【清火】(一)
当初この話は
【イーリス】→【清火】→【イーリス】→...
というように二人の視点を交互に入れ替える予定だったのですが、やはり長い時間をかけると予定通りいかないものですね
結局【小海】と【フライ】が加わり、視点がややこしくなってしまったかもしれません
わたしは大人が嫌い。
カメラのレンズみたいな冷たい目をしていて、ロボットみたいに決められたことしか喋らなくて、いつも無表情で決して笑わない――そんな大人達が嫌いだった。
白衣を着たあの人達が――嫌いだった。
「でもサティは結構好き~」
「え? な、なんですか?」
全開の窓から蒸すような風が吹き込んでくる。サティは扇風機の前に座り込み、涼風を独り占めしていた。
「清火君、早くエアコンを修理しましょうよ……」
ベッドに横になっているわたしに、サティは何度目かの懇願をした。わたしの部屋のエアコンは壊れていて動かないのだが、使わないのでそのまま放置している。
「僕エアコンの直し方なんて知らないよ。サティがやってよ。――あーあ、退屈。小海と遊びたいなあ。小海の監視ってまだ続いてるの?」
「ええ。ただ、小海ちゃんは特別措置になりそうというか……。清火君のお友達ですし、鯨伏さんにも話はしましたし。本当はよくないと思うんですけどね……」
「いいんじゃないの、別に。だいたいあんな噂でごまかそうなんて無理なんだって。隠しきれるわけないじゃん」
「それは――そうかも、しれませんけど」
「……やっぱりイーリスのところに行こうかな」
イーリスがいないと何をするにしても面白くない。勉強もしたくないし、部屋で大人しく本を読むなんてつまらないし、一人で街に行くのはだめだと言われているし、完全に暇を持て余していた。
「だめですよ。待っているように言われたじゃないですか。イーリスさんに、清火君のことをお願いしますって頼まれたんですから」
む。
イーリスめ。
そんなにわたしのことが心配か。
子供じゃあるまいし、一人でも大丈夫なのに、まったく。
「……最近、イーリスの検診多くない? なんで?」
「それは……わたしにもわかりません。四課の情報なんて全く入ってきませんし……」
「あいつら、すっごくむかつく。僕とイーリスの体を弄るのがそんなに楽しいのかな。今頃イーリスも嫌な思いをしてるはず。むー、あいつらがイーリスの裸にべたべた触ってるのを想像しただけでむかついてきた! あーやだやだやだやだっ!」
「仕方ないですよ……。それに、これでもだいぶまともになったみたいですよ、イーリスさんの待遇も。昔はもっと……酷かったそうですから」
「……どんなふうに?」
「わたしも人から聞いただけですからなんとも言えませんし、こんな言い方をするのは失礼だとも思うのですが……」
サティは言葉を濁したあと、密めくような話し方で続けた。
「イーリスさんは実験の――道具、として、扱われていたようです」
「実験の、道具」
「はい。四課を擁護するわけではありませんが……無理もないことだと思います。イーリスさんは聖遺物――旧きカルディアとの合一実験に成功した初めての方です。前例のないことですから、バーラエナにとって未知のことだらけでした。だから四課は、イーリスさんに様々な実験・試験を課していたそうです。秘密裏に――政治的に利用されていたとも聞きます」
確かにサティの話は、わたしもどこかで耳にしたことがある。けれどイーリスの過去を深く考えたことはなかった。
イーリスの過去を考えてしまえば、きっとわたしは自分の過去のことも考えてしまう。
それは嫌だった。
どうせ考えても、曖昧な記憶しかないのだから。
「鯨伏家の方々が、イーリスさんの身柄を四課から移籍させるよう強く訴えて、今の状況に至ったみたいです。今も検診はありますが、その頃と比べれば遥かに自由なのではないでしょうか」
そこまで言って、サティは申し訳なさそうな表情をした。
「すみません……。知ったふうな口を利いてしまって」
「サティが謝ることないじゃない。むしろイーリスの話を聞けて嬉しいよ」
いつも一緒にいるけれど、イーリスは自分のことをあまり話さない。わたしはイーリスと一緒にいられるだけで幸せだから、彼女の過去を無理に尋ねることなんてしないし。
でも、興味がないと言ったら嘘になる。
「そういえば」
身を起こし窓の外を眺める。結構前の話なんだけどと前置きをしてからわたしは言った。
「イーリスがね、夜、そこの姿見の前でぼうっと立ってたの。その日僕は先に寝ちゃってて、でも夜中に目を覚ましたらイーリスはまだ寝てなくて、鏡の前で何してるんだろうって、僕は布団の中からぼんやり見てたんだけど」
穏やかな生温い風がわたしの短い髪を揺らす。彼女とは正反対の、真っ黒な髪を。
「イーリス、手に何か持ってた。暗かったからよく見えなかったけど――たぶん鋏。あの時、イーリスは自分の髪の毛を掴んで、切ってたんだ。僕にはそう見えた」
「ど、どうしてそんなことを……」
サティの瞳が、眼鏡の奥で困惑の色を浮かべる。
「その時は寝惚けてたから夢と区別がついてなくてさ。朝起きた時にはイーリスに変わった様子はなかったし。でも、そのあと気になったから訊いたんだよ、イーリスに」
「なんて訊いたんですか?」
「イーリスは髪型を変えたりしないの? ――って。そしたらイーリス、ちょっと困ったように『どうしてそんなことを訊くのか』って言うから、僕、思ってたことを正直に言ったんだ」
わたしはあの日の自分の言葉を思い返す。
「もしかして外見のことを気にしてるの――って。イーリスって、よく外見を気にしてる素振りを見せない? 目立つからって街にも行きたがらないし、人混みには絶対近づかないし」
美しい長髪、透き通るような肌、そしてすらっと伸びた手足は、どれも月の光を浴びたように白く輝いている。
「言っておくけど、僕はイーリスの髪、好きだよ。というかイーリスに嫌いなところなんてない。あの白い髪もとても綺麗だし似合ってるじゃないか。でも――イーリスが外見のことで、何度もつらい目に遭ってるのも知ってる。この間だって――」
「この間?」
「あ、いや、なんでもない。――とにかく、イーリスには外見のことで悩んでほしくないんだけど、どうしても気になるなら髪を染めたらどうかなって言ったの」
「まあ、確かに髪が黒や茶色だったら、多少は目立ちにくくなりますしね。イーリスさんのそんな姿、想像できませんけれど……」
「でもね、イーリスは首を横に振って、それはできないって」
――私は偶像だから。
だから、ずっとこの姿でいなければいけないんです。
イーリスはそう言って、わたしの髪を優しく撫でた。
「それでこの話は終わり。あれ以来もうこの話はしてない」
立ち上がってサティに歩み寄り、眼鏡の奥の小動物みたいな瞳を覗き込む。相変わらず今日もスーツが似合っていない。わたしより十歳近く年上のはずなのに、そうは全然見えない子供っぽい顔も相変わらずだ。
「ねえサティ。偶像ってどういうことかな」
「偶像、ですか」
「髪の色だけじゃない、あの式服だってそうだよ。わざわざイアカスの服に似せてつくられてる上に、イーリスだけ強制的に着せられてる。バーラエナで制服を着てるのなんて隊上がりの人くらいじゃん。イサナもサティも普通のスーツだし」
わたしの疑問に対して、サティは小さく呻いたあとに歯切れの悪い答えを返した。
「わたしは四課の方と面識がないので……これはあくまで憶測です。イーリスさんに関しては、つき合いの長い鯨伏さんのほうが詳しいでしょうし……」
「まあ、そうだろうね」
「イーリスさんは……きっと四課の方の思いを背負っているのではないでしょうか」
「思い?」
