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第4部 火の鎖、虹の釼  作者: 沙魚川 出海
火の鎖、虹の釼
3/20

【小海】(前)

小海は脇役の少女ですが、異能力者ばかりの物語には必須の一般人代表です


私はもう5年くらい『沙魚川出海』という筆名(ハンドルネーム?)を使っているのですが、『船渡川小海』は漢字の意味も響きも気に入っています

 海を彷徨う屍体。

 そんな噂を聞いたことがある。学校で、休み時間に友達が話していたのだ。

 なんでも、それまで普通に暮らしていた人が突然苦しみ出して死んでしまうらしい。そしてその屍体は見る見るうちに変わり果て、まるで海や川で溺れ死んだかのように――何日も水に浸かっていたかのように、腐乱してしまうというのだ。一瞬でおぞましい姿になった屍体は、ある目的のために動き出し、それを果たすと海へ向かう。宵闇の波に揺られながら、やがて彼等は――昏い海へと消えてゆく。

 そんな噂だ。

『海を見てはいけない。死者に魂を取られるぞ』――というのも幼い頃から耳にしてはいたが、よくある都市伝説や怪談の類だと思い、歯牙にもかけたことなどなかった。

 ばかばかしいと思う。

 ふざけていると思う。

 それでも――わたしは海へとやってきた。

 噂を信じたわけではない。

 遊びに来たわけでもない。

 ただ――今日が約束の日だったからだ。

「お姉ちゃん……」

 溺れる者は藁をも掴む――でも、もし噂が本当なら、溺れているのはわたしではなくてお姉ちゃんだ。

 だから――助けなきゃ。

 浜辺で一人、海を眺める。

 初めて見る海は、わたしの気持ちを嘲笑うように何度も何度も同じ動きを繰り返し、次第に夕闇へと溶けてゆく。

 お姉ちゃん。海はどこまでも続いていて、とても寂しそうです。ここには何もありません。波の音しか聞こえない同一の世界。こんなにも広くて悲しいところへ、どうして死者達は還ってゆくのでしょう。

 本当なら、今こうして海を眺めるわたしの隣には、お姉ちゃんがいるはずだった。

 一緒に海を見に行こうと約束した、大好きなお姉ちゃんが。

 けれどお姉ちゃんは――三日前に死んでしまった。

 突然のことだった。わたしにも、お母さんにもお父さんにも、お医者さんにも死因はわからなかった。わたしはただただ呆然として、それから泣いた。そして、悲しんでいる間に事態はさらに急変した。お姉ちゃんの遺体がなくなったのだ。いや、そもそもその前におかしなことがあった。病院に運ばれていた亡くなったお姉ちゃんの顔を見たあと、すぐにわたしたち遺族は病室から追い出され、そして遺体を別の機関へ移送すると言い渡されたのだ。そして、お母さんとお父さんが複雑な表情で説明を受けている間――ほんのわずかな隙に、お姉ちゃんの遺体は姿を消した。

 もしかしたら死んだというのは間違いで、お姉ちゃんは生きているのではないだろうか――と考えもしたけれど、わたしは冷たくなったお姉ちゃんの手に触れているのだ。青白くなったお姉ちゃんの顔を見ているのだ。

