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Poison dOPE

作者: 片桐乃亞

   序:夢の掟 ―ゆめのおきて―


平和な国、日本。戦争の放棄を憲法に記し、再び過去の過ちを繰り返さんとする為、日本は武器を手に取る事を止めた。しかし他国からは「より早く世界に平和をもたらすには戦うことも必要だ」と迫られ、一方では日本の技術力を軍事利用したいと言う声も多く聞かれ、国の立場は幾度と揺らぎかけた。 それでも、日本は戦争に加担するなどという事はしないはずだった。



   一:善の咎 ―ぜんのとが―


 窓一つ無い真っ白な広い部屋。十ほど置かれたベッドと、その脇に見えない何処かまで続く大きなダストシュート。壁沿いの棚に並ぶ小瓶。何かが時間を刻む音。

部屋の一番隅のベッドを挟むように二人の白衣の男が佇み、ベッドに横たわる青年に目を落としている。

「うぅ……お前ら…………正気か……」

 ベッドの上のからの声を聞いても、二人は石のように動かない。

「……こんな事をして…………こんな……」

 それだけ言い残して事切れると、二人はようやく動き出した。一人は空いたベッドにうつ伏せに寝転び、もう一人はそれを静かに見守っている。

「あーもうまたかー……。全然ダメだな……。何がいけないんだろ」

 ベッドに転がった研究員―――シンは枕に顔をうずめる。

「……よく死人が寝てたベッドに寝転べるよね……。ねぇ、僕たちのやってることってやっぱり……」

 もう一人の白衣の男―――トキの言葉を聞いてシンがむくりと起き上がる。

「何度も言ってるだろ。あれは検体であって人間じゃない。この研究所に来た人間は、黙って研究を続けるかもしくはあっち側になるかだ。お前もあんな風になりたいわけ?」

シンはさっきまで見ていた隣のベッドを指差す。それと同時にダストシュートの蓋が開き、ベッドが傾いて青年が吸い込まれていった。

「それは……」

 トキは言い返せない。ここに来たときはそれなりの覚悟をしていたはずだったのに、今となってはまるで考えが足りなかった事を痛感していた。

 重い空気の漂う中、それを破るように女が明るく部屋に入って来た。

「よっ! 進み具合はどう?」

 片手に淹れたてのコーヒーを持ち、長い茶髪をなびかせている。隣の研究室のキカだ。

「お前か……何の用だよ」

 シンはキカを面倒臭そうに見る。自分の研究の調子がいいと上機嫌でやってくるからだ。

「用なんてないわ。ただ頑張ってるかなーと思って」

「優越感に浸りたいだけなら余所でやれ」

 キカへ即座に言い返し、棚に置いてあるパソコンを持ってきてベッドに腰掛け開く。画面にはさっきの青年に投薬した際の反応データが並ぶ。

「……結構頑張ってるんだけどね。昔よりずいぶん生き長らえるようになってきたんだよ。そっちは上手くいってるみたいだね」

 トキは少し笑ってキカに言った。キカは表情から苦労の一端を感じ、シンに軽くあしらわれた怒りが少し消える。

「うん、こっちは順調。予測には十分なデータが集まったわ。あとはこれからこの世界がどう動いていくか……」

 じゃあねとヒラヒラ手を振りながら、キカはコーヒーとバラの香りを残し去っていった。

「香水使いすぎなんだよ。まったく……」

 シンは画面を睨んだまま愚痴をこぼす。

「いいんじゃないの香水くらい。ここではほとんど自由に出来る事なんてないんだから。ここだけ独立した、違う国みたいだよね……」


 そう。ここは日本であって日本ではない。


ここは東京都内某所の地下深くに造られた、国家運営の研究所である。

超法規的なこの施設では日本の頭脳の粋を集め、秘密裡に軍事関連の研究を行っている。研究に従事する人たちは破格の報酬を与えられ、その代わりにこの施設に関する全ての行動・言動が管理されていた。

武器の開発、有事の際の情報収集手段や防衛作戦の立案など、研究対象は幅広い。では何故、国はこのようなことを行っているのか。それは自国で使うためではなく、他国に輸出し利益を得るためである。

不景気に歯止めを掛けたい日本政府は躍起になって〝埋蔵金〝を探していた。借金は膨らむ一方で、これから改善される展望も無い。国力もこれから大幅に伸びるとは考えにくい。そこで白羽の矢が立ったのが軍事開発であった。今まで避けてきたいわば〝パンドラの匣〝を開いたのだ。ただ企業を巻き込む訳にはいかないため、優秀な研究者を高額で引き抜き、この地下施設でひっそりと研究させているのである。

シンとトキもこの施設に招かれた研究者だった。生物学を研究する二人に与えられた課題は〝人間兵器の製造〝というものだ。武器と違い人間自体に特異な能力を持たせれば、法律に抵触することなく容易に輸出が出来る。ではどのように人間の能力を高めていくのか。

近年、毒に侵され血清治療を施した患者の身体能力や学力が向上したりする傾向がある事が分かってきた。生き残った抗原が変質し影響を及ぼしているのか、それとも体内に毒素が残り作用しているのか……。その原因を究明し健康な人間にそのメカニズムを応用することで、人間の能力を大きく伸ばし〝武器〝として輸出しようというのだ。

より良いデータを収集するため、実験台として身寄りの無い死刑及び無期刑に相当する受刑者が使われている。犯罪者の増加による刑務所の不足と戦争への協力、更にある程度国の収入源にもなっているなど、たとえ不法でも非倫理的でもメリットの多い研究であった。


「ねぇ、もっと弱い薬からやってみようよ。このままじゃみんなどんどん死んでいくばっかりだよ」

 トキはもう目の前で人間が死んでいくのはうんざりだった。何より死ぬ間際の視線が怖かった。そしてもう一つ、シンがどれほどの叫びを聞き、死に立ち会っても顔色一つ変えないのも怖かった。

「何言ってんだよ。弱い薬なら俺らでも試しただろ? お前なんかやっと人並みの能力になったぐらいだった。そんなんじゃいつまで経っても戦場で役に立つ程のものは出来ないよ。それに他の所と比べて開発遅れてるし」