「思いというか……つまりですね、先ほど話しましたけれど、イーリスさんは何度も重ねた実験の末に生まれた、いわば四課の研究が結晶したお方じゃないですか。だから四課の方々が、イーリスさんに夢を託すというか、幻想を抱くというか、完璧な姿を求めるというか……」
自分達がつくった作品を、より完璧で美しい芸術品にするため、イーリスに理想を押しつけている――サティが言いたいのは、そういうことだろうか。
「清火君も知っていると思いますけど、世の中にはイアカスの外見の美しさに心酔している人達がいるじゃないですか。それはもう、宗教的なレベルで。確かに、彼等は神人を名乗るだけあって綺麗で佳麗、中性的で華やかな容姿をしていますし」
「四課の連中も、イアカスの顔に憧れてるってこと?」
「憧れ、とは違うような気もします。誰しもが持っている――高貴なものへの羨望。神々しいものへの畏怖や畏敬。イーリスさんを目覚めさせた四課の方にとって、もしかしたら」
彼女こそが女神の象徴なのかもしれません、とサティは言った。
「だから、偶像。イーリスさんに、わたしたち人間を救ってくれる女神の姿を重ね見ている――そんな気がします」
「…………」
気に入らん。
気に入らんぞ、わたしは。
イーリスはお人形じゃない。自分達の勝手な理想を押しつけるな。イーリスはイーリスだ。そんなわけのわからないものを勝手に背負わせるな。結局はイアカスに嫉妬してるだけじゃないか。かっこ悪い。
「あ、あくまで憶測ですからね、憶測」
「わかってるよっ」
なんだか無性に腹が立ってきた。今、イーリスはあいつらのところに行っている。わたしはあの白衣の連中の顔を思い浮かべた。一切の感情を捨てた生気のない目。わたしに言わせればあいつらこそ人形だ。無駄口を叩かず作業をこなし、機械のように言葉を発する操り人形。検診の時に四課の連中とは顔を合わせるけれど、おそらくわたしの検診を担当しているのは下っ端だろう。当時イーリスの実験に関わった研究者があの中にいるとは思えなかった。
誰がイーリスを甦らせ、誰がイーリスに重荷を背負わせているのか。
四課の研究者は嫌いだが、その四課がなければイーリスとわたしは出会っていない――その事実がもどかしかった。
「あー、もう」
何か楽しことを考えなければ苛々が募る一方だ。
壁にかかった時計を見ると、まだ昼前だ。そして今日はいい天気。
「よし、決めた!」
サティのほうへ向き直り、訝しがる彼女に対し高らかに言う。
「街に行く。久しぶりに」
「えっ。え――ええっ?」
「ほしいものがあるの。サティが一緒なんだからいいでしょ。ほら、早く準備して」
素早く身支度を整えながら、あれこれと騒ぎ出したサティを強引に説得。足取りの重い彼女を引き摺るように、ここから一番近い駅を目指し部屋を出た。
仙台は中心に都市部があり、そこから十字に主要線路が走っている。新日本東北警衛隊――通称〈東北〉には、仙台の東西南北、つまり線路の先端に構えるように基地を備え、中心の市街地から少し外れたところにあるものを含めて計五つの基地を持っている。まるで要塞のように、街を囲い護っているのだ。
わたしやイーリスが所属する〈バーラエナ〉は、中心部の一番大きな東北の基地、その隣に位置する場所に本部がある。
バーラエナとはラテン語で『鯢』を意味し、元は長い歴史のある巨大な組織だったらしい。東北とは横並びの協力関係(隊が自分達の手を汚したくない〈裏〉の仕事の解決を依頼してくることが多い)であって、どちらかが傘下に入っているわけではない。そのため上層部がよく喧嘩しているらしいが、まあわたしには関係のない話である。
「電車に乗るのも久しぶりだなあ」
二十分ほど歩くと寂れた駅が見えた。
都市部はここから数駅先だ。
駅員もいない、無人のプラットホームでサティと一緒に電車を待つ。時刻表を確認すると、だいたい三十分後に各駅停車の列車が来るようだ。時間通りに来るかどうかわからないけれど。
「うーん、気持ちいい天気だあ」
ホームから見える景色を全身で感じながら、思いっきり伸びをする。
茶色の土と、緑色の雑草と、黄色の花と、青色の空と、畦道と、鳥と、蝶と、もうすぐ真上に昇る金色の太陽。
振り返ると、サティは椅子に座ってぐったりしていた。
「あ、暑いです……。死にそうです」
額に玉の汗を浮かべるサティに、そんな格好してるからだよとわたしは言った。
「私服じゃだめなの? いつもスーツじゃ窮屈じゃない?」
「一応仕事ですから……」
「ふーん。僕のお守りだもんね、サティの仕事って」
「お守りってわけじゃないですよ……。清火君は暑くないんですか?」
わたしはわざわざ日陰から出て、肌に突き刺さるような日光を浴びながら笑う。
「ぜーんぜんっ。僕、暑いのとか寒いのとかよくわかんないし」
「あ……」
温度を感じないわけではない。
熱いものは熱いし、冷たいものは冷たい。
こんな夏の日に飲む冷えた牛乳が、最高に美味しいのも知っている。
けれど。
わたしの体は自然に不快さを排除してしまうのだ。
猛暑だけではなく、おそらく極寒を感じることもできないだろう。
だから平時に汗をかくことなどまずないし、夏にコートを着込んでも、冬に全裸で外出しても平気なのだ。いやそんなことしないけれど。
サティはしまったというような表情をしていた。
「ねえ、サティ。それは進化だと思う?」
それとも、退化かな――わたしは訊いてみた。
「あ、あの――」
なんと答えればよいのかわからず、口籠もっている。
意地悪しちゃったかな。
「なーんてねー。これはこれで便利なんだよー。着たい服をいつでも着られるし、エアコン代も節約できる。僕は地球に優しいエコ少女なのだ。エロ少女じゃないぞ、エコ少女だ」
ちなみに、今のわたしの服装は半袖のシャツに動きやすいハーフパンツである。やっぱり夏には夏らしい服を選んでしまうものなのだ。
他愛もない話を続けていると、三分遅れで列車がやってきた。前半分が通常の車輌で、後ろ半分が貨物を積んだ車輌となっている。
「やっときたあーっ」
車内は申し訳程度に空調が効いているだけであまり涼しくなかったけれど、それでも外よりは十分快適だった。
ゆっくりと車輌が動き出す。
窓の外に広がる平野。遠くで農作業をしている人達が見えた。太陽の下、一身に陽射しを浴びて働いている。
その光景を眺めながら、先ほどサティに尋ねたことを思い返した。
――進化だろうか。
――退化だろうか。
わたしやイーリスのような存在は、バーラエナの研究者達に〈アルファ〉と呼ばれている。
両性具有の人間を意味するアンドロギュノスから来ているらしい。
アニマとかアニムスとかユングがどうとか説明を受けた記憶があるけれど、興味がなかったので忘れてしまった。というか難しすぎて理解できなかった。
ただの一組織であるバーラエナが、どうして一国の軍隊(と言っても、東北と関西が完全に同じ思惑で動いているわけではないらしいけれど。そもそも今の日本には中央政府がないから、指揮系統が異なる東北と関西は全く別の軍隊とも言える)と対等な力関係を維持できるのか。
それはバーラエナが、かつてこの国に存在したという超法規的機関の残滓だから――だそうだ。弱体化したとはいえ、未だにバーラエナが持つ力は底が知れず、隊の人間とはいえ迂闊に手を出せない。
バーラエナにはその前身である機関と繋がりを持つ者、あるいは繋がりを持つ一族の生き残りである者が大勢関わっている。さらには政治家や軍閥・門閥などと親交があり、各方面に与える影響力は今でも絶大だという。
そして、そういった者達の中には普通ではない人間――術者や遣い手などと呼ばれる者がいる。
即ち――〈溟き海を游ぐ力〉を有する者。
境界を越え、天にまで届く光を放つ、神性の高い人間――という話だ。
そして、そういった者達を牽制する意味でも強い影響力を持つ存在――イーリス。
イーリスとわたしは、人間でもイアカスでもない――別の何か。
進化だろうか?
