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第4部 火の鎖、虹の釼  作者: 沙魚川 出海
火の鎖、虹の釼
6/20

【イーリス】(二)

読み返すと各章の文字数のバランスがおかしいと思いました

 蒼白い月の下で、私は彼女と何度目かの出逢いを果たした。

 緋く染まった髪が夜風になびく。足下に転がる無数の屍体は、全て彼女が手にしている剣によって切り殺されたものだ。

 同じ風景。

 同じ夜空。

 同じ皓月。

 ここはどこで――いったいいつなのか。

 私によく似た彼女はいったい誰なのか。

 いつも彼女はじっとこちらを見つめるだけで決して口を開かないけれど、私に向けられた冷たい表情は落胆や侮蔑、失望といった感情をありありと物語っていた。

 常に私を責め苛んでいるような、色のない顔。月光を湛えた碧い瞳が闇に揺らいだ。

 彼女と見つめ合うたびに、ああ、やっぱり――と思う。

 彼女は私だ。

 自分が何者なのかを知らず、何処からやってきたのかも憶い出せない空虚の器。

 わからない。わからない。生きることがわからない。死ぬことがわからない。私がわからない。他がわからない。生命がわからない。喪失がわからない。歓びがわからない。哀しみがわからない。恩寵がわからない。真実がわからない。自由がわからない。未来がわからない。

 愛が――わからない。

 彼女がただ一つ理解しているのは――月の釼たる使命のみ。

 人を殺し、人を救い、人を導く。

 切り拓いた荒野にどんな花が咲くのかも知らないまま、ただそれだけを繰り返す空白の心。

 彼女は私だ。

 私は――彼女だ。

 暗転。

 ――そして、もう何度目かもわからないその場面が訪れる。

 月明かりの下――溟い海のような闇を纏い、屍体を踏み越え駈け抜ける黒い影。

 白と黒。

 月と獣。

 彼女の軌条は、そこで途切れた。



 この式服は昔――『一人目』の私が着ていた衣裳を参考にしてつくられたらしい。とは言っても、『彼女』がバーラエナに発見された時に着ていた服は襤褸切れと化していたので、完全に再現するのは不可能だったようだ。もっとも、イアカスが身につけていた衣裳の再現をするつもりなど、最初からなかったようだが。

 検診を終えて下着姿の私は、衣紋掛けから皺一つない真新しい式服を取った。普段はこれを身につけるよう命じられているのだ。

 ちょうど神話の絵本に出てくるような、トーガだったかヒマティオンだったか、古代の人が着ていた服を動きやすく、無駄を省いて改良したようなゆったりとした服である。もちろん、作戦戦闘や式典等、任務によって意匠は異なるが、今回用意されていたのは白と灰色が基調のワンピース型のもので、控えめに装飾が施されていた。襟元には白い鯢を象った徽章がある。