「……そうだね……」

二人も数年前、自らに死なないと思われる程度の量の薬を注射してみたところ、僅かながら筋力の増強が発現した。しかし兵器としてはあまりに微力過ぎたため、薬を増やし検体に与えてみたところ、大きな能力の向上が見えたものの一時間足らずで心停止してしまった。それ以来二人は〝実用的な能力を発現させる事〝と〝人体や神経が堪え得る事〝を兼ね備えた薬作りに奮闘しているのだ。シンはこの薬をPd(ポイズンドープ)と名付け、必ず完成させて世界に自分を売り込んでやると意気込んでいる。

「……分かってる。お前は俺と違って優しいからな。俺の頭が足りないせいで……」

 シンがぼそりと言う。せっせと乱れたベッドを直すトキには聞こえなかったようだ。

 

カタカタ……

 

「ん、地震か?」

 そう言うと同時にシンはパソコンを閉じた。Pdの入った棚の小瓶が小刻みに震える。トキは思わずベッドの脇で身をすくめた。

 そのうち震動は大きな衝撃へと変わっていった。ドーンという鈍い音が床下から繰り返し聞こえてくる。

「ダストシュートの中で何か起きてるのかな……」

「よし、じゃあ覗いてみるか」

 シンのあまりにあっさりした決断に、トキはすかさず止めに入る。

「何言ってんの! 危ないよ! 今までこんなこと無かったし」

「このままじゃうるさくて仕事にならないだろうが。まったく臆病なんだから。見るだけだよ、見るだけ」

 不安そうに見つめるトキを制し、シンはダストシュートの蓋の一つを開けようとした。

 その瞬間。


「許さねぇええぇ!」


 そう叫びながら蓋をぶち破り、何かが姿を現した。

 十メートル以上の深さがあるダストシュートから現れたそれの正体は、さっき地下へと呑み込まれていった青年その人であった。

「お前か! よくも仲間をっ!」

シンは青年に殴り飛ばされる。Pdで強化された身体も役に立たず、為す術も無く壁に叩きつけられ気を失った。

「まだだ……。まだいるんだろ! 出てきやがれ!」

青年は二人の研究室から飛び出し、騒ぎに集まってきていた他の研究室の研究者を襲い始めた。トキはベッドの陰になり、青年の視界に入らなかったようだ。青年が遠ざかったのを確認してシンに駆け寄る。

「シン! 大丈夫? 今救護の人を……」

 トキの呼びかけに意識は戻るも起き上がれず、うっすら目を開けただけだった。

「……何言ってんだ。今のを早く追いかけろ」

「え……。でも……」

 瀕死のシンを置いていく事など、トキには出来ない。

「早くしろ……! あれは、俺たちが待ちに待った完成品だろ……」

 シンが語気を強める。研究室の外からは誰かの悲鳴や非常事態を知らせるサイレンが絶え間なく響いている。

「分かった……」

 トキは立ち上がり、さっきの青年を追いかける事にした。研究室を出ると正面から左側に向けて人が倒れ、青年が行った方向がすぐにわかった。倒れた人たちを見ながら、自分もこうなるのではという恐怖を押し殺して足を進めていく。

 普段行かないような研究所の奥から、微かに何かを叩くような音が聞こえる。さっき研究室の床下から聞こえた音に似て、足がすくむ。それでもトキはシンの言葉を思い出し、音へと近づいていく。

「くっそ、何だこれは!」

 青年のものらしき声が何処かの研究室からはっきり聞こえた。激しく何かを叩き、激昂しているようだ。トキは急いで研究室を探し回る。

そしてある研究室で、防衛システムに囚われた青年を発見した。

「お前は……。ここの奴だな。まだ生きてるのがいたのか」

 透明な防壁が出入り口を塞ぎ、青年は研究室から出られなくなっていた。人間の力では傷も付かないはずの防壁には数多の傷と凹みがあり、肉体の強化には成功したらしい事がわかった。

「早くここから出せ」

 青年がトキを睨みつける。しかしトキは目の前の彼に恐れる事は無かった。むしろ彼のその姿を見て、自身が行っていた事に恐れを抱いた。

 やっぱり自分がしていた事はとんでもない事だったんじゃないのか。たとえ相手が罪人だったとしても、国の利益になるのだとしても……。彼は〝検体〝じゃない。紛れも無く自分と同じ〝人間〝だ。

「おい、聞いてるのか。早くここから出せ。仲間の仇……それに俺の身体をいじりやがって。生かしておかねぇからな!」

 青年は再び防壁を殴り始める。ひびが入り始め、壊れるのはもう時間の問題だ。

 このままではいずれ青年は出てきて自分は殺される……。そう思ったトキはなんとか興奮状態の青年を落ち着かせようと、とりあえず声を掛けた。

「……君はどんな罪を犯してここに来たの?」

 青年の動きがピタリと止まる。

「罪? 何の事だよ。罪なのはお前らの方だろ」

 全くその通りだと、逆にトキは納得させられてしまった。しかし自分の犯した罪も覚えてないなんて、相当悪い奴だったようだ。

「君は何かしら大きな罪を犯して、だからここに連れて来られたんだろう?」

「は? 俺は普通に毎日過ごしてただけだ。それより俺らを連れ去ってるお前らは政府側か? それとも反政府側か? 答えろ!」

 トキには青年の言葉の意味が分からなかった。反政府なんて単語、まるで内紛でも起きているかのような言い方だ。他も全体的に話が噛み合っていない気がする。

「ま、待って。連れ去ってるってどういう事? それに普通に過ごしてたって、君は罪を犯していないの?」

「……なんか全然通じねぇな……。左腕見せてくれよ」

 青年に言われ、トキは白衣の袖をまくり始めた。左の二の腕は検体となった人間が検体識別コードを入れられる場所だ。もちろんトキはそこに何も刻まれてはいない。

 何も書かれていないトキの腕を見て、青年の表情は一変した。

「お前……。誰だ……。俺の国の人間じゃない……?」

 まくった袖を戻しながらトキは青年に聞いた。

「俺の国って……。君は何処の国の人なの……?」

「……俺は……。コロニークルトの出身だ」

 そんな国は地球上に無かったはずだ。しかしコロニークルトという名前には聞き覚えがあった。

確か他の研究室で疑似社会を作る実験をしていて、その国の名前が〝培養する〝という意味の〝culture〝の単語を縮めてクルトと呼んでいた。培養というのは、社会を形成するには罪人だけでは足りないから、罪人にたくさん子供を作らせていたとか……。

彼はそこから来たというのか? 疑似社会とこの世界との交流は認められていないはずだが。

まさか、僕たちは彼らを……?