退化だろうか?
それとも別の……。
◆
「――今こそ我々は! この国を! 故郷を! 奴等の手から取り戻さねばならない!」
改札を通り駅から出ると、丸い形をした広場に耳障りな音が響いていた。拡声器から発せられているけたたましい音声は、騒々しすぎてもはや雑音と言っても差し支えないように思える。
「何やってんの、あの人達」
駅前には円形の広場があり、バスプールやタクシー乗り場が置かれている。周囲をビルに囲まれたこの広場から、建物の間を縫うように商店街が続く。
「どうやらデモのようですね。よくあることです」
騒音の出所は、人波の向こうに並んで停まっている街頭宣伝車だ。団体名が記された車の上で、数人が拡声器片手に声を張り上げている。
「――春雷以前、世界の命運を別つ戦争において、英雄達は祖国を護るために戦い散っていった! そして今! 我々日本人は、英霊達の誇りに恥じぬよう立ち上がらなければならない!」
けれども、熱の籠もった演説に耳を傾けている通行人は少ししかいないようだった。
「デモかあ。初めて見た。どういうことを言ってるの?」
「彼等は〈AI〉ですよ。反イアカス――イアカスと友好的な姿勢を取る政治家や市民を非難しているんです」
「へえ。そういえば、政府と天枢院って友好関係ってことになってるんだっけ」
雑踏に紛れながら、大通りのほうへと歩を進める。さっきから、サティは頻りにハンカチで額の汗を拭いていた。
「表面上はそうですが……そんなものを信じ込んでいる人はいないでしょう。誰もが内心、いずれ日本はイアカスに乗っ取られるのではないかという不安を抱いていると思います。協定がありますから、軍と軍の全面衝突になるということは、たぶん、ない、はずですが……。米国の事例もありますし、断定はできません」
広場を抜け、左右に店が並ぶメインストリートへ。アーケードが設けられているため、直射日光からは身を守れる。
サティはハンカチをしまって、続けた。
「AI――反イアカス派の問題は、一部の過激な団体が外国人のハイセキまで唱えていることでしょうね」
「ハイセキ」
「排斥。追い出す、ということです。『日本は日本人のものだ』という意識が強すぎるあまり、日本に友好的な外国人にまで非難の目を向けているんですよ」
「なんだそりゃあ」
「まあ、そこまで行くと盲目的・狂信的な恐ろしさを感じますけれどね」
うーん。
日本が誰のものか――か。
正直なところ、そんなの考えたこともなかった。だってわたしは、日本がちゃんと日本人のものだった時代を知らない。むしろ知っている人なんているのかな。わたしたちが生まれるずっと前から――もう何年も、東京はイアカスに占領されているわけだし。
それに、わたしの傍にはいつもイーリスがいるから。
日本人がどうとか、イアカスがどうとか、そんなの――考えたこともなかった。
小難しいことに頭を捻りながら、通りを直進。目的の店が見えてきた。
店頭で足を止める。
「呉服店……。清火君、和服がほしいんですか?」
「うん」
二階建ての古風なつくりの商店。店先には彩り豊かな染物や帯が飾られていて、目立っているのに目立たないという慎ましやかさを見事に発揮していた。
「僕が、っていうより――イーリスに着せてあげたいの」
和服を好んで着る人は少なくない。時代の流れとあの災厄によって失われつつある日本固有の文化を、もう一度見直そうとする世間の動きが活発だからだ。基地の中でも、休暇に和服を身につけている人をたまに見かける。
任務の時は式服、休日は地味なブラウスにスカート――イーリスはそんな格好しかしない。
「毎年、夏祭りがあるでしょ? イーリスと来たいんだ。一緒に浴衣を着てさ」
二人で浴衣を着て、街に出向いて、花火を見て、夜店を回って。
ささやかな願いだけれど、もし叶ったら、きっとすごく楽しいだろうなと思う。
「喜んでくれると思いますよ。清火君は本当にイーリスさんが好きなんですね」
あったりまえじゃん――サティの言葉に気恥ずかしさを感じながら、暖簾をくぐろうと手を上げた時。
視界の隅に小さな影を捉えた。
「うわっ」
店の横にある脇道から現れるなり猛然と走ってきたそれが、思いっきりわたしにぶつかった。
「いてて……」
「だ、大丈夫ですか清火君」
尻餅をついたわたしを助け起こしてくれるサティ。
見ると、ぶつかってきた張本人は頭を押さえて蹲っていた。避けようとしてバランスを崩し、地面に頭を打ったのだろう。うーんうーんと痛そうに呻いている。被っていた帽子が離れたところに転がっていた。
「ちょっと、大丈夫?」
どうしてわたしが加害者の気分を味わわねばならないのか。立場が逆のような気もしたけれど、心配になったので声をかけてみる。路上に丸まって頭を押さえている小柄な体。相手はまだ小学生くらいの子供だった。
「ねえ。おーい。大丈夫かー」
返事がない。近づいて肩に触れようとすると、その子は突然がばっと起き上がって「帽子!」と叫び、辺りを見回し始めた。
どこにでもいる女の子だ。
けれど頭を押さえていた手を離すと、ほかの子とは少し違った色が目についた。
「あの、これ」
「あっ!」
サティの手から乱暴にキャスケットを奪い取り、目深に被り直す少女。
金色の髪を――隠すように。
大きな鳶色の瞳に力を込めて、少女はわたしたちを交互に睨んだ。野良猫の威嚇みたいだった。
「ちょっとちょっと。ぶつかってきたのはそっちだろ。一言ごめんなさいがあってもいいんじゃない」
隣でおろおろしているサティはとりあえず置いておいて、わたしは金髪の少女に詰め寄った。
また返事がない。黙り込んだまま、何かを思案するように俯いている。
はっ、もしかして。
「もしかして日本語が」
「わかるわよ! ぶつかってごめんなさい! 急いでたの!」
あ、話せた。
わずかに顔を赤らめながら声を張り上げる少女。しっかりとした発音で聞き取りやすい日本語だった。
「ま、いいけどさ。で――そっちは大丈夫なの、頭」
ドット柄のフリルワンピースについた砂を手で払いながら、平気よと少女が返す。わたしには絶対似合わない、女の子であることを強調した服。そこから伸びる白い脚は、力を入れれば簡単に折れてしまいそうなほど細い。
