【イーリス】(五)
U・ω・U わんわん
風の音と波の音。
微睡みの中、快い刺激が耳をくすぐった。
目を開けると、そこは色のある世界の、海岸だった。
今にも雨が降ってきそうな曇り空が、どこまでも広がっている。
私はいったい――
「やっと起きたか」
驚いて声のしたほうを見ると、さらに驚く光景を目の当たりにすることとなった。
犬。
犬である。
大きな黒い犬である。
私は周囲を見渡した。だが、川と山があるだけで何もないところだった。当然、人の姿など見当たらない。変わったものといえば、足下に落ちている抜き身の剣だけだ。
「何をしている。俺だ、話しかけたのは」
「い、犬がしゃべ……ッ!?」
海辺に座っていた犬が、低く、芯の通った日本語で――どういうわけか喋っていた。なんだこれは。そもそも私はなぜここにいるのだ。あの黒衣の男に敗れ、死んだはずではなかったのか。
妙な夢を見た気がする。
そうか、これもその夢の延長……?
「犬が喋っちゃ悪いのか? どいつもこいつも同じ反応で飽きてくるな」
「い、いえ……。そういうわけでは」
体高は六〇センチメートル強、といったところだろうか。体毛はブラック・アンド・タン――黒地に黄褐色の小斑というカラーリングで、ドイッチェ・シェーファーフントに似た外見をしていた。引き締まった筋肉質の体に鋭い眼光、精悍な顔つきからは気品が漂っている――のだが、左耳が垂れているためかどこか愛くるしさがあった。
「あの――私はいったい」
「お前はあの七政の男に殺され、崖から川に落ちた。流されていたから、俺が拾った」
「そうなんですか……。ありがとうございました」
すぐに、今の言葉のおかしな点に気づいた。
あの七政の男に殺され……?
やはり私は死んだのか。
では、今の私はなんだ?
自分の体を見下ろすと、見たことのない服を着ていた。乳白色のシフォンに、鮮やかな菖蒲色の文目。袖のない、ギリシャ神話の女神が召していそうなマキシドレスを身につけていた。おまけに、ワークブーツではなく控えめな装飾つきのサンダルに新調されている。
「こ、これは……」
「それはあの女の趣味だ」
あの女?
自分の身に何が起きたのか理解できない。胸に手をやると、貫かれたはずの穴はなく、心臓の鼓動も感じられた。
「言っておくが――俺はお前を助けたわけじゃない。見極める必要があったからだ。半端な存在であるお前が――イアカスどもと戦うに足る神格を持つかどうか。そうでなければ、一度殺した奴をわざわざ甦らせたりしない」
鋭い眼光で、彼が私を睨む。その目つきには見覚えがあった。
そうか、この犬は――
「貴方は、あの夜、私を殺した――」
「ふん、憶い出したか。もっとも、あの時噛み殺したのはお前ではなく、七政の一人――皓月のゼフテラだったがな」
「貴方だったんですね――彼女を殺したのは」
胸の中でもやもやとしていたものが吹っきれた。夢に出てくる彼女と戦い、喉笛に食らいついた黒い影の正体はこの犬だったのだ。
「俺を恨むか?」
「いえ。むしろ感謝しています――あの子と廻り逢わせてくれたことを」
「ふん」
そう――四年前、任務で瀕死の重傷を負い気を失った私を目覚めさせ、あの森へ導いたのもこの犬だ。つまり清火と出逢えたのも――彼のおかげ。
「勘違いするな。俺の狙いはお前ではなくあのガキのほうだ。あいつは純粋な人間――あのガキの高い神性は役に立つ。ちょうどあの森の近くにいたのがお前だった、それだけだ」
彼が目つきをさらに厳しくした。
「いいか虹の娘。俺の目的はただ一つ――デメテルを殺し、イアカスを根絶やしにすることだけだ。本来ならすぐにでもお前を噛み殺してやりたいところだが、その欠片に最も適合するのがお前しかいないというのも事実。だから生かしているだけだ。変な真似をしたら即殺すぞ」
「は、はい」
「そもそも、俺はお前の存在を認めたわけではない。確かにお前のその体――イアカスが持つ神性は人間とは比べものにならない。デメテルから与えられた実体を備えているからな。だがそれでも、純粋ではない以上必ず歪みが生まれるのだ。神性の低い人間が旧い神のカルディアを積むと拒絶反応を起こして死ぬのは知っているな? だがあのガキのように、高い神性を帯びた人間がカルディアを積みシンクロすれば、その効果はお前の――イアカスの比ではない。だからこそ必要なのはお前ではなくあのガキのほうなのだ」
息つく間もなく捲し立てられ、私は首を縦に振るしかなかった。随分饒舌な犬だと思った。犬が喋ること自体おかしいのだが。
「お前の組織も同じことを考えているんじゃないのか? 奴等も、人間の手で神を殺そうとしているだろう。だからお前をただの道具としてしか見ていない。所詮お前はニンゲンにもイアカスにもなれない半端者なのだ――」
俺と同じようにな――という呟きが、なんだか寂しげに聞こえた。
そうだ。なぜ今まで考えつかなかったのか。犬が喋るという事態に直面し、冷静さを欠いていた。
この犬も――私と同じように、カルディアをその身に宿しているのだ。
「貴方は――それでもイアカスと戦うのでしょう? 半端だとしても、人間に与して」
「当たり前だ。だが俺は人間なんかのために戦っているわけじゃない、約束のために戦っているんだ――相棒との約束を果たすために」
そう言って、彼は山のほうへと歩き始める。
「もういいだろう。行くぞ。のんびりしていたら面倒なことになるかもしれないからな」
私はゆっくり――けれど力強く頷き、再び剣を取る。
「最後にもう一つだけ。いったいどうやって私を甦らせたのですか」
私の問いに、彼は溜め息のようなものを吐いた。犬も溜め息を吐くのかと感心した。
「あの女から渡された欠片をお前に与えた――が、今のお前の神格では、どうせあの女を視ることも、あの女に触れることもできん」
「あの女、とは……?」
「お前の――そうだな、もう一人の母親と言ったところか、虹の娘。デメテルではないほうのな。もうこの世界に旧き神はいないが――あいつは特別らしい。虹霓神は橋を架け、伝令のために天と地を行ったり来たりしていたというが、要はただの使い走りだろう」
すたすたと振り向きもせず歩き出す黒い背に、私はもう一度問いを投げかけた。
「あ、忘れていました。お名前はなんというのでしょうか」
彼は足を止め、顔だけをこちらに向け言い放った。
「フライハイトだ。フライと呼べ」
口を開けて舌を覗かせたその顔は、犬に笑顔というものがあるのなら、まさにそれなのかもしれなかった。
やっぱりシェパードがナンバーワン!