いや。でも、僕たちは研究を進めながら悪人を裁いていたはずでは……。

「俺の国は今、泥沼の内戦状態にある」

 黙ったままのトキに、青年は暗い面持ちで話し始めた。

「昔は平和だったんだ。クルトは総帥と呼ばれる人の独裁国家だけど、みんなそれなりに幸せだった。でも政府に反抗する勢力が徐々に出てきて、国に不穏な空気が流れ始めた。その頃からだ。人が消え始めたのは」

 青年の話を一言も聞き漏らすまいと、トキは熱心に聞いている。

「不定期に政府の発表があって、十人分の個人識別番号が発表された。生まれた時に左腕に刻まれるやつだ。そうして集められた奴らは何処かへ連れて行かれ、二度と戻っては来なかった」

 トキは考える。

十人なのは、研究室のベッドが十床しかないから。

 不定期だったのは、実験の結果に個体差があったから。

 誰も帰ってこなかったのは、僕たちが……。

「一体どこへ行ってしまうのか。誰がこんな事をしているのか。政府が番号を発表しているのに、政府は自分たちが行っているのではない、反政府勢力が政府を貶めるための策略だと言った。反政府勢力は政府が自らを叩き潰すためだと声を荒げた。そしてお互いに何の根拠も無いまま、内戦に突入した訳だ」

 青年はそこまで言うと、うつむくトキを睨み付けた。

「政府側も反政府側も、この失踪騒ぎを起こした証拠は何もない。だから俺は中立軍で双方の内情を調べてたんだが、あんたらが黒幕だったとはな」

 トキはその場にへたり込んだ。僕たちはなんて事をしてきたんだ。しかも自分は国の為だと、正義だと思ってやっていたなんて。

「僕たちは……。人間を実験体として人間兵器を造ろうとしていました。実験体となる人間は、僕の国の罪人を使っていると、そう聞かされていて……」

 今にも泣き出しそうなトキの顔を見て、青年は事の異様さを改めて感じていた。自分の国を他の世界の人間が利用していたなど、にわかに信じられる話ではないが、研究者の腕に番号が無い事などからすると本当なのだろう。他には確かめる術もない。青年は感情に任せて他の研究者を殺してしまったことを悔いた。

「お前は何も知らなかったのか?」

 トキは黙ってうなずく。自分の所業を思うと、青年の顔はもう見れなかった。

 青年は防壁に渾身の一撃を放つ。防壁は耐えられずに粉々に砕けた。

「ったく。やっと壊れたぜ。じゃあ俺の身体を元に戻してもらおうか」

 青年はトキの胸倉を掴みむりやり立たせる。トキは魂の抜けたような顔をしていた。

「……出来ません……」

「は?」

「ごめんなさい! 元に戻すことは出来ないんです。まだどうしてそんな力が発現するのかも分かっていなくて……」

 トキは咄嗟に土下座した。もうこのまま殺されてもいい。むしろ楽にしてほしいとも思っていた。

「なんだと? じゃあさっきの奴なら出来るのか? お前も来い!」

 青年はトキの襟を掴み、シンのいる研究室へと戻っていく。もちろん、シンにも元に戻すことは出来

ない。これから一体どうなるのか。トキはただ恐れるばかりだった。

 二人はシンとトキの研究室に戻ってきた。シンに促され部屋を出た時と何も変わっていない。シンが横たわる場所もそのままだ。

「シン! 大丈夫?」

 トキは青年の手を振り解きシンに駆け寄る。触れたその身体に、温もりは無い。

 声を押し殺して泣くトキの姿を、青年はベッドに腰掛け静かに見ていた。自分の世界で、関係の無い一般市民が内戦に巻き込まれる事を一番憎んでいた。家族を失い悲しむ仲間を何人も見てきた。シンの姿がそれを思い出させていた。

「……悪かった。何も考えずに」

 青年の言葉に、トキは抱き上げていたシンの身体を置く。

「……君は……。きっと悪くない……。道理を外れた事をしていたのは、明らかに僕たちだ……」

 もっと自分に、シンを止める勇気があったなら。不安をそのまま打ち明ける勇気があったなら。こんな事にはならなかった。トキは深く後悔していた。シンだって死なずに済んだはずだ。

「そもそも、なんでこんな事をしてるんだ? 人間を薬で強化して兵器にするなんて、普通に考えたらどうかしてるだろ」

 青年は研究室の棚にずらりと並ぶ小瓶を眺めながら聞いた。

「そうだね……。僕は普通じゃなかった。今は分かる……。もう遅すぎるけど」

 トキはゆっくり立ち上がり、青年と向かい合うようにベッドに腰掛ける。

「人間を兵器化して国外に輸出し、大きな利益を得る……。そういうことだったらしいんだ。人間を検体にしてはいるけど、彼らはみんな重罪人だから大丈夫。もう絞首刑になる奴らを使っているだけだと」

「後ろめたさを感じさせない為に正義感を煽ってた訳だ。とんでもねぇなお前の国は」

 青年の言葉に、トキは何も言えない。

「そっちのお偉いさんには悪いが、俺は自分の国に帰るぜ。他の国に構ってる暇は無いんだ。それと」

 青年がトキの腕を掴み立ち上がる。

「頼みがある」

 そのままむりやり手を引き、研究室の奥にある扉へ向かっていく。この研究室には二つの扉がある。研究室へ出入りする扉と、もう一つは検体が送られてくる扉。つまりクルトと繋がる扉である。その厳重な扉を青年は素手で壊し、内扉も鍵を壊して進んでいく。

トキはまだ何も言えずにいた。頼みとは一体何だろう。何故彼は私を連れていこうとしているのか。向こうの世界で諸悪の根源として殺されるのだろうか。

「あの……。一体何を……」

「いいから黙って来い」

 やっと言えた一言も瞬時に制され、再び沈黙へ戻った。青年はやっと三枚目の分厚い鉄扉を開け、迷うことなく中へ入って行く。トキはここへ入るのは初めてだった。検体を補充するときには、他の部署の研究者が研究室まで連れてきてくれていたからだ。

 扉の向こうは、不思議な光景だった。鍾乳洞のようにどこまでも滑らかな岩肌が続き、その隙間に細い階段が下へと伸びている。ぶら下がった裸電球はかろうじて階段を浮かび上がらせる程度の光だ。極度に湿った空気は階段や手すりに水滴を生じさせていた。