「ん?」
ふと自分の足下を見ると、いつの間にか紙切れを踏んでいた。ぶつかった時に少女が落としたもののようだ。
「なんだこれ」
拾って目を通すと、白い紙切れには日時と住所が書かれていた。それから――
あっ、と小さな声を上げた少女が、勢いよくわたしから紙を取り上げ、再びわたしを睨む。けれど睨まれたのは一瞬で、今度はなんだか力のない表情へと変わった。
「……じゃあ、ワタシ行くわね。ごめんなさい」
言い残し、少女が足を踏み出した――その時。
「――エミちゃん?」
暖簾が揺れたかと思うと、店の中から和服の女性が姿を現した。振り返り、エミと呼ばれた少女が「おばさん……」と小声で漏らした。
「やっぱりエミちゃんの声だったのね。大きな声が聞こえたから」
落ち着いた色合いの着物に、結い上げられた髪。四十代くらいだろうか。身につけた衣服同様、女性からは控えめな気品が漂っていた。
「あら、エミちゃんのお友達かしら? そちらの方は――」
「おばさんっ、ごめんなさい! ワタシ急いでるのっ」
おばさんの言葉を遮って、少女エミは一目散に通りを駈けていった。かなり慌てているようだけれど、そんなに急ぎの用事があるのだろうか。
「あらあら……どうしたのかしら」
遠ざかる小さな背中を、残された三人が一様に目で追う。少女が振り返ることはなかった。
「今の女の子って外国人だよね」
サティに言ったつもりだったのだけれど、答えはおばさんから返ってきた。
「ええ。あの子――エミちゃんの家はすぐ裏にあるの。お父さんと二人暮らしでね、小さい頃からよくうちに遊びに来てたのよ」
「じゃあ、おばさんここの店の人なんだ」
おばさんは人当たりのよい笑みで頷き、わたしたちを店内へと招き入れてくれた。
店の中は濃淡様々な色が躍っていた。花模様があしらわれた生地、複雑な刺繍が施された帯、色とりどりの緒がすげられた履物。それらの色彩が放つ刺激は、決して派手に存在を主張する嫌らしさではなく、控えめで、穏やかで、見る者にとって心地よさを与えるものだった。
案内された店の奥には膝くらいの高さの畳座敷があり、サンダルを脱いで上がると、ひんやりして気持ちいい感触が足の裏から伝わってくる。
「なんだかすみません……。お忙しいところへ突然、お邪魔することになってしまって」
サティが申し訳なさそうに頭を下げたので、わたしもそれに続いた。
「いえいえ。それが全然忙しくないのよ」
おばさんは笑いながら座布団を勧めてくれた。
「駅前のデパートの中に大きな呉服店があるからねえ、みんなそっちに行くのよ。この店も趣味の延長でやっているようなものだし、今じゃお客さんは近所の友達とか、つき合いのある着付教室くらいなの。だから今日はゆっくり見ていってくださいね」
どうやらものすごく歓迎されているみたいだ。わざわざ冷たいお茶まで出してくれたおばさん――苗字は山鳩というらしい――に、サティが慌てて自己紹介を始めた。
「も、申し遅れました。わたくし、沙汀渚と申します。この子の保護者みたいなもので……」
「僕は清火。よろしくお願いします」
わたしはあの少女についておばさんに尋ねた。
「さっきのエミって子、学校は? 夏休みにはまだ早いんじゃ」
「ああ、エミちゃんは――って、そういえばあなたたち知り合いじゃないのよね」
「うん。そこでぶつかったから少し話しただけ」
「そういえば、清火君は学校どうしたの?」
あ、そっか。
わたしも学校に行っていないとおかしい時間帯か。
「あー、僕のとこは今日休みなんだ。今日はちょっと遠くから遊びに来たの」
適当にごまかしておこう。わたしは学校に通ったことなんてないし。
納得したようで、おばさんは少し目を伏せて言った。
「エミちゃんはねえ、ちょっと前から行かなくなっちゃったのよ。今も元気だし、うちにもよく顔を出してくれるんだけど……」
その表情から言わんとするところを理解したのか、サティが細い声を出した。
「学校で――いじめられている……のでしょうか」
「いじめぇ~?」
「い、いえ、なんとなくそう思っただけで……」
少し間を置いて、おばさんが口を開く。
「……学校で暴力を振るわれているとか、陰湿ないじめを受けているとか、そういうのではないと思うの。エミちゃんは話したがらないし、わたしもどう向き合えばいいのかわからなくて。ただ――」
「ただ?」
「噂が――あってね。あくまで噂なんだけど、あんまりよくない噂」
おばさんはちらりと店内に目を向けた。店にはわたしたち以外誰もおらず、暖簾の隙間からはわずかに通りの様子が窺えた。
「噂って」
「ええ。噂があるのはエミちゃんじゃなくて――あの子のお父さんのほうなんだけど。どうやら悪い人達とつるんでるようなのよ」
「悪い人達? それってつまり」
暴力団とかやくざのことだろうか。
いつの時代になっても、その手の連中はいるところにはいるものなのだ。
まあ、怪しげな組織に所属しているという点においては、わたしも人のことは言えないけれど。
「とてもいい人なのよ? エミちゃんをいつも可愛がっているし、男手一つで苦労して育ててきたみたいだし……。でも、普段どんな仕事をしているかわからないのよね」
エミの父親が堅気ではないという悪い噂が児童や保護者の間で広まり、その結果、彼女が腫れ物に触るような扱いを級友から受けているのではないか――とおばさんは語った。
事情はなんとなくわかったけれど――どうしてそんな話をわたしたちにしたのだろう。
こんなことは言いたくないんだけれどね――と、おばさんはとても心苦しそうに――まるで自分を責めるかのように訥々と話す。
「エミちゃんは異人さんでしょう? イアカスや政治屋連中の発言のせいもあって、異人さんに対しての風当たりがあまりよくないじゃない」
「残念ながら、そうですね……。異人狩りと称する、外国人が襲われる事件が一時騒ぎになりましたし」
「ばかな話よね、本当に……。だからね、わたしはエミちゃんが――どうしても可哀想に思えてしまうの。お父さんと二人で一所懸命に暮らしてて、あんなにまっすぐでいい子なのに、世間の目はとても冷たい。だからどうしても、ね」