 お姉ちゃんは――死んだのだ。

 そこからは時間の流れが不鮮明で、気づいたらわたしは海へ向かっていた。電車に乗って、歩いて、約束の場所を目指した。

「お姉ちゃん――今日は約束の日だよ」

 浜辺には誰もいない。初夏の生温い空気が、独り立ち尽くすわたしの肌に張りつく。辺りが薄暗くなってきた。そろそろ家に帰らなくてはならない。

 夜の訪れを知らせるように、遠くでぽつぽつと街灯が点き始めた。頼りない明かりだ。海岸付近に民家は少なく、日中であろうと人通りはほとんどない。

 海に背を向け、足を踏み出そうとした時――

 びちゃっ。

 妙な音がした。

 振り返ると、いつの間にか波打ち際に人影があった。心臓が大きく跳ね、背筋に冷たいものが走る。いつからそこにいたのか、影は宵闇に溶け込み不気味に佇んでいた。

 ずるずる。

 びちゃっ。

 何か――不吉で、不快な気配を漂わせたその影は。

「コ――」

 一歩。

 また一歩

 足を引き摺り、砂浜に頭が触れそうなほど上半身を屈めながら。

「コ、ウ――」

 ゆっくりと、わたしのほうへと歩み寄ってきた。

 硬直して動けなくなってしまったわたしは、それが近づいてくるのをただ見つめていた。何なんだあれは。誰なんだあれは。気味が悪い。気持ち悪い。誰かに悪戯でもされているのだろうか。やっぱり海なんかに一人で来るべきじゃなかったんだ。逃げよう。早くここから離れよう。走れば駅まではすぐ行ける。

 頭の中でぐるぐると言葉が回っていて、あれをしろこれをしろと全身に指示を飛ばしている。けれど頭とは裏腹に、指の一本すら動くことはなかった。

「コ、ウ――ミ」

 そして、目の前に迫ったそれが――顔を上げた。

「え……」

 お姉ちゃんが好きだった。

 優しくて、頭がよくて、綺麗で、大人で、仕事ができて、小さい頃からずっと一緒にいてくれて、ちょっと変わったところはあったけれど、八歳も離れたわたしのわがままにいつもつき合ってくれて。

 お姉ちゃんが好きだった。

 姉妹とは思えないほど美しくて――ずっとわたしの自慢だった顔立ちも、どんな歌手よりも心地よく透き通っていた声音も、すべすべで真っ白な肌も、いつだって柔らかく包み込んでくれた温かな掌も――

 わたしの大好きだったそれら全ては――見る影もなく変わり果てていた。

「コウ、ミ――」

「うわあっ!」

 顔を上げたそれは、確かにお姉ちゃんだった。けれどもうお姉ちゃんではなかった。お姉ちゃんではなくなっていた。

 何も身に纏っていない肢体はどす黒く変色し、肌の表面に鱗のようなものが覆っていた。

 腕に比べ脚が極端に細く、脛の骨が剥き出しになっている。あんなにさらさらだった黒髪は、傷んで乱れてぐちゃぐちゃで――前髪の隙間から濁った瞳が覗いていた。

 喉から発せられる、もはや声とすら呼べない掠れた音は――しかし確かに「小海(こうみ)」とわたしの名を呼んでいた。

 これは――お姉ちゃんだ。

 お姉ちゃんの屍体なんだ。

 お姉ちゃんは緩慢な動きで右手を伸ばし、わたしの首を掴んだ。首筋に伝わる手の感触は、硬く、冷たく、ざらざらとしていて――とても人間のそれではなかった

 首が絞まる。痛い。苦しい。喉から勝手に声が漏れる。

 涙に濡れる視界の中、間近で見る変わり果てたお姉ちゃんの顔は――それでも、やっぱりお姉ちゃんだった。

 ああ、お姉ちゃん。約束、守ってくれたんだね。ありがとう。嬉しいなあ。死ぬのは怖いけれど、お姉ちゃんと一緒なら大丈夫。わたしもお姉ちゃんのこと、大好きだよ。だから――

 目を閉じた、その直後。

「おりゃああああーっ」

 波音を掻き消す大声と共に、突如現れた小さな影がお姉ちゃんを蹴り飛ばした。

「げほっ、ごほっ――あ」

「危ない危ない。大丈夫?」

 立っていたのは黒い髪の男の子だった。十歳くらいだろうか、Tシャツにハーフパンツにビーチサンダルという格好の少年は、あどけない笑みを浮かべながらわたしに声をかけてきた。

「こんな時間に一人で何やってるの? 夜は海に近づくな――って聞いたことない?」

 そっくりそのまま返してやりたい言葉だ。

 誰なんだこの子は。お姉ちゃんを蹴るなんて――

「溺屍体」

「え?」

「あれのことだよ。そう呼ばれてる。あいつらは生前に抱いた感情――例えば殺意だったり憎しみだったり、そういったものが突き抜けてるんだ。一つの方向に突っ走ってるから、もうそれしか見えてない」