「手離してくれる……? もう逃げないから。それに降りにくいでしょ」

 腕を掴んだまま階段を降りようとする青年に、トキは恐る恐る声を掛けた。思っていたより声が響き、ちゃんと伝わったかどうか不安になった。

「……わかった。ちゃんとついてこいよ」

 トキは大きくうなずく。青年が離した腕には、手の跡がくっきり残っていた。

 階段を降りるカンカンという音だけが響く。しばらくすると電球よりはるかに強い明かりが見えた。エレベーターだ。

「これは……」

「ほら、いいから乗んな」

 青年に催促され急いで乗り込む。ボタンには上とも下とも何も書かれていない。中にはボタンも現在の階数を表示するパネルも無い。トキは行き先のわからないエレベーターに言いようの無い恐怖を感じていた。

「だいぶ来たからもうすぐだな」

 青年が独り言のように呟く。動き出したエレベーターはどうやら下へと向かっているようだ。元々研究所は地下にあり、階段で更に地下へ来て、またエレベーターで地下へと潜っている。一体どこまで続くのか、トキには見当も付かなかった。

 ワイヤーの軋む音が聞こえ、エレベーターが速度を下げていく。止まって扉が開いたその場所は、無人のオフィスのような場所だった。

「ここからはクルトだ。気を付けろよ」

 この部屋に窓は一つも無く、外の様子を知ることは出来ない。青年は外を窺いながらゆっくりと外へ出る。トキもそっと外へ出た。

 外は暗いが、さっきまで歩いてきた道よりはずっと明るかった。そして目を凝らすと、地下とは思えないほどの森が広がっていた。

「なんだこれ……。なんでこんな地下深くに森が……」

「毎日何時間か赤い光みたいなものが照射されるからそれで育ってるんだ。今は〝夜〝みたいだから真っ暗だけどな」

 夢を見ているようだった。こんなものを造っていたなんて。ここが東京のとある公園だと言われても疑わないだろう。トキは〝空〝を見上げた。雲一つない代わりに、月も星も浮かんではいない。ただどこまでも暗く、黒いばかりだ。

「行くぞ。ここも安全じゃないからな」

 それだけ言うと、青年は周りを警戒しながらも森を迷わず突き進んでいく。木々のざわめきが二人の気配をかき消す。立ち止まってしまえばそのまま闇に溶け込みそうだ。

「ここからなら良く見える。俺らの街だ」

 森は突然開け、見晴らしの良い丘のような場所へ出た。そこから見えたのは、無数の明かりが浮かんだ都会の景色だった。



   二:現の街 ―うつつのまち―


「……まるで東京だ……。こんな景色が地下に……」

「ここがクルトだ。知らなかったか? お前らの仲間がここを造ってたんだろ?」

 吐き捨てるようにそれだけ言うと、青年は街に向かって丘を下り始めた。

「待って! どこへ行くの? 頼みって何なの……?」

 トキは耐えられず声を掛けた。頼みがあると言われてここまで付いては来たが、青年が言う気配は一向に無かったからだ。

「言ったろ、ここはまだ安全じゃない。こうやって無防備な状態で外を歩くことすら、今は危険な状況なんだ。俺の仲間のアジトがあるから、そこに着いたら全部話すよ」

 青年は振り向きもせずにそう答えた。トキが再び街の景色に目を凝らすと、確かに街には何かが動いている気配は無かった。煌めく光も街灯ばかりで、ビルやマンションにはほとんど明かりが灯っていない。街に近づくにつれてその奇妙な雰囲気は、よりはっきり感じられるようになっていた。

「着いたぞ、ここだ」

 青年はあるマンションの前で立ち止まった。

「またここに戻って来られるとは、思ってなかったよ」

 ぼそりとそれだけ呟いて、ゆっくりと中へ入っていく。二人を出迎えたのは、ただ人が住む場所には不相応な鉄の扉だった。

青年は扉の脇にある装置に人差し指を押し当てる。するとしばらくして、鈍い音をたてながらゆっくりと扉が開いた。

「随分厳重なんだね……」

「ここじゃ、これくらいは当たり前だよ。これくらいしなきゃ身を守れないからな」

 扉を通り抜けると、開けた時と同じ手順で扉を閉める。そしてエレベーターも指紋認証で動かし上へと昇る。トキはあまりの厳重さに驚いていた。国家機密であった自分たちの研究所でさえ専用パスとタイムカードだけだったというのに。それは同時にこの街の危険さも物語っているのだろう。

 このエレベーターにも階数表示は無く、しばらくするとある階で停止した。その階に降り立つと、正面に一つだけ扉が現れた。

「ここに俺の仲間がいる」

 青年は扉に付いている二つの画面の片方に右手を当てた。すると画面の下のスピーカーから雑音が流れ、続いて人の声がした。

『……誰だ』

「俺だよ、クウヤだ」

 男の声がした。何も映っていない画面に向かって青年――クウヤそれに返答する。

「クウヤ……」

 そう言えば、トキは青年の名前を初めて聞いた。

「あぁ、名前言ってなかったな。俺はクウヤって言うんだ。お前は?」

「ぼ、僕はトキ……」

『残念だな。クウヤは死んだ。お前は誰だ。何故クウヤを騙る?』

 遅すぎた自己紹介は画面からの声で遮られた。

「ところが生きて帰って来たんだ。しかも真実を引っ提げてな。まぁ信じられないかもしれないが……」

『信じられんな。一度連れて行かれた者が生きて帰ってきたなど』

 スピーカーから突き離すように鋭い声が聞こえた。クウヤはポリポリと頭を掻く。

『帰ってくれ。もう話は……』

「お前、マイトだろ?」

『…………』

 クウヤの指摘に、スピーカーからの声が途切れる。

「ちゃんと覚えてるよ。その用心深さがここを守ってるってことも。アコとリンは元気か?」

『……帰って来たの……?』

 スピーカーから微かに、まだ幼さの残る女性の声が聞こえた。そしてさっきの男と何か言い争うような会話が聞こえた後、画面に女性の顔が映し出された。

『兄さん! 本当に……。本当に帰って来たのね! 今開けるわ!』

 涙ぐみながらもその顔は安堵に満ち溢れていた。クウヤはそれに笑顔で返したが、トキには直視する事が出来なかった。

 ゆっくりと扉が開き、部屋の中へと入る。中はごく普通の家のような雰囲気で、内紛の為ある一派がアジトにしているなどとは到底思えなかった。リビングのようなところに行くと、そこにいたのは女性が二人だけだった。