おばさんは子供に恵まれなかったらしく、旦那さんと二人で暮らしているのだという。エミのことを自分の娘のように案ずるのも、当然なのかもしれない。
「エミちゃんと同い年くらいの子を見ると、あの子と仲良くしてくれないかな――なんて、余計な老婆心が出ちゃうのよ」
おばさんはわたしの目を見つめて、そう言った。
「同い年……。あの子、いくつ?」
「十歳よ。小学四年生」
「…………」
まあ、いいや。
「それにしても――エミちゃん、どこへ行ったのかしら。こんな時間に子供が一人出歩いていたら補導されないか心配だわ」
「よし、じゃあ僕がちょっと捜してくるよ」
「えっ」
わたしの言葉にサティが戸惑いの声を上げた。
「すぐ戻ってくるからさ。サティはここで待っててよ」
「わ、わたしも行きますよっ。一人じゃ何かあった時――」
「大丈夫大丈夫。すぐ戻ってくるから」
そう言い残し、わたしは返事を待たず店から飛び出した。通りを駅のほうへと走りながら、先ほどエミが持っていた紙に書かれていたことを思い出す。
日時、住所、ビルの名前。
そして――『侠勇会』という文字。
侠勇会という字面には見覚えがあった。駅前でデモをしていた人達の車に、同じ名前が書かれていた。思い返すと、彼等が振っていた旗にも同じ名前が書かれていた気がする。
日時は今日――今から三十分ほど前。住所は駅裏ということはわかったが、さすがにはっきりした場所までは不明だ。ビルの名前は香染ビル。
駅に近づくにつれて、どんどん騒がしくなってきた。どうやら広場のデモはまだ続いているようで、先ほど通った時と違い、立ち止まって見物している人も多かった。
「なんだなんだ」
広場には怒声と叫声が響き渡っていた。一つの拡声器がどすの利いた汚い音を鳴らすと、それに続くようにあっちからもこっちからも地鳴りのような声が広場を震わせた。とても耳障りだった。
騒動の中心では、二人の男性が掴み合いの喧嘩でもしているのかと思うほど、至近距離で怒鳴り合っていた。一人は日本人の男――おそらくこのデモを主催している侠勇会の人間だろう。もう一人は大柄な金髪の男――外国人だった。警官が間に入り、場を収めようと苦心していた。
周囲には日の丸を掲げ叫んでいる侠勇会のほかに、外国人の団体もいた。こちらも各々がプラカードを引っ提げ、負けじと言い返している――けれど、人数が少ないためかやはり押され気味に見えた。
「止まらないで! 散った散った!」「押すな! 騒いでないでさっさと歩くんだ!」「進まんかオラァ! 舐めとるんか!」――と警官達が野次馬に解散を促すも、あまり効果はなく、駅前広場は混乱の度合いをますます強めていった。
呆れる。
こんなことでいったい何が変わるのだろう。誰が心変わりするというのだろう。わたしは言い争っている両者を半眼で見比べ、加勢する気はこれっぽっちもないけれども、外国人の団体のほうへと回り込んだ。
集団の最後尾にいた男性に声をかける。
「あのー」
「ん? なんだい君は!」
流暢な日本語は、この人が長年この国で暮らしてきたことを物語っていた。
「侠勇会ってあの人達のことだよね?」
「ああ、そうさ! あいつらはボクらと同じ日にわざとデモをぶつけてくるんだ! まったく腹が立つよ!」
興奮しているのか、早口な上にやけに声が大きい。語尾に感嘆符がたくさんついていそうだ。
「じゃあさ、香染ビルって知ってる?」
「香染ビルだって? 知ってるさ! あいつら侠勇会の連中が入り浸ってるビルだ!」
「どこにあるの?」
「駅裏さ! 東口を出てすぐ左に曲がると、雑居ビルが建ち並んでる通りに出る! 香染ビルもそこにあるんだ! 駅から徒歩で二十分もかからないだろう!」
「そっか。あとさ、エミって子、知ってる? 僕と同じくらいの背で、このくらいの金髪で、えーっと、小学四年生の女の子なんだけど」
「エミ? リチャードの娘さんのことかな!」
「リチャードって?」
「ボクたちのリーダーさ! 今日は用事があるらしく参加していないが、いつもはダイナミックな演説で人々のハートを掴むナイスガイさ!」
「なるほど。サンキュージョニー」
「ユアウェルカム! ん? まさかあのビルに行く気かい!? やめるんだ! あの辺りは治安も悪いぞ! ごろつきも多いしな! 昼間でも子供が一人で歩いていいような場所ではない! あのビルに何か用でも――あっ! ちょっと! 危険だ! あとボクはジョニーじゃ――マイガッ!」
テンションの高い外国人と広場の喧騒を背にして、わたしは駈足でそのビルを目指した。
光が射せば、影ができる。
光と影、表と裏――その二つは切っても切れない関係でありながらも、多くの人は一方にしか目を遣らない。知らないふりで、気づかぬふりで、見て見ぬふりで――けれど暗澹たる影は、光射すところには必ずあるのだろう。
賑やかな街並みだって、通りを少し外れれば――そこは薄暗い路地裏。閉じたままの鎧戸、淫らな落書き、ごみをあさる烏、路上を転がる空の酒瓶……。光に背を向けて、影の中でしか生きられなくなった者の世界だ。
じめじめとしていて、風通しが悪い。中途半端な高さのビルが密集し、いかがわしい看板がずらりと並ぶ。しかし、昼間ということもあり実際に営業しているのかどうかはよくわからなかった。
暑さも手伝って、通りに人影は見当たらない――と思ったが、すぐ傍に段ボールの上で胡坐を組んでいる浮浪者がいた。
ぼさぼさの白髪に加え、白い眉毛は目を覆い隠すほど長い。茶褐色にくすんだ肌は、老人が壮絶な日々を送っていることを告げていた。
「こんなとこさ来るもんじゃねえべよ、子供がよお」
わたしと目が合うと、老人はしわがれ声でそう言った。組んだ足の上で居眠りしていた野良猫が目を覚まし、建物と建物の間に気怠げな歩調で入ってゆく。
「お爺さん、香染ビルってこの先?」
「……まっすぐ行きゃあ、すぐ見つかる。おめえさんで二人目だ、その質問は」
ありがとう――礼を言い終えると同時に、わたしは再び走り出す。間違いなくエミはここへ来たのだ。こんな陽の当たらない場所に、たった一人で。
老人の助言通り、目的の建物は苦労せず見つけられた。
香染ビル――入口にそう書かれているだけで、特に看板などはない。決して新しくはないが、五、六階建ての、至って普通のビルディングだ。
