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第4部 火の鎖、虹の釼  作者: 沙魚川 出海
火の鎖、虹の釼
15/20

【清火】(五)

うちのシェパードもよく遠吠えします

 暗い、昏い闇の中。

 出口もわからないまま彷徨っているうちに、ポケットからいろんなものが落ちてしまった。

 拾い直そうと来た道を振り返ると、もう足跡は消えていて、自分がどこからやってきたのかもわからない。

 そうやっていつしか、自分が何を探しているのかも忘れてしまった。 

 どこへ行こう。

 足を動かさなければ、闇に囲まれてしまう。

 心を保もたなければ、焔に喰われてしまう。

 いずれわたしも、この闇に溶けて焔に呑まれ、わたしではない何かになってしまうのだろうか。

 それでも――いっか、別に。

 自分が泣くのも哀しむのも、もう嫌だ。

 他人が慟くのも痛がるのも、もう嫌だ。

 もう――疲れたよ。 

 暗い、昏い闇の中。

 諦めかけて伸ばした手に――何かが触れた。



 目を覚ますと、知らない女の人が私の手を握っていた。真っ白な長い髪をしていて、綺麗なリボンタイつきのワンピースを着た女の人だった。わたしの視線に気づくと、女の人は少し驚いたような表情を見せ、それから優しく微笑んだ。その花咲く光の微笑みが女神様のように美しくて――本当に美しくて、わたしは一瞬で心を奪われ見蕩れてしまった。なぜか顔を赤らめながら、女神様はおはようございますと敬語で挨拶した。照れたようなその仕種が可愛らしくて、なんだかわたしはおかしくなってしまった。すぐにお医者さんが飛んできて、ベッドの周りにはたちまち白衣の人だかりができた。女神様はいつの間にかいなくなってしまった。そして、この狭い病室での暮らしが始まった。決まった時間に食事が出てきて、決められた時間に検査を受ける。昼間は若いお姉さんたちと一緒に遊んだり勉強したり、楽しいけれど退屈な日々だ。ある日わたしは、病棟を抜け出して外を探検していた。森の中しか知らないわたしにとって、そこはあまりにも広すぎる世界だった。四角い建物がいっぱい並んでいて、いろんな制服を着た人達が歩いている。思わず見上げてしまうほど大きな建物が集中している場所があって、その建物から出てきた人達の中に、あの女神様がいるのを見つけた。相変わらず美しい女神様は、けれど愁いに翳った表情をしていて、女神様は笑っていたほうが可愛いのになあと思った。それからわたしは、たびたび病室を抜け出し女神様を捜した。女神様はほかの人と一緒にいても、ほとんど口を開かず笑うこともなかった。だからわたしは明くる日、外を歩いていた女神様の背後から近づき、その手を取った。ところが、バカなわたしはなんて話しかけるべきかを全く考えていなかったのである。振り返った女神様は、わたしの顔を見てとても驚いた表情をしていた。わたしも自分の頭の悪さに驚いた。困った。周りにいた人達がじろじろとこっちを見ている。どうしよう。本当にどうしよう。そこで思いついた。まずは挨拶だ。あの時声をかけられても、返事をすることができなかった。だから、挨拶。

「お、おはようございます、イーリスさん」

 残酷にも、時刻はお昼を過ぎていた。

 神様、あんまりです。

「あ、あのっ、あの時返事ができなかったのでっ、あの、そのっ」

 しどろもどろになりながらも、必死に言い訳した。どう見てもただの痛い子供だった。

 けれど女神様は、眩い笑顔をいっぱい咲かせて。

「おはようございます、火宮清火さん」

 わたしの手をそっと握り返してくれた。

 この手だ。

 わたしを――あの暗闇から引っ張り上げてくれた温もりは。

 その時から、形のなかった女神は光に満ちた菖蒲の花を咲かせ、わたしの大切な人になった。



 前へ進むことも、後へ戻ることも許されない。

 もう歩けない。

 もう動けない。

 わたしは、そんなに悪い子だったかな。

 善い子でいようと頑張ったけれど、結局――誰も私を見てくれていなかったんだ。

 ママがくれた温もりは、嘘だったのかな。

 ママがいたから、わたしは頑張れたのに。痛くても怖くても耐えられたのに。

 ママがいたから、わたしは強くなろうと思ったのに――

 弱い子のままじゃ、ママを守れない。

 だからわたしは、大切な人を守れる強さがほしかった。

 あの時、そう思ったから、わたしは……。

 涙が零れた。泣くのなんていつ以来だろう。ずっと泣かずにいられたのは、あの人がいてくれたから。あの人が抱き締めてくれたから。嬉しい時も、哀しい時も、楽しい時も、寂しい時も、どんな時も傍にいてくれたあの人は。

 もう、いない。

「イーリス――」

 貴女のおかげで、わたしの弱い心は焔に呑まれずに済みました。

 今日までわたしが生きてこられたのは、全て、全て貴女のおかげです。

 ありがとう。

 もうすぐ、逢いに行くから。

 涙が一粒、

 床に落ちて、

 ――そして。

 遥か深淵から天を衝くような、長い長い獣の遠吠えが――山を、空を、建物を揺らし、わたしの胸を震わせた。

犬が遠吠えしている姿はかっこいい

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