「兄さん! 会いたかった……」

 女性がクウヤを見るや否や跳び付いた。一つにまとめた長い髪が大きく揺れる。

「待てリン、離れろ」

 スピーカーから聞こえたマイトという男の声だ。トキは何処にいるのか部屋を見回そうとした。するとどこからか、トキの首元にナイフが突き付けられた。

「クウヤ、この男は誰だ。お前は何のために戻ってきた?」

 マイトは扉のすぐ横で入って来るのを待ち構えていたようだった。トキは突然の事に声も出ず、ただ固まってしまった。

「おいおい、言っただろ? 真実を持ってきたって」

 クウヤは呆れ顔でマイトの腕を掴み、ナイフを下げさせる。しかしマイトは、手からナイフを離そうとはしない。

「わかってるよ、疑ってるんだろ? でもこれを見てくれよ。俺の話、少しは聞く気になるかも知れないぜ」

 そう言うとクウヤはトキの左腕を掴み、袖を一気に捲り上げた。色白の何も書かれていない素肌が現れる。

「……これは……」

 部屋の空気が変わった事は、トキにもわかった。腕に番号が刻まれていない事が、この国ではよほど奇妙な事らしい。

 クウヤは部屋の全員にトキの腕を見せつけると、訴えかけるように話し始めた。

「こんな事があるんだ。俺が帰ってきた理由も、そもそも人が次々に失踪している理由も、全部こいつの仲間がやったせいなんだ」

「おいクウヤ、こいつは何者なんだ。番号を刻まない事を元帥が許すはず無いだろ。元帥の手先なのか?」

 マイトがクウヤを強く問い質す。しかしクウヤは顔色一つ変えずにこう返した。

「今から全部話す。こいつの事も、この国の本当の姿も」

 そしてクウヤは何もかもを皆に伝え始めた。

 この地下の国、クルトの他に、地上の国がある事。そしてクルトは、地上の国の人間たちに人為的に造られた国だという事。地上の人間たちはクルトの人間を資源として利用するため培養し、搾取していた事。利用される為だけに生み出されたクルトの人間には、管理するための番号が腕に刻まれる事……。

 トキは耳を塞ぎたくなるのを我慢して、心に刻み付けるように聞いていた。強く非難される事も覚悟していた。もちろん、殺される事も。

「じゃあ、こいつが全て……。政府側からも反政府側からも、何も証拠が出てこない訳だ」

 マイトの言葉に全員が落胆の表情を見せる。しかしトキだけは、何故自分が咎められないのか疑問だった。

「あの……。私を殺しはしないんですか……?」

 トキは皆の気に障らないようにとそっと呟く。すると、眼鏡をかけた短髪の女性が口を開いた。確かクウヤがアコと呼んでいた人だ。

「……もう遅すぎる。ここまで内紛が大規模になってしまっては〝真実〝なんて何の意味も持たない。争い続ける彼らが求めているのは、自分たちこそが正しいと正当化するための勝利だけよ」

 部屋に重い空気が流れる。もうこの国は理屈では止められないほどに歪んでしまっていると、ここでは誰もが承知しているようだった。

「で、そいつを連れてきたのは何でだ。お前だってこんな人一人で解決するとは思ってないだろう?」

 マイトがトキを睨み付けながらクウヤに聞いた。手にはまだナイフが握られている。

「こいつはこの国の人間を使って肉体改造の実験をしていた。薬で瞬時に力を高める事が出来る。俺も連れて行かれてその実験を受けた。見ろ」

 クウヤは部屋の隅に置いてあったソファーに手を掛け、片手で持ち上げて見せた。三人からは感嘆の声が漏れる。

「俺はこの力をみんなにも使おうと思って連れてきた。個々の力が強くなれば、人数が劣っていてもそれなりに安全に活動できるだろう」

「信用出来るのか……? お前の話じゃ、こいつが俺らの仲間を実験台にしていたんだろう?」

「こいつの仲間がやってたんだ。こいつは無理矢理やらされてただけだよ。だから連れて来たんだ。他の奴らはみんなぶっ殺してやったよ」

 クウヤの頼みとはこの事だったのかと、トキは初めて知った。戦争の兵器を作るために開発したPdを、クウヤはこの国の内乱を治めるために使おうとしている。自分の考えがなんと愚かだったのだろうと、トキは深く悔やんだ。

「俺は聞いてたんだ。死なないけど、それなりの力が身につく薬があるんだろ? 頼む、力を貸してくれ」

 クウヤは仲間たちの意見も聞かず、地面に這いつくばった。

「クウヤ……。お前……」

「もうすぐ両軍の衝突が起きる。その後がチャンスだ。この戦いを止められるなら、その可能性が広がるなら、俺はどんな手でも使う」

 ためらうマイトの言葉を制し、クウヤはそう言い放った。

「……私は……。兄さんとマイトの判断に任せるよ。今までもそうだったから……」

 リンがそっと呟く。それにつられてか、アコも口を開いた。

「恐らくは六日以内に大規模な軍事衝突が起こると思われます。互いの戦力が削がれた状態とはいえ、突入には大きな危険を伴います。生存率が高まるのであれば、その手段を選ぶべきではないでしょうか……?」

 マイトはアコとリン、それにトキに向けて頭を下げたままのクウヤを見た。皆望んでいる事は同じ、この自分の生まれた国を、クルトを平和にする事だけだ。

「……わかった。そいつを信じてみよう。ただし責任はクウヤ、お前が全部持て」

「おう、安心しな」

 ようやく顔を上げたクウヤは、トキを置き去りにして話していた事に気付いた。

「協力してくれないか……? 頼むよ」

「……うん、もちろん。力になれる事があって安心してたところだよ」

「きっとそう言ってくれると思ってた」

 トキはぎこちなく笑う。それを見てクウヤは大げさなほどに笑って見せた。張りつめていた部屋の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