さて、どうしよう。
正面から堂々と入るか、裏に回り込んでみるか。
入口の硝子越しに中の様子を窺ってみると、人の姿は見当たらなかった。よし、入ってしまえ。
扉を手で押し開けると、部屋ごとに設けられたステンレスの郵便受けや、使われている形跡のない受付台が目に入った。奥に進むとすぐに上りと下りの階段があり、外は晴れているはずなのに、窓からは頼りない明かりしか射し込んでいなかった。
用心して階段を上り、二階の通路を進んでいるとどこからか話し声が聞こえた。反響した男の声が近づいてくる。咄嗟に近くの部屋のドアを開け、中に誰もいないことを確認し素早く入る。音を立てないように慎重にドアを閉め、身を隠せそうな場所を探した。
この部屋は事務所だろうか。書類が積まれたデスクが並び、空いたスペースには黒い革張りのソファーが向かい合っていた。
壁際のデスクの下に潜り込むと、不運にもドアががちゃりと開いた。何やら厳しい口調で捲し立てる男が一人。足音からして、あと二人――全部で三人だ。ソファーに身を沈める音が聞こえた。
「――うるせえなあ。しょうがねえだろ、あいつらがやりてえっつってんだからよ」
「話が違うだろう! 今日は我々の活動を邪魔しないと言っていたはずだ!」
「いいだろうが。たぶん今頃盛り上がってるぜぇ? 少しくらい刺激的なほうが大衆は喜ぶんだよ」
「貴様……ッ!」
話しているのは二人だ。相手を舐めきった口調の男と、怒気を孕んだ声色の男。後者の男は淀みない日本語ではあるけれど、少しだけ話し方に引っかかりを感じる。おそらく外国人だ。もしかすると――
「ふん、何を苛立ってやがる。言っとくが俺はお前に感謝してるんだぜ? お前の協力がなきゃ、ここまでうまくバカな大衆を煽れなかったからな。AIや極右の政治屋連中もそれは同じだろうよ。お前には感謝してるんだ。だから落ち着けよ」
「根岸……!」
「そのおかげで資金だって集まるんじゃねえか。対立を煽れば煽るほど、金が動く。金が動けばお前等だって活動を続けられる。互いのためになるんだ。そうだろ? リチャード」
――やっぱり。
そこにいるのはエミの父親だ。
「何が互いのためだ! オレは確かにお前に――侠勇会に協力すると言った。活動資金の話も、それで世論を動かせるならばと、確かに思った。同じ日にデモをする時も、はじめは打合せ通りに進めてくれたからな。だが最近は違う! お前等が強引に、オレたちの活動を妨害しているだけじゃないか!」
「そう怒るなって。仕方ねえよ。大衆はもっと過激なショーを望んでるんだ。ほら、例の異人狩りのビデオや写真だって、一部じゃ大人気なんだぜ? また今度注文があるかもしれねえな」
「な――なんだと……?」
「あん? 知らなかったのか? 組の連中に頼まれたんだよ。別にお前等のメンバーの家族を襲ってるわけじゃねえし、ちゃんと身寄りのないガキとか市に登録されてないような、突然消えても怪しまれない奴を狙ってんだからいいだろ。何? スナッフフィルムっつーの? 悪趣味な奴もいるもんだ。――あ、でも殺した奴の中に、お前等が施設に保護したガキもいたような気がするな」
「…………ッ!」
「いやあ、金持ちに高く売れるんだよ、あれ。十年以上前にはこんなこともあったらしいぜ。政治屋に頼まれてよ、生まれたばっかりの日本人のガキを攫ったり殺したりしてさ、それを外国人のせいにしていろいろ工作してたらしいんだよ。それを信じたバカな連中が、勝手に異人狩りを――」
ゴン、と鈍い音がした。
エミの父親の、荒々しい呼吸だけが室内に響く。
しばしの沈黙のあと、根岸という男が嘲るような口調で言った。
「……そろそろ本題に入ろうか。リチャード――今日お前を呼んだのはこんな話をするためじゃねえんだ」
顔は見えないけれど、きっとその顔には卑しい口ぶりに見合うだけの汚い笑みを浮かべているのだろう。
「実はよぉ、お前の演説はちっとばかしやりすぎだってお得意さんに言われちゃったんだよ。リチャードさんよぉ」
「何――」
「お前さん才能あるよ。顔もいいし、喋りもうまい。ファンが増えてきちゃってんだよね。だからさぁ、お前さんもう演説は控えてくれねえかなぁ?」
「ふっ、ふさけたことを――」
「なら死ねや」
三秒弱――
一秒で目の前にあった邪魔な椅子を払い除け、立ち上がりながら状況を把握。一秒でデスクの上を走り抜け、次の一秒が終わりを告げる前に、その男が手にしていた拳銃を蹴り飛ばす。一瞬のできごとに固まったまま、口の端から血を流す男が呆けていた。
突然現れたわたしに、場の時間が止ま――
いや。
すぐさま振り返り、わたしは身構える。
もう一人――部屋の隅で壁に寄りかかっている、スーツを着たスキンヘッドの大男。サングラスの奥の瞳がわたしを観察しているのがわかった。
身に纏うただならぬ気配。
なるほど、この男はプロだ。
プロの殺し手――〈遣い手〉だ。
雇われた用心棒だろうか。こんな場に同席させるなんて、根岸とかいう男の小心さが笑えるというものだ。
二秒弱――
スキンヘッドは何を思っただろう。
子供?
いつの間に?
どうしてここに?
けれどさすがプロ。それらの疑問を思考の彼方へ追いやり、臨戦態勢を取ろうとする。おそらく一瞬――それこそ一秒と経たない一瞬で、わたしがただの子供ではなく敵だと認識したのだろう。
しかし次の一秒が終わりの鐘を鳴らす前に、跳び上がったわたしは男の喉元に右ストレートを打ち放つ。苦悶の呻きを上げ、喉を両手で押さえて転げ回るスキンヘッド。その首筋にチョップを打ち下ろすと、男は動かなくなった。まあ、死にはしないだろう。
ゆっくり振り返ると、まだ呆けていた男がようやく我に返った。
「はっ、なっ、なん……!?」
挙動がおかしい。完全に動揺しているのが見て取れた。わたしが一歩詰め寄ると、男は慌ててドアを開け一目散に逃げ出していった。
「き、君はいったい」
そこで初めて、リチャードの顔を正面から見る。毛先がわずかにカールした金髪。エミと同じ鳶色の瞳。白い肌は日に焼けて少し赤くなっている。優しげで誠実そうな、大人の――異国の白人男性だった。
名乗ろうと口を開きかけた時、ふと気づく。
「あっ!」
エミ!
