在感を放つ建物と、鳥の鳴声や虫の羽音はどこか不釣り合いだった。

 門の向こう――正面入口の前に、人影があった。

 私達が到着するのを待っていたのか。

 そこには。

「さ――」

 無表情で立ち尽くす、沙汀渚の姿があった。



「連れてきたぜ。これでいいんだよな? ついに俺も、東京で自由を手に……!」

「……ええ。ご苦労様」

 銃声。

 乾いた音が響き、狐目の男――狐塚は湿った土の上に崩れ落ちた。額に穴が開き、血の雫が顔面を伝ってゆく。

 死んだ。

 沙汀さんが握った拳銃によって眉間を撃ち抜かれ、狐塚という男はあっさりと絶命した。それは先ほどの丁子さんたちと同じ――何の前触れもなく訪れた死の瞬間であった。

 あっという間のできごとに、私は混乱した。

 なぜ沙汀さんがここにいる。どうしてこの男を撃った。この人は、本当に――

「本当に――沙汀さん、なんですか」

 惑う私を嘲笑うような冷静さで、目の前の女性は答えた。

「そうですよ、イーリスさん。沙汀です。まさか双子とでも思いました?」

 スーツが似合わない童顔に、お気に入りの髪飾り。どこからどう見ても沙汀さん本人だ。けれど――けれどその声音はいつもと異なり、氷でできた刃物のように冷たく鋭かった。眼鏡の奥の瞳の中には、何の感情も走っていない。

「なぜ、貴女がこんなことを……。いったい、私に何を」

「わたしは別に、貴女に用があるわけではありません。キレると何をしでかすかわからないあの子より、貴女のほうが誘い込みやすかっただけです」

「あの子……? まさか、清火のことですか」

「イーリスさん。貴女に用がある人――貴女を待っている人は、この中にいます。ずっと貴女を待ち続けていた人です。是非会ってあげてください」

 沙汀さんが扉を開ける。建物の中から溢れた嫌な冷気が、不吉な予感を増長させた。

 私を待っている人……?

 いったい誰だ。

 私を待っているということは――『私』を知っている人か。

 通路を奥へと進む沙汀さんの背はまるで現実感がなく、今日のできごとは夢なのではないかと疑いたくなった。

 いくつかの扉を通り抜けやってきたのは、建物の外観からは想像もつかない――礼拝堂のような広い空間だった。

 飛び込んできた光彩の束が虹彩を射貫く。上下階を貫いて一続きになっている構造。高い天井に吊るされた豪奢な照明から、美しい帯状の輝きが降り注いでくる。奥へと続く長方形の巨大な空間。天井まで伸びる無数の細長い支柱。扇状に並んでいる木製の長椅子。

 目も眩むほど荘厳で荘重で、粛静で粛然で――不気味な場所だった。

 正面――ずっと奥の壁には、大きなステンドグラスがきらきらと輝いている。大地に舞い降りた優美な女性が、人々に救いを与え死と再生を繰り返す――不滅にして無限なるものを象った構図。

 その硝子板に描かれていたものは、イアカスが信仰する神――大地母神デメテルだった。

 そして私は。

 初めて『私』を知る者との出遭いを果たした。

「待っていたよ。――ゼフテラ」

 講壇の上で、ステンドグラスの女神に見守られるように佇む男が――口を開いた。

「何年――何年この時を待っただろうか。あの日君が姿を消してから、十年以上の歳月が流れてしまった。それでも――僕は信じて疑わなかったよ。君が生きているということを――こうして再び、ホンモノの君と廻り逢える日が訪れるということを!」

 男は美しかった。

 金色の長髪に、碧色の両眼。二メートル近い長身に、すらっと伸びた手足。黒い式服を身に纏い、小さな輪郭をした彫刻的な容貌をしていた。黒い布にくるまれた長い棒状のものを手に持ち、よく透る弾んだ声からは男の歓喜が十二分に伝わってきた。