 式服とは本来、イアカスのソティラスが身に纏う礼服のことだ。ソティラスとは人間に対し教えを説く伝道師――〈救済者〉の総称である。

 軍に所属する兵隊とは異なり、彼等はデメテルの神意を伝えるべく世界の到るところに赴いている。人間の救済を使命とし、困窮に喘ぐ人々に救いの手を差し伸べるためだ。

 イアカスだけでなく人間の中にも、弱者を救う聖者〈ソティラス〉に尊敬の眼差しを向け、讃えている者はいた。本当に人間を救ってくれる神の使いだと信じているのだ。

 だが、ソティラスは救済者でも救世主でもない。

 その実態は、強大な異能を振るう戦闘訓練を積んだ集団である。彼等が行っていることは断じて救済などという奉仕活動ではなく、虐殺だ。

 ソティラスは――イアカスは、人間を世界から抹消しようとしている。

 自分達の世界を――楽園を築くために。

 人間を救ってくれる神なんて、この世界にはもういないのだ。

 神様は――死んだ。

「ご苦労様。調子はどう?」

 式服を身につけ更衣室を出ると、廊下の壁に寄りかかっていた白衣の女が声をかけてきた。

「いたんですか。――別に、普通です」

 鯨伏イサナ。

 かつてバーラエナ創設に大きく関わったとされる一族、鯨伏家。イサナはその家の跡継ぎである。

 濃い藍色の髪を掻き上げ、あくびを噛み殺しながら笑みを零すイサナ。

「つれないなあ。せっかく寝ないで待っていてあげたのに」

「お疲れ様。寝なくていいんですか」

「寝るよ。でもその前に軽くご飯食べる。早く行こ」

 返答を待たず勝手に決めて歩き出したイサナに、仕方なくついてゆく。研究棟を出て、多目的に利用される休憩棟へ向かった。休憩棟は宿泊棟も兼ねており、一階には売店と食堂、二階より上は隊員が寝泊まりするための部屋が設けられている。

 時刻は午後二時前。昼のピークを過ぎた食堂は閑散としており、テーブルに突っ伏している者や談笑している者もいるが、数える程度だ。

 わたしたちは食堂で料理を注文せず、すぐ済ませられる売店でサンドイッチとコーヒーだけ買い、隅の席に着いた。

「――で、どうだったの検診」

 イサナは向かい側ではなく、なぜかわたしの隣の席に座った。しかもあえて椅子を寄せたため、互いの肩が触れるほど近い。

「なぜこっちに」

「いいじゃんかよう。人肌が恋しいんだよう」

「…………」

 口調は軽いが、おそらく心身は重いのだろう。心労が絶えない日々の連続で、相当疲れが溜まっているはずだ。いつもならふわっと巻いたように肩の辺りで仕上げられた濃藍色の髪も、今はなんだか力なく垂れ下がっているように見えた。

 鯨伏家には――イサナには恩がある。

 およそ十年前、バーラエナの研究によって目覚めた私は独りだった。会話を交わすのはあの男と、身の周りの世話をする隊員との事務的なものだけだった。

 あの日――イサナと会うまでは。

 イサナのおかげで、組織における私の扱われ方は変わり、そして私は一人ではなくなった。

 バーラエナの内外に与える鯨伏の名の影響力は、もうそんなに大きくない。鯨伏だけではなく、春雷以前から続くほとんどの家の力は、以前とは比べものにならないほど弱くなった。

 イサナには兄弟姉妹はおらず、彼女自身も三十を過ぎている年齢だが、子供もいない。結婚できない――いや、しない理由を彼女は自虐的に、自分の代で〈鯨伏〉を終わらせるためだと語っていた。どこまで本気かはわからないが、生涯一人で生きてゆく決心を固めているイサナは、とても強い女性だった。

「で、どうだったのよ」

 紙パックに刺したストローを銜えながら、イサナが言う。

「別に。普通でした」

「普通に悪かったってこと?」

「普通に普通だったということです」

「そろそろ前線の任務はやめさせてほしいとこだけどねえ」

「…………」

 コーヒーを手に取る。ストローが紙パックにうまく刺さらず、先端が曲がってしまった。

「……清火が心配ですから。まだ、あの子を一人にはできません」

「清火、ねえ。そういえばあいつ、最近友達ができたって沙汀が言ってたけど」

「ああ、船渡川さんのことですね。いろいろあって、彼女は清火の事情を知っていますから。私も一度だけここで会ったことがあります」

 船渡川小海――数か月前、溺屍体の捕縛任務に駆り出された私(とついてきた清火、清火に手伝わされた沙汀さん)が関わることになった少女だ。以来、同い年ということもあってか親しくなった清火は、あの子を部屋に招いたりバーラエナの中を案内したり、いい友人関係を築いているようだ。先日はアカデミーにも参加したらしい。はじめは清火のことを男の子だと勘違いしていたという話も聞いた。