エミが危ないかも!
もしかしたらあの子は、今もこのビル内にいるかもしれないのだ。早く見つけなくちゃ!
「おじさん、またあとで!」
言い残し、わたしは急いで部屋から飛び出した。通路を駈け抜け階段へ向かう。上か下か――わずかな逡巡のあと、とりあえず一階へ下りることを選択。すると地下から階段を上ってくる二人の男と出くわした。どちらも色黒でアウトローなファッションをした、見るからにやくざ者だった。
「んだあ? またガキかよ。どうなってんだ今日は」
「んん? ぼくちゃんどこから入ってき」
言い終える前に、股間を思いきり蹴り上げ一人を悶絶させる。そのままもう片方の男を一本背負いで床に叩きつけ、同時に腕の関節を極めながら訊いた。
「金髪の女の子、知らない? 捜してるんだけど」
「がはっ、あが……」
折るよと淡々と告げ力を籠めると、大の男が情けない悲鳴を漏らした。
「待った! 待ってくれ! あっ、あれだ、地下だ! 地下にいる! ビルの中をうろついてたから、とりあえず監禁しといたんだ! 根岸の旦那が使うかもしれねえと思ってさ! まだ無事だよ!」
「本当?」
「嘘じゃねえよ!」
「わかった」
肩を脱臼させられた男の絶叫を背に、私は地階へと向かう。沸々と湧き上がってくるあの感情を抑えながら、勢いよく階段を駈け下りた。
照明が力なく灯る地下通路――そこに少女はいた。
根岸という男にナイフを突きつけられ、後ろ手に縛られたエミが。
「くはは……ッ! 来やがったなクソガキがぁ! まさかリチャードの奴がこんなガキの殺し手を雇ってるとはなあ……!」
「はあ?」
わたしはエミの目をじっと見つめる。気丈な子だ。こんな状況でも震えるわけでも泣くわけでもなく、怖れと戦い歯を食いしばっている。単純に、わたしの姿に驚いているだけかもしれないけれど。キャスケットを被っていないため、ブロンドがあらわになっている。――まあ、とりあえず乱暴された様子はなくて安心した。
「動くんじゃねえ!」
エミの首筋に刃が触れた。
その時、大きな足音を鳴らしながらエミのお父さん――リチャードがやってきた。わたしを追ってきたようだ。
「なっ、エミリー!?」
その声に応じ、エミが小さくパパと呟いた。
「どうしてここに!」
「おじさん、この場所が書かれたメモを家に置いてこなかった? エミはそれを見て心配したんだと思うよ」
「な、なんだって……?」
狼狽えるリチャードとは裏腹に、にやりと嫌らしい笑みを浮かべる根岸。
「そうかあ。この嬢ちゃん、てめえのガキかあ。こいつはおもしれえ」
「くっ……!」
「リチャードォ……、さっきはよくも殴ってくれたなあ? 痛かったぜぇ~」
娘を離せ――腹を据えた声と共に、リチャードが歩み寄る。けれどエミが人質に取られている以上、リチャードは手を出せないだろう。
「んん~? よく見りゃ結構可愛いお嬢ちゃんじゃねえか。――そうだ、リチャード。こういうのはどうだ? 俺に楯突いたことは見逃してやる。その代わり、このお嬢ちゃんちょっと貸してくれよ」
「貴様……!」
「もっとも――返すことはできないけどなあ! 金髪ロリは高値で売れるぜえ。いいビデオが撮れそうだ。あひっ、ひひひはははっ! はっ――ん?」
下卑た笑みを顔に貼りつけたまま、男が固まる。
その濁った目は――わたしに向けられていた。
「何を――笑ってやがる」
「笑ってる……? 僕が?」
そうか。
わたしは笑っているのか。
先ほどから、自分でも薄々感づいてはいた。
この感覚。この感情。
昂りと疼き。情動と衝動。
暴力を振るうのが楽しい。嬉しい。他人の悲鳴がわたしの中の『彼女』を興奮させるのだ。もっと暴れたい。もっと燃やしたい。もっと、もっと――
命ヲ奪エ!
敵ヲ殺セ!
瞳に映すのは獲物のみ。心を掌るのは本能のみ。ただ衝動で以て命を灼き尽くし、生を奪う。
その火の名を、
わたしは、
知って――
「やめときな、旦那」
背後から野太い声がした。
現れたのは――先ほどわたしが昏倒させた、スキンヘッドの大男だった。声が掠れているのは喉を痛めたせいか。やったのはわたしだけれど。
「そいつは――俺達が手に負える相手じゃねえ」
いいところだったのに――
胸の中の焔が消え、体が急速に冷えてゆく。
「もう起きたんだ。早いね」
わたしの軽口に、スキンヘッドは盛大に咳き込みながら苦笑で返した。『クジラ』の人間か――そう訊かれ、なんと答えようか考えていると、どうやら沈黙を肯定と受け取ったようだ。
「わかっただろ、旦那。命が惜しければ手を引くんだな。俺はこれ以上つき合うのはごめんだ」
「バ、バーラエナだと……? なぜ、リチャードがそんな連中と……」
ナイフを持つ手が小刻みに震えている。うっかりエミを傷つけないか不安だった。屈辱か恐怖か――根岸は醜く顔を歪め、そしてエミを突き飛ばした。
「くそっ! 役立たずがっ! てめえら覚えてろよ!」
吐き捨て、大股で歩き出した男の腕を――わたしはがっちりと掴む。
「覚えてろ? こっちの台詞だよおっさん」
「…………ッ!? ぎゃああああっ!」
骨が軋むほど強く、容赦のない力で腕を握りながら、高熱の掌に相反する冷淡な声で宣告する。
「今度同じようなことしてみろ。その時は――あんたたちを徹底的に潰す」
手を離すと、掴んでいた部分の皮膚が手の形に爛れている。この程度の脅しで十分だろう。解放された根岸は脱兎の如く逃げ出し、姿を消した。
「エミリー!」
愛娘を抱き締める父親の姿を眺め、残されたスキンヘッドに向かって尋ねる。
「まだやる?」
「……いや」
「明日から仕事は選ぶんだね。あんたもこの世界で生きてきたんなら、あくどいことたくさんしてきたんだろ。今日は見逃す。でも次に僕の前に現れたら――」
「……肝に銘じておこう」
そして、三人だけになった。
何か言いたげな目でわたしを見つめるエミとリチャード。
わたしはエミに対して開口一番、言った。
「わ、やっぱり綺麗な髪だね~」
◆
「どこに行ってたんですか、もうっ」
呉服店の入口で帰りを待っていたサティが、わたしの姿を見るなり泣きそうな顔になった。
「ごめんなさい、おばさん」
奥から現れたおばさんに謝るエミ。わたしも、戻るのが遅くなったことを努めて明るく謝った。
リチャードはここにはいない。ここに戻る途中に仲間達と合流し、そのまま事務所に向かうと言って別れた。三人でここに戻ってくるよりはそのほうがよかったとわたしも思う。表向きは飲食店の経営者であるらしい彼は、今日もいつも通り仕事に精を出している――これでいいのだ。