 少年はそう言って、倒れたお姉ちゃんにすたすた歩み寄っていった。

「でもこうやって邪魔が入ると――怒る」

 途端、お姉ちゃんが跳ね起きた。奇声を発し、信じられない速さで少年に襲いかかる。わたしは声を上げるどころか驚くことも怖がることもできなかった。

 いつの間にか俯せになっていたお姉ちゃんの背を――少年が踏んでいた。

「人が突然死んで――溺屍体になる可能性は誰にでもある。なりやすい人となりにくい人はいるけどね。運が悪かったよ、この人は」

 少年は手に何かを持っていた。

 あれは――刃物だ。少年はナイフを手にしていた。

 やめて――わたしは咄嗟に叫んでいた。

「お、お姉ちゃんを殺さないで」

「お姉ちゃん? いや殺さないでって、もう死んでるんだよこの人は。ただ衝動で動いてるだけ」

 その時、足音がした。誰かがこちらへ歩いてくる。

「…………!」

 現れたのは美しい女の人だった。辺りが薄暗いため色は判別できないけれど、黒髪でないことだけは確かだ。淡い色の長髪で、すらりとした長い手足。身につけている服は、薄い生地ではあるが何かの制服のように見えた。

 この人――日本人じゃない。

 いや、日本人どころか――

「あれ? サティは? 電話?」

 はいとだけ答えた若い女性は、お姉ちゃんに目を遣って、それからわたしを見た。

「妹なんだってさ、この人の」

 少年の足の下で、お姉ちゃんが手足を暴れさせ抵抗している。けれど細身の少年の力が見かけによらず強いのか、全く抜け出せそうになかった。

「驚かせてしまってごめんなさい。私はイーリスと申します」

 長髪の女性がそう名乗ると、少年が「僕はキヨビ」と続いた。

船渡川(ふなとがわ)小海さんですね。私達はとある事情で、先日病院から失踪したという貴女のお姉様を捜していました」

 わたしを怖がらせないよう気を遣っているのか、優しく語りかけるような口調だった。

「お姉ちゃん――お姉ちゃんは」

「はい」

「もう――死んじゃったの」

「はい。残念ながら」

 でも、あそこにいるのは間違いなくお姉ちゃんだ。お姉ちゃんは約束を守ってくれたのだ。だからわたしは――

「意識を喰われ、命を落とした人――溺屍体となった者は、ある感情に縛られる。多くは負の感情ですが――中にはそうではない場合もあります」

 ――屍体はある目的のために動き出し、それを果たすと海へ向かう。

「愛情です。生前に愛していた者のところへ、彼等は戻るのです。屍体になっても、その想いは消えずに残っています」

 ――宵闇の波に揺られながら、やがて彼等は――昏い海へと消えてゆく。

「ですが悲しいことに、溺屍体にできるのは物を壊したり命を奪ったりすることだけなんです。そして目的を果たした彼等は、海を彷徨い始めます。貴女のお姉さんを溺死させた化物が、海の向こうにある――楽園へと還るためだと言われています」

 神秘的な色をした瞳でまっすぐにわたしを見据えながら、彼女は静かに言う。

「けれど、死者達が本当に帰りたがっているのは、そんな場所ではないと思います。――船渡川さん」

 お姉さんを、お姉さんが愛したご家族の元で、人として弔ってあげてください――

「――――」

 …………。

 ――そう。

 そうだよね。

 お姉ちゃんが還るのは、あの寂しくて冷たい――昏い海じゃない。

 お姉ちゃんが帰る家は、いつだってあの場所――小海の隣だもの。

 涙を拭って、わたしはお姉ちゃんの元へ歩み寄った。

「帰ろう。お姉ちゃん」

小海という名前は今後も別の作品で使うかも

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