 イサナは薄笑いを浮かべながら、「その子に清火を取られちゃったらどうする~?」と言った。

 私はサンドイッチを口に入れ顔を背けることで、その質問には答えないという態度を示した。

「冗談冗談。でも、もし取られてもあんたにはあたしがいるから安心してね」

 肩に寄りかかってくるイサナ。重いし邪魔であることこの上なかった。

「……ま、あたしが本当にあんたの行く末を――ずっと見ていられたらいいんだけどね」

「…………」

 サンドイッチを頬張るイサナの手。その手には初めて出会った時との変化が見られた。

 イサナは今でも十分綺麗だと思うし、控えめに化粧された顔からは若々しい才気が溢れている。白衣に包まれた体のラインは健康的で、どこを切り取っても余計なものはついていない締まった体つきである。それは彼女自身が、研究分野だけでなく戦闘においても並外れた技量を保有していることを表していた。

 けれど昔と比べてほんの少し――ほんの少しの変化だ。生き物である以上逆らえず、誰しもが拘束されたまま乗せられるしかない、時間という軌条。

 イサナの手には、彼女がほかの存在と区別されることなく等しく同じに――齢を重ねてきた事実があった。

「あ、今『こいつ老けたなー』とか思ったでしょ! 言っとくけど、あたしがババアならあんたもババアなんだから! あんただって生きてきた年数はあたしと変わんない、っていうかあんたのほうが多いかもしれないでしょうが!」

「別に。普通です、イサナは普通だと思います。まだ大丈夫です」

「まだってどういう意味よ……。うう……時間が止まればいいのに!」

 本当に――本当に時間が止まれば、イサナはずっと私の傍にいてくれるだろう。

 けれど時間は止まらない。軌条は一方通行で、それぞれの最後へと向かい伸びてゆく。時間は止まらない――

 私達は数年前のある日、そのことに気づいて。

 そして。

「――バイタルサイン」

 年甲斐もなくいじけ始めた白衣の姥桜に、私は本音を語ろうと思った。

 少しでも長く同じ時間を共有するために。

「細かい数値は見ていませんが、前回の検診からまた微妙に変化したようです」

「……脈拍? 血圧? 自覚はある?」

「まだこれと言って支障はないのですが、力を使ったその日は、睡眠時間が長くなっている……ような気がします。それがただの疲労から来るものなのかはわかりませんが」

 イサナが黙り込んでしまったので、二人で黙々と食事を進めた。

 私の体内にある旧い神の心臓の欠片と云われる聖遺物。空っぽだった『一人目』の私の肉体にそれが繋ぎ合わされ、『二人目』の私は再生した。カルディアの輝きによって、私は目覚めることになったのだ。

 だが。

 いくら肉体と神臓の合一に成功し同調が進んだとしても、その眩い光に私の肉体が耐えられるはずもなかった。時間が経つたびに、力を行使するたびに、私の内部はカルディアに蝕まれ、侵され、喰われてゆく。外見に変化が見られなくとも、おそらく私はいずれカルディアに呑まれ死ぬだろう。

 それが何年後になるのかはわからない。

 力を使ったあとの虚脱感も、脈拍数の減少も、睡眠時間の増加も、カルディアが発している合図なのかもしれない。しかしそれがわかったからと言って、私には為す術がなかった。

 だが私のことはどうでもいい。

 問題は。

 本当に大切な問題は――

「――火継(ひつぎ)は、どうして」

 サンドイッチを食べ終えたイサナが重たい口を開いた。遠い記憶を辿るように、言葉を捻り出すように、ゆっくりと。

「どうして――あんな研究をしていたのかな」

 火宮火継。

 清火の――母親だ。

 既に亡くなっている。

 私は生前の彼女と面識はないが、イサナは火宮火継と友人と呼べる間柄だったという。彼女が若くして結婚してからは次第に疎遠になり、互いに歩む別々の道の途中で、彼女は帰らぬ人となってしまった。