今まで隠してきた彼の運動は、家に置き忘れたメモをエミが見つけたことで知られてしまったわけだけれど、リチャードはそのことであまり落胆した様子はなかった。父が何かを隠しているということはエミも感づいていたようで、いずれにせよ活動のたびに人前で演説をすれば周知されるのは時間の問題だったからだ。
ばれてしまったことよりも、娘を危険な目に遭わせてしまった自分が許せないと、リチャードは小さく独り言ちた。エミのことを想ってやってきたつもりだったのに、結果的にエミを傷つけてしまった――とも。
「じゃあおばさん、今度来る時までその浴衣取っておいてもらえるかな」
「ええ、いつでも待ってるわよ。またおいで」
本来の目的を達成し、満足したわたしとサティは店を出た。
すると。
「キヨビ!」
そこに、それまで姿を消していたエミがやってきた。暑さでのぼせたのか、わずかに頬が赤らんでいる。
「やあ、エミ。今日は災難だったね」
お別れの言葉でも言いにきたのだろうか。
「やっぱり、帽子なんて被らなくていいじゃない。そんなに綺麗な髪なんだからさ」
「う、うるさいわねっ、ワタシの勝手でしょ!」
そして鳶色の瞳をした金髪の少女は、何やら口籠もったあと――振り絞るような声で、今日はごめんなさい、ありがとうと言った。
「ユアウェルカム」
また来ると約束して、今度こそわたしたちは帰路についた。
わたしはわたし、エミはエミ。
人の数だけそれぞれの意思があり、人の数だけそれぞれの楽園があるのだろう。自分達の願望を押しつけ、他人の希望を奪って創り上げる楽園は、いったいどんなところなのか。
それは人の強さなのか、それとも弱さなのか。
進化した人の形なのか、退化した神の姿なのか。
少なくとも――全ての者が同じ楽園を夢見るイアカスとの、決定的な違いだ。
わたしはわたし、エミはエミ。
そして――
イーリスはイーリスだ。
隣を歩くサティを見ると、笑いを噛み殺すような変な顔をしていた。
「え、何その顔は」
「ふふ。あの子、清火君に惚れちゃったみたいですね~。ていうか清火君、男の子だと思われてますよ」
「マイガッ!」
◆
茜色に染まる西の空。
反対方向に伸びる影を追いかけるように、早足で歩を進める。
軋む階段を上り二階の通路に出ると、会いたかった人の姿があった。
「何してるの?」
声をかけると、イーリスはなぜか狼狽えて口を濁した。
「あ、いえ、あの」
「ただいま。楽しかったー」
わたしの部屋の前で立ち尽くしているイーリスを置いて、何の迷いもなく彼女の部屋へ。イーリスは扉を閉めてもなかなか玄関から中に入ってこようとしなかった。
「ん? どうしたの?」
「……あの、清火」
やっと靴を脱いで部屋に入ってきたかと思うと、イーリスは顔を背けながら小声で言った。
「今まで……どこに行ってたんですか」
…………。
ああ。
そういうことか。
沈鬱な表情をしている彼女の内心を想像すると、自然と口元に笑みが浮かんできた。
「サティと街に行ってきたんだよ。それだけ」
「……本当ですか? ほかに何もありませんでした?」
「あ、信じてないの? せっかくお土産も買ってきたのにー」
手に提げていた紙袋を床に置き、ベッドに腰を下ろす。袋の中身は駅の売店で売っていた、昔の戦国大名にちなんでつくられたというお餅だ。
上目遣いでイーリスを見ると、今にも泣き出しそうな――物ほしそうな瞳で、わたしの目を見つめていた。
どこからか、鎖を引き摺るような音が聞こえた。
「――――」
強く。
イーリスはわたしを抱き締める。
腕を背に回して、わたしもきつく抱き締め返した。
「どうしたの。何か――嫌なことでもあったの?」
誰にも邪魔されない、二人だけの時間。
誰にも理解されない、二人だけの世界。
絡み合った鎖の内側で、わたしとイーリスは互いの光に触れ合う。
清火――耳元で何度も囁かれる甘い声。吐息がくすぐったかった。
「いけないんだあ」
耳元で囁き返す。
「こんなことしちゃだめなんだよ?」
でも、いっか。
だって。
母親が娘を愛するのは普通のことだもの。
わたしは――愛されているんだから。
「ママ――」
一緒にベッドに倒れ込み、深く、互いの欠片を交換し合う。
窓から射し込む西日が、乱れた服の間から覗く彼女の真っ白な肌を斜陽色に染めた。
愛して。
愛して。
「もっと、わたしを愛して――ママ」
目の前にある綺麗な顔。
世界で一番美しいと思う。
菖蒲色の瞳に映るわたしの顔は、あまり可愛くない。
わたしは女の子。
けれど、弱い女の子のままじゃママを守れない。
だからわたしは強い子になりたかった。
ママを守りたくて。
ママを助けたくて。
でも、誰から?
誰からママを守ろうとしたんだっけ?
そもそも――
ママって誰だっけ?
ああ、全てがぐちゃぐちゃになる。
彼女が叫んでいる。
それはずっと昔からわたしの中にいるのに、どうして姿を見せてくれないのだろう。
――殺セバイイ。
嫌だよ、殺しちゃいけないんだよ。
――嫌イナモノハ全テ、灼キ尽クシテシマエバイイ。
わたしは誰も殺したくなかったよ。
ねえ。
君はどうしてそんなに怒っているの。
どうしてイアカスだけじゃなくて、人間にも殺意を向けるの。
いつも心配なんだよ。
サティやイサナまで、いつかわたしは傷つけちゃうんじゃないかって。
殺しちゃうんじゃないかって。
誰もわたしの傍にいてくれなくなるなんて嫌。
一人は嫌。
独りにしないで。
――あ。
光だ。
綺麗な虹色の光。
わたしが――世界でただ一人、衝動に怯えることなく心を許せる光。
人間でもイアカスでもない貴女に、彼女の敵意が向かうことはないから。
ねえ、愛して。
わたしを愛してよ――イーリス。
もう憶い出せないけれど、ママがくれたかもしれない温もりのように、わたしを愛してよ。
わたしも貴女を愛するから。
絶対に裏切らないから。
絶対に――この鎖を解かないから。
だから、わたしを。
「愛しています、清火」
彼女の腕の中で、わたしは心から安堵する。
ゆらゆらと。
ゆっくりと。
火は、揺らめく。
イーリスと清火の夜の場面は、正直もっとエロく描写しようかとも思ったのですが、R-18回避のためにやめました
でもやっぱり……
なんか足んねえよなあ?
せっかく買った『官能小説用語表現辞典』が今後火を噴くことはあるんですかね……