「それじゃ、僕は研究所に薬を取りに行くよ」

 トキが部屋を出ようとすると、クウヤに白衣を掴まれ阻まれた。

「さっき言っただろ。そのまま外に出るなんて死に行くようなもんだ。これ着ろ」

 手渡されたのは、鉄板の入ったジャケットと帽子だった。よく見ると無数の傷が付いている。

「死んだ仲間のものだけど、十分使えるはずだ。あと、森までは俺が付いて行くからな」

 傷の重みを感じながらも急いで着替えると、クウヤと共に部屋を出た。

 外は来たときと変わらず人気は無く、不気味なほど静まり返っている。トキとクウヤは言葉を交わすことなく、ただ黙々とさっき来た道を辿っていった。

 やがて街を抜け、丘を登り、森へ入ると、コンクリートの箱のような建物が姿を現した。さっきはここから出てきたのだと、トキは素っ気ないその建物を見上げる。研究所とこの国とを繋ぐ長い抜け道への入口だ。

「ここまで来れば大丈夫だ。行って来い」

 クウヤの言葉に促され、トキは一人で研究所へと戻っていく。心細さを押し殺して、一歩ずつ歩みを進めていった。

 どれほどの時間が経ったか、トキはようやく研究所へと戻ってきた。研究室はクルトへ行く前と何も変わっていない。ただベッドに横たわるシンの身体だけは、幾らか白みを帯びている気がした。

 しばらくシンの顔を眺めた後、トキはハンドバッグを手に取った。能力向上性は比較的低いが副作用の少ないPdを選んでバッグに詰め込んでいく。それと注射器、消毒用のアルコールなど、一通りの物を揃えていると、バッグから一枚の写真が出てきた。トキと一緒に妻と娘が映った家族写真だった。

 向こうの世界を助けなければという使命感が、写真によって少しだけ揺らいだ。もしこのまま戻らずに扉を閉ざせば、自分の日常は恐らく戻ってくるだろう。生き残っているのが自分だけでも、非力さ故に自分がやったと疑われる事はまず無いはずだ。家族もきっと心配している。

 でも、もし戻らなかったら、向こうの世界はどうなってしまうのだろう。このまま少数派である中立軍は壊滅し、政府軍、反政府軍のどちらかが滅びるまで殺し合いが続くのだろうか。

 また、人が死ぬのだろうか。

 こちらの世界でも実験と称してたくさんのクルトの人の命を奪い、そして今度は彼ら同士の争いで多くの命が失われていく。この争いの原因だって、こちらの世界にあるというのに。

 考えを巡らせ、トキは結論を出した。もう、人が死ぬのは嫌だ。例えそれがどの世界の事であっても、どんな人間であっても。

 トキはバッグに写真を戻すと、再び荷物を詰め始めた。早く戻って、何としてもこの事態を収束させなければならない。自分にはその責任がある。

 道具を詰め終えクルトに戻ると、クウヤが建物の中で待っていた。何故か足元には、鉄パイプのようなものを持った一人の男が倒れている。

「お、戻ってきたな。思ったより早かったじゃないか」

「そ、そうかな。それよりこれは……?」

 倒れている男は青い迷彩服を着ていて、兵士のような格好をしている。どうやら死んでいるのではなく、気絶しているだけのようだ。近づいてみると、微かに甘い香りがした。

「そいつは政府軍の奴だな。森の中に潜んでいたみたいだ。俺らがここにいるのを告げ口されちゃ困るから、ちょっと静かにしてもらっただけだ。行くぞ」

 クウヤはすぐにここから立ち去りたいらしかった。兵士という危険を間近に目撃して、トキの足も自然と早くなる。心なしか、街がざわついているような気がした。衝突が迫っているのは本当のようだ。

 中立軍のアジトに戻って来ると、トキは早速三人にPdを投与し始めた。

「この薬は特別なもので、一日ほど経てば四肢の筋肉が強化されるはずです。副作用もほとんどありません」

 説明をしながらまずはマイト、次はアコ、最後にリンに薬を投与していく。リンは注射が苦手だったらしく、少し涙ぐんでいた。造り出された世界とはいえ、暮らしているのはやはり人間そのものだ。トキは違和感の無さに違和感を覚えていた。

「では、これからの行動について連絡する」

 トキが後片付けをしていると、マイトはそう言って皆を集めた。

「政府軍、反政府軍の衝突が近々勃発するとの見立てから、両軍が衝突し戦力が削がれたタイミングで双方の幹部へコンタクトを試みる。もう人々が失踪することは無い旨を伝え、停戦へと持ち込む。これがベストの展開だ」

 全員がマイトの言葉を食い入るように聴いている。

「しかし恐らくは無理だろう。危険だと感じたら、その時点で撤退して構わない。判断も各々に任せる。それに、撤退したことについて咎めはしない。何より自身の命の安全を優先してくれ。何があっても死んではならない」

 皆黙って頷いた。真実という切り札を手に入れ、停戦交渉には絶好の機会だ。しかし裏を返せば、この交渉が上手くいかなければこの内紛を止める術はほぼ無いに等しい、ということである。

「では、いつでも動けるように準備をしておくこと。以上だ」

「あの……。少しいいですか?」

 マイトの言葉が終わるのを見計らって、トキは口を挟んだ。

「おそらくは無理って、もう止められないんですか……? どちらも無実なのに……」

 その言葉を聞いて、クウヤはやれやれというような顔をした。

「あいつらは完全に、お互いにお互いがやったと思い込んでる。それにこの世界の誰かが犯人ならともかく、違う世界の人間の策略だったなんて信じると思うか?」

 トキは黙ってうつむくしかなかった。自分だったら信じられない。そりゃそうだ。自分がいるこの世界が人工的に造られたなんて、信じるはずない。でも……。

 いつの間に皆はそれぞれに散っていった。マイトは地図を眺め、アコとリンはパソコンに向かい何かのデータを見ている。マイトはソファーに腰掛け、トキの方をじっと見ていた。

「……そうだ! 僕が双方の軍の前で全ての事を打ち明けて、僕が全て悪いのだと言えば……」

「だから! もう無理なんだよ」

 クウヤはトキの言葉を強く遮った。

「衝突はもう止められない。あいつらは失踪の原因を突き止めるという目的なんてとっくに忘れてるんだ! あいつらはただ、大切な人を失った悲しみや怒りのままに殺し合ってるだけなんだよ