 そのきっかけとなった少女こそ、私にとって大切な問題で。

 とても、大切な人だ。

「あの時は驚いたなあ。ぼろぼろのあんたが女の子を抱きかかえてさ、話を聞いてこれは大事件だってなって。今じゃ火宮事件なんて名前もついちゃったよ」

「よく、憶えてないです」

「そりゃそうだ。あんた死にかけだったもん。一人で聖堂を落とすなんて無茶もいいとこだ」

 四年前のあの日、私は任務の真っ最中だった。任務は関東に至る南東北の荒れ地、そこに建立されていた聖堂の破壊及び集落の保護だ。間違いだったのは、警衛隊の申し出で、その作戦に〈東北〉の小隊十人を同行させたことだ。その小隊長にはAI派だった当時の政治屋の息がかかっており、東北や政府の間にも名が知れ渡り始めていた私を、任務に乗じて抹殺しようとしたのだ。結果、一緒にいたバーラエナの隊員はイアカスに殺され、東北の小隊も全滅する事態となった。生き残った私自身も、任務を完遂はしたものの重傷を負った。

 官軍派の意向で、昔よりバーラエナと東北の合同作戦も増えてきており、人手不足を補うために東北からこちらに所属を移す者も少なくない。東北は政治屋達のお抱え軍隊とも言われていて、仙台政府と密接した関係にある。対イアカス政策を進めるに当たり、AIにとって私の存在はいろいろと迷惑らしい。あのような事件はもう起こらないと思うが、東北のことをあまり好ましく思っていないイサナは、用心しておくべきだと常に口にしていた。

「あれからもう四年か。清火はまだ不安定だね。それこそ時間が止まったみたいに、あの頃のままだ」

「清火の力は――本物です。おそらくあの子なら、私と違って、カルディアとの同調を完全に果たすことができるでしょう。けれど今はまだ、精神状態に大きく左右されています。だから――」

「あんたが必要、ね。あいつの境遇をわかってあげられるのは、まあ、あんたしかいないし。――でもね、イーリス」

 イサナは厳しい目で私の顔を覗き込んだ。

「清火の幻想につき合って、いつまで母娘(おやこ)ごっこをやるつもり? 検診の結果は出てる。火継が何を考えていたかは今となってはもうわからないけれど、どちらにしろあいつはいつか真実を知ると思う。このまま清火を夢の中で溺れさせるの? それとも――本当はあんたのほうがあいつを手放したくないんじゃない? 自分を慕ってくれる可愛い清火を、さ」

「…………」

「あたしはあんたが好きよ、イーリス。清火のことも可愛いと思ってる。だからこそ、友であるあんたに言う」

 清火を起こしてあげな、と友は言った。

 清火。

 私と同じ、カルディアと生命を繋げられた存在。

 けれどあの子は人間で、人間だからこそ、人間らしく生き、そして死ぬ権利がある。

 私という歪な者と共に在り、原型もわからぬ歪な愛に包まれている――そのことに疑問すら抱かぬまま、清火は。

 残ったコーヒーを飲み干し、大きく伸びをしたイサナは「そういえば」と声の調子を変えた。

「清火もいないし、ちょうどいいから教える。火宮事件について」

「……どういうことですか?」

「あの日、あの場にあった遺体は全部で十二。これには火宮夫妻も含まれてる。全て焼屍体だけれど、火継以外の屍体には頸を切られた痕がある。ここまでは知っていると思う」

 小さく頷く。

 あの事件の詳細を知る者はバーラエナにも少ない。施設にあったものはあらかた燃え尽きてしまったし、情報を漏らさぬよう組織の中枢にいる連中が措置した結果、表に出てくることはなくなった。イサナは何か知っているのだろうか。

「なんらかの原因で清火のカルディアが暴走し――研究員達を殺害した。でもね、気になるのは火継と火継の旦那――つまり火宮夫妻の殺され方。火継は最も激しく焼かれ、ほとんど骨しか残っていなかった。対して旦那のほうは、切り傷ではなく、腹部に刺し傷があった。遺体に刺し傷があるのは彼だけよ」

「それは、つまり」

「そう。カルディアに精神を揺さぶられた清火は、頸を切るという単純な動作を繰り返し研究員を殺した。逆に言えば、それしかできなかったとも解釈できる。まともな思考ができない状態にあったであろう清火が、あえて一人だけ――父親だけを刺し殺すとは考えづらい」