「ゼフテラ……」

「ああ、そうとも! ゼフテラ! 僕だ、サーヴァだ!」

 サーヴァと名乗った男が講壇から降り、両手を左右に広げて近づいてくる。ゼフテラ、ゼフテラ、ゼフテラ。サーヴァ、サーヴァ、サーヴァ……。

 なるほど。

 全く憶えていない。

「さあ、ゼフテラ! 僕達と――僕と共に、トウキョウへ――」

「すみませんが」

 話を遮ると、黒衣の男が歩みを止めた。

「貴方が誰なのかわかりません。私には記憶がないので」

 表情を硬直させたまま、手を広げたまま、黒衣は完全に固まってしまった。私の言葉がよほど効いたのか。数十秒の後、妙な笑い声と共に黒衣が再び口を開いた。

「ふっ、ふはっ、ははは。何を言い出すんだい。僕だよ、サーヴァだよ」

「わかりません」

「ずっと一緒だったじゃないか」

「憶えていません」

「お、おいおい冗談はよしてくれ。そうだ、これを、この剣を君に返そう!」

 黒衣は腰に差していた剣を手に取ると、革の鞘を丁寧に取り外した。

「君の儀仗聖釼(ぎじょうせいけん)ネア・セリニだ。あの日、あの場所に落ちていたのを僕が見つけた。今こそ君に贈ろう!」

 手渡された両刃の剣を見つめる。刃の細さのわりに重く、手にしっくりくるわけでもない。錆などない綺麗に磨かれた剣先は、このサーヴァという男がゼフテラという女を思って手入れを施したのだろうか。

 ぎらりと。

 何者かの貌が切っ先に映った気がした。けれどそれは決してゼフテラなどではなく。

 私――イーリスの顔以外にありえなかった。

 私の様子を見て、黒衣の期待が落胆へと変わるのに時間はかからなかった。

「…………ッ! さああああああああてええええええええええいいぃぃぃぃ! どういうことだこれはああああああああっ!」

「……だから何度も話したでしょう。ゼフテラの記憶はとっくの昔になくなっていると」

「バカな、『イーリス』……だと? やっ、やはりニセモノ!? バカな、バカな、バカな……ッ!」

「彼女を連れてきたんだもの。ちゃんと約束は守ってもらうわ」

 膝を突き項垂れた黒衣は、嘘だ、そんなはずはないとぶつぶつ呟き始めた。沙汀さんと目が合うと、彼女は意味ありげに笑みを浮かべ、礼拝堂の中を奥へと向かい歩き始めた。

「聞きたいことがあるならどうぞ、イーリスさん」

 女神に見守られ、講壇の上から私を見下ろす沙汀さんの表情は、私の知らない彼女の顔だった。

「……沙汀さん。貴女は、いったい」

「なんとも具体性に欠ける質問ですね。わたしは沙汀渚ですよ。ただし――今はもうバーラエナのではなく、高天原(たかまがはら)・神都トウキョウ一級特赦住民の沙汀渚ですけれど」

「特赦……? 沙汀さんが、ですか」

「ええ。もっとも、トウキョウに住んだことなんて一度もありませんが」

 もうこれは――私の知っている沙汀さんではないのか。

 一緒にお茶を飲んでお喋りした沙汀さんではないのか。

 沙汀さんはバーラエナに来る以前、東北で医療業務に従事していたと聞いたが、それも嘘だったのだろうか。

「嘘ではありませんよ。わたしは確かに東北で働いていました。――彼を喪うあの日までは」

「彼というのは、先日話していた婚約者の方ですか?」

「わたしはあの子に近づくために、どうしてもバーラエナに入る必要があったんです。彼の苦しみを思えば、どんなつらさにだって耐えられる。体を弄ばれても、汚されても、わたしの心はずっと彼のもの……。大使に接触するのも、イアカスにすり寄るバカな政治屋を丸め込んでしまえば簡単でした。あとは取引ですよ」

「東北やバーラエナの情報を売って――特赦になったんですか」

 沙汀さんが――スパイだったとは。

 彼女をそこまで突き動かすものはなんだ。何が沙汀さんをここまで――

「今さら安心してくださいというのも変な話ですけれど、わたしが密告していたのは基本的な情報や内部事情だけですよ。そもそもわたし、バーラエナの機密事項なんて全然知りませんし」

「では、何を売って特赦に――」

 そこで思い至った。

 特赦……彼を喪った……あの子に近づくため……取引……。

 まさか――

「私が売ったのはとある技術。それと今目の前にいるイーリスさん。そして、あともう一つ――」

 今頃さらわれている清火君ですと、沙汀さんは満面の笑みで言った。

〈不滅にして無限なるもの〉という言葉は、何かの心理学の本に載っていた覚えがあるのですが忘れてしまいました

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