「何の意味も無い戦いを傍観しろってこと……?」

「そうだ」

 クウヤは迷うことなく言い切った。これが彼らの熟慮の結果であり、決断だった。

 トキは思う。自分はやはりどこまでも無力だ。自分の行ったことはPdを投与しただけ。そのPdさえ、うまく機能するという確証はどこにも無い。

「見ての通り、こっちには臨戦態勢のあいつらを止められる力は無い。俺たちも無駄死にする訳にはいかないからな」

 クウヤはそれだけ言うと寝転がり目を閉じた。

 トキはそれでも、何か自分に出来る事は無いのかと考えを巡らせた。この世界の為ではなく、自分がここにいる意味を求め始めていた。

「じゃあ君たちだけでも、僕の世界に逃げて来れば……。そうすればもうこんな危険なことに身を晒す必要もないよ」

「それは出来ません」

 きっぱりと否定するその言葉はクウヤが放ったものではなく、話を聞いていたらしいリンのものだった。

「貴方はどうか知りませんが、私たちクルトの人間はここで生まれ、ここで生き、ここで死んでいくんです。他の世界があろうと、ここで生きてきた私たちは自分の在る世界を守りたい。自分が生きてきたこの街が崩れていくのは見たくない。……だから戦うんです」

 トキは言葉を失った。

 自分よりずっと若く幼いのに、冷静さも、自分の国への愛も失わずにいる。

「もうそろそろ寝る時間だ。今日の夜番は俺だな」

 静まった部屋へとマイトが声を落とす。その声を合図に、皆は部屋の隅に集まり何かの前で祈り始めた。

 取り残されたトキが皆の視線の先を覗くと、布の切れ端のようなものが積まれた机があった。

 訝しげに見ていると、クウヤは目を閉じたまま呟いた。

「今まで連れて行かれた奴が、ここを出る前に服の切れ端を置いていった。お前は知ってるんじゃないのか?」

 ……知っている。

 検体たちの服が、妙な千切れ方をしていた。それを思い出し、トキは思わず目を逸らした。

「よし、もう寝るんだ。お前……トキは俺のベッドで休め」

 マイトは皆に休息を促した。いつ起こるかもわからない、しかし意味の無い争いに備えなければならない。マイトだけはパソコンの前に座り、各々は自分の寝床へと散っていった。

 トキは与えられたベッドで横になり、これからどうなるのかと様々に想像を巡らせていた。しかしあまりの検討のつかなさに、このまま眠ってしまえば、いつものように家で目覚めるのではないかと、そんな考えすらも浮かんでいた。

 もし停戦へと事が運べなかった場合は、一体どうなってしまうのだろう。

 きっと、政府軍と反政府軍とが、どちらかの気が済むまで争い続けて、また多くの人が傷付いていくのだ。そしてどちらかが正義となり、もう一方が悪となり、真実は埋もれていく。真実など意味を持たないというのは、きっとそういうことなのかもしれない。

 たくさんの仮説や出来事や思いがトキの頭の中で渦巻いていた。理屈に合わないたくさんの事も、今は心にしまっておこう。その時に出来る事だけ尽くしていこう。そう決心して、静かに眠りについた。



   三:罪の棲 ―つみのすみか―


「おい、起きろ! 早く起きろ!」

 トキはマイトの怒号で目を覚ました。身体を起こし目をこすりながら部屋を見回すと、皆がパソコンの前で難しい顔をしているのが見えた。

「……どうしたんですか……?」

「囲まれてるぞ」

 クウヤが画面を指した。真っ暗な画面にはいくつかの赤い枠が表示され、時折わずかに動いている。

「これは俺たちがいるマンション付近を監視するカメラの映像だ。そして赤い枠で表示されてるのが人間――兵士だ。動きからして政府軍の奴らだろうな」

「え……?」

 画面が切り替わる。さっきよりは少し明るさのあるその風景には、たくさんの赤い枠とその中の黒い影が蠢いていた。

「え……。どういうこと? なんでここが狙われるの……?」

「全面衝突を前に、邪魔者は排除しようって魂胆かもしれないな。たかが数人の派閥なんて放っておけばいいものを」

 マイトが吐き捨てるように言う。画面は再び切り替わり、無数の赤い枠が危険を知らせる。

「……覚悟は出来てる。マイト、お前の判断に任せるよ」

 クウヤは画面から目を離さずに言った。リンとアコも視線でそれを容認する。

「……わかった。何とか現時点での最善策を考えてみよう」

 マイトは机に向かい、広げた地図に凄い勢いで何かを書き込み始めた。

 ペンと紙が擦れる音だけが響く部屋。パソコンの画面には相変わらず赤い枠が踊る。部屋の空気は息苦しいほどに張りつめていた。

 おそらくは数分が経った頃、外はにわかに騒がしくなり遂に突入してくるかと思われたが、何も起こることなく再び静寂を取り戻した。そしてその束の間の静寂を壊す、低く、重い声。


『……交渉をしようじゃないか』


 外からの声に緊張が走る。

 カメラは何も変化を捉えられていない。

『今まで生き残っているのだ。我々が何者かはわかっているだろう』

 こちらの返答も待たず、外からの男の声は続く。

『こちらの要求は一つ……。部屋の中にいる異界人を渡せ』

 男の言葉に、クウヤたちの視線は自然と異界人――トキに集まった。

 驚きのような、疑いのような視線に耐えきれず、トキはその場にへたり込んだ。

「ぼ……僕は何も知らない……。何も知らないよ……」

「……盗聴されてるのか?」

 戸惑うトキを尻目にマイトが冷静に言い放つ。同時に他の三人は部屋の中を探り始めた。

 疑う素振りも無い四人を、トキは座り込んだままただ呆然と見ていた。

 盗聴器探しに見切りを付けたクウヤが、何処かにいるであろう声の主に呼び掛けるように叫んだ。

「そんな奴はここにはいねぇよ! さっさとどっかに行きやがれ!」

 しばらくの沈黙の後、やはり何処からか聞いていたのか返答が来た。

『いない訳がない。元帥からのお達しだ。しかもその異界の者が失踪騒ぎの原因だというじゃないか。貴様らも原因を突き止めたいと願っていたのだろう? ならば何故匿う必要があるのだ。ましてや包囲されているこの状況……。迷う事など一つも在りはしない。そうではないのか?』