「ですが、確認できない以上、母親に刺し傷がなかったとは言いきれないはず。両親に対してのみ特別な思いから殺害方法が変わったのかもしれません」

「そうかもしれない。でも、それにしては父親の殺し方だけ妙に雑なのよね。急所を一突きってわけでもないし、明らかに素人の手口なのよ」

 あの日、あの場所で何が起こったのか。

 清火は、あの場所で何を見たのか――

 イサナは一度大きく息を吐き出し、そして言った。

「そして最も気がかりなのは、事件の直後――本部に運ばれた遺体が十一しかなかったこと。遺体の一つが、誰かに持ち出された可能性が高い」

「なぜそんなことを」

「知らん。あたしはあの場所に行ったわけじゃないから資料しか読んでないけれど、損傷が激しかった遺体をここへ運んできて、あんたの手当てとか任務で死んだ隊員の確認とか東北とのいざこざとか――そういうごたごたの間に、遺体が一つ消えちゃったみたい」

 頸を切られ殺された十人の研究員とは違い、なぜ清火は母親を焼き、父親を刺したのだろう。それとも、本当に別の何者かの仕業なのだろうか。

 そして、なぜ遺体は持ち出されたのか。

 四年前の現場を頭の中で再現しようにも、当時の記憶があまりにも希薄だ。

 憶えているのは――

 そう。

 烈しく灼ける森と、鮮やかに燃える空。

 極彩色の光の下で、私はあの子を見つけたのだ。

 そもそも――なぜ私はあの場所にいた?

 任務で力尽きて倒れ、それから私は――声を聴いた。

 男の声だ。

 あれは誰だったのか。

 半ば意識のなかった私を導くように、彼は森へと入っていって――

「……四年前のことを、どうして今になって話す気になったんですか」

 俯きながら疑問を口にする。私にとってあの事件は――もう終わったことだからだ。これ以上清火のつらい過去に触れたくない。清火を壊したくない。今の清火を――

「火宮事件が――まだ終わっていないからよ」

「…………」

「人とカルディアの合一実験――それは四課の最終目標だった。その過程で多くのイアカスが利用され、結果生まれたのがあんただからね。天才・火宮博士は、それをバーラエナに内緒で成功させたわけだ。清火の年齢を考えると、時期的にはおそらくあんたよりも早くね。でも残念なことに、当事者は皆死んでしまった。――清火と、遺体を持ち出した何者かを除いて」

「まさか――あの人の指示ですが」

「そ。あいつは自分自身の手で完全なアルファを生み出そうとしている。生命の創造――自分の望んだ容姿で、完全なる神性を持った存在を創り出そうとね。だから清火には全然興味がないみたい。――で、少しでも研究の手がかりを得るために、信者達にもう一度火宮事件を調べ直せって命令したんだってさ。それで事件の詳細があたしの耳にも入ったから、あんたには教えとこうと思って」

 紙パックの潰れる音。イサナは立ち上がるともう一度大きく伸びをして、眠たそうに目をこすった。

「そろそろ戻って休もうかな。いつも言ってるけど、あんまり東北の連中には関わっちゃだめよ。じゃ、つき合ってくれてサンキュー」

「お疲れ様」

 別れ際、イサナは気怠い笑みを浮かべながら訊いてきた。

「検診の時、あいつに会った?」

「会いましたよ、もちろん」

「セクハラされなかった?」

「されてませんよ。あの人は私に触ろうとしませんから。失敗作――とか、いろいろ罵られましたけど」

「何ぃ~? あの野郎ぶっ飛ばしてやる。待ってなイーリス、あたしが仕返ししてきてあげる! ついでに四課の信者どもも一網打尽にしてくれるわ! だいたいこんな色白の美女が裸で横たわってるのに、セクハラしないだと? 奴はホモですか? あたしがその場にいたらなあ――」

 その場にいたらなんなのか。

 その先は聞かなかったことにした。



 茜色に滲み始めた西の空。

 自分の影を踏むように、私は早足で歩を進めた。

 軋む階段を上り二階の通路に出て、部屋の呼び鈴を鳴らす。自分の部屋なのだから鳴らす必要などないのだが、元気よく出迎えてくれるあの笑顔が見たくて、いつもこうしていた。

「…………?」

 けれどいつまで待っても、扉は開かない。もう一度鳴らす。扉は開かない。隣の部屋の呼び鈴も鳴らしてみたが、結果は同じだった。

 仕方なく鍵を開けて自分の部屋に入る。昼寝でもしているのかと思ったけれど、部屋は蛻の殻だった。

 部屋の真ん中で、私は自室を見回した。

 いつもと同じ部屋だ。飾り気のない古い部屋。二人で暮らすようになってからはあの子の私物がどんどん増えていって、この狭く止まった部屋が再び時を刻み始めた。

 今、部屋には私一人。

 それは――誰もいないのと同じだ。

 止まった時計を抱えた者に、時間は動かせない。私一人でこの部屋の時間は動かせない。

 イサナは私を置いて先へ進み続ける。私は決して彼女に追いつくことはできず、彼女もまた私に歩みを合わせることはできない。

 私達は当然その事実を知っていたし、覚悟もしていた。けれど向かい合えば向かい合うほどにその真実は重みを増し、一度狂った歯車が再び噛み合うことはなかった。

 裏切ってごめんね。

 嘘吐いてごめんね。

 そう言って――イサナは一度だけ、涙を見せた。

 あの日以来、彼女は負い目を感じているのかもしれなかった。私とあの子の関係を優しく見守ってくれているのも、責任という苦しみを強いられているからだ。

 感謝の気持ちと共に――胸が痛む。

「清火」

 あの日出逢った私達は、同じ時間を歩んできた。

 年を取らず、成長を止め、季節さえも俯瞰するアンドロギュノス。

 それでも、同じ時間の内側で私達に観えている景色は――きっと違うのだろう。

 私と清火で決定的に違うもの。

 それは――私がイアカスだということ。

 彼女が併せ持つ純粋な人性と神性に比べれば、私のそれは脆く歪だ。

 本物と偽物。

 真実と虚偽。

 私は、いずれあの子を置いて死ぬ。

 傷ついて死ぬのが先か、カルディアに呑まれるのが先か――

 どちらにせよ、あの男の悲願である理想のアルファが誕生すれば、私も清火も用済みになるだろう。

 その時。

 あの子を守ってあげることが、私にできるだろうか。

「清火――」

 月白の髪。

 菖蒲の瞳。

 鏡に映る自分の姿が恨めしい。鋏を握り締めながら、遥か先にあるのかどうかもわからない未来の風景を思い浮かべると、そこには――いつもあの子の笑顔があった。

 あの子の魂はあんなにも明るく清んでいるのに、私の体はこんなにも暗く汚れている。

 清火。

 私は貴女の傍にいていいのでしょうか。

 貴女の親愛に甘えていいのでしょうか。

 はらはらと、幾筋の白い線が床に落ちてゆく。体の表面を覆っている、濁った粘液を削ぎ落とすような感覚。目を閉じて意識する。頬に触れてくれる掌の熱を。胸を這う細い指を。唇を濡らす艶めく舌を。清火。可愛い清火。まっすぐに私を映し求愛する黒く清んだ瞳も、風に侵され晒される魅惑的なうなじも、まだ誰にも摘まれていない小さな二つの膨らみも、全てが愛しい。きっとよく似た光を抱く私達にしか感じられない、一つに繋がりたいという渇望と情欲――合一への遠い幻想。胸の奥底を震わす劣情を掃うために、もう一筋切る。そしていつものように、やりすぎていないか鏡で確認し、髪型を手直しする。

 ――私の心は、こんなにも汚れている。

 こんな汚れた心の私を救ってくれる神なんて、この世界にはいない。

 神様は死んだ。

 ――それでも。

 もしも、もしもこの世界のどこかに、今もまだ生き続け、私達の行く末を見守ってくださる本物の神様がいるのなら。

 どうか神様。

 どうか、あの子の隣に少しでも長く――

黙したまま、何も語らぬ――神は生きているのか、死んだのか……


貴方、聞いてくださいな!

ついに私のお腹に、私達の愛の結晶が宿りましたわァーッ!!!!


ハラショー!! ハラショーッ!!

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