 その言葉を聞いて、マイトは顔を上げ呟いた。

「人間一人渡しただけで何が出来る。どうせよからぬ事を企んでいるに決まってるんだ」

 突如、部屋にアラーム音が響いた。監視カメラが無数の影を映しだす。さっきとは比べ物にならないほどの兵士がこのアジトを取り囲み、徐々にその輪を狭めていた。

「敵兵推定五十余名……。近くの建物に潜伏していたようです。攻め込まれるのも時間の問題かと……。マイト、どうしますか?」

 アコが画像を解析しながら結論を促す。もう危機は刻一刻と迫っている。

 マイトは地図を睨み付けたまま、前髪を掻きむしる。そして消え入るような声で呟いた。

「もう少し……。もう少しだけ時間をくれ……」

 クウヤは黙って頷くと、声の主へ再び問い掛けた。

「こいつをどうするつもりだ……?」

『……我々に歯向かわなかった聡明さに免じて教えてやろう。元帥は、その異界人の世界も欲しているのだ』

 異界人の世界。つまり、地上の事だ。

 男は続ける。

『反政府などと旗を上げた愚か者どもは既に排除した。決起したところで所詮は一般市民。実力などたかが知れている。だが……』

 国を動かす者が発したとは思えぬその言葉を、クウヤたちは怒りを抑えながら聞いていた。

『君たちは違う。我々に敵対することなく、失踪騒ぎの元凶が我らでないことを見抜いた。君たちには優れた能力、優れた統率力、そして運がある。今まで生き残っていることこそ、その紛れも無い証明だ』

「だから何だ。俺らを殺して、何不自由なく異世界を侵略して。それが元帥の望みだというのか!」

 返答は、乾いた笑いだった。

『何を勘違いしている? 私は君たちを殺すなどとは言っていない。むしろ君たちの実力を認めているのだ。その異界人をこちらに渡せば、君たちを我々の仲間に迎え入れようではないか。この荒れた国を捨て、我らと共に新たな地へと踏み出すのだ!』

 高らかに響く声はどこか誇らしげだったが、クウヤたちには戯言にしか聞こえなかった。

 この国を荒らしたのはお前たちだろう。自分たちの国を、民たちをこんな状態にして捨て置いて、更に他の世界へ行くなんて。でも、どこかでわかっていたのかもしれない。かつてのような平和な国にはもう戻れない事を。元帥がこの国を見限ってしまった事を認めたくなくて、足掻いていたのかもしれない、と。

 おもむろにマイトが地図を持ち立ち上がる。外に聞かれる事を警戒し、皆の前で無言で地図を広げた。地図には今いるこの建物からやや離れた公園への道順が示されている。それを見てトキ以外の皆は静かに頷く。

〝お前は俺についてこい〝

 クウヤがトキにメモを見せる。トキはただ首を縦に振った。

 皆は鉄板入りのジャケットと帽子を纏い、部屋にある隠し扉へと入っていく。最初はクウヤ、次いでトキ、リン、アコ、そして最後にマイトの順で並び進んでいく。通気口のような細く暗い道を這いながら進み、果ても見えぬ梯子を皆無言で降りる。

「……何処へ出るの……?」

 トキは心細さに負け口を開く。その間も、誰の足も止まることは無い。

「……俺らのアジトにはいくつかの抜け道がある。その中でも一番政府軍の兵士が少ないと思われる場所に向かってるんだ。完全に包囲されてるここにいるより、いくらか安全なはずだ」

 クウヤの小さく呟いた言葉も、狭い抜け道にはよく響いた。

 梯子を降り終えると、下水道のような場所に着いた。臭いはそれほどきつくないが、水は流れておらずカビのようなものが浮いている。もうここも長い間機能していないようだった。

「あそこが出口だ。気を付けろよ」

 クウヤが指差した先では、上から射す淡い光が、いくつもの錠がかかった大きな鉄格子を浮かび上がらせていた。クウヤが鉄格子を掴み力を加えると、鉄格子は瞬く間に歪んで壁から外れた。

 心許ない光の中、再び現れた梯子を上っていく。頭上に小さな鉄格子の蓋が近づくと、クウヤはそれを拳で突き飛ばした。

 首を出ししばらく辺りを窺うと、クウヤは外に出てトキを引き上げた。外は一面芝生の景色で、風はやや冷たく感じられた。

 全員が引き上げられ公園に立つと、注意深く辺りを見回した。さっきまでの緊迫感はここには無い。ただ人気の無い夜の公園という感じだ。

「……うまく撒いたか。さすがにここに出るとは思わなかっただろうな」

 マイトの言葉に皆安堵の表情を浮かべる。トキは緊張が解け、芝生に座りこんだ。

 うつむいたトキの視界に妙なものが入る。さっきクウヤが開けた抜け道の蓋に、タグのようなものが付いていた。何やら難解な文字が並び、赤い光が点滅している。

「あの……これは一体……?」

 光るタグを指差し皆に問うと、マイトは顔色を変え叫んだ。

「爆弾だ! 離れろ!」

 皆は方向も構わず走り出した。呆気に取られていたトキはクウヤに白衣を掴まれ、引き摺られるように離れていく。


 その瞬間、五人は轟音と爆風に包まれた。


 視界は爆風による砂埃で遮られ、何も捉えることが出来ない。

 トキは土まみれになった服を正しながら、何とか立ちあがった。突然の出来事に、トキの思考は止まっていた。

 呆然と辺りを眺めていると、霞む景色の向こう側から大人数の足音が聞こえた。徐々に迫ってくる危険から逃れようと、トキは鉄砲のように走り出した。人が外に出ようともしないこの街で、あんな人数で行動しているのは政府軍くらいだ。はぐれてしまった仲間を早く探さなければならない。自分一人では、何も出来ないのだから……。

「いだぞ! 捕まえろ!」

 何処からか男の声が聞こえた。そして直後に複数の男たちの悲鳴が聞こえ、ドサリと倒れる音が続く。

「うるせぇ! 仲間に手出したら許さねぇからな!」

 クウヤの声だ。

 トキは声の元へと、周りの様子を窺いながら近づいていく。すると、開けてきた視界の先に、敵を蹴散らす人影が見えた。

「……クウヤ…………?」

 もし違ったらどうしようと、トキは恐る恐る声を掛けた。

「まだいたのか!」

 トキに何かが振り上げられる。トキは思わず目を瞑ったが、それが振り下ろされることは無かった。

「あ……トキじゃないか! 無事だったのか!」

 そこには鉄の棒を握ったクウヤが立っていた。クウヤの周りには無数の兵士が倒れており、いつも以上に甘い香りが強烈に漂う。

「逃げるぞ」

クウヤはトキの手を取り駆け出した。トキはされるがままに引っ張られていく。

「とりあえずこいつらは黙らせたが、いつ増援が来るかもわからない。それに砂埃も収まってきてる。視界が開けりゃこっちが不利なのは明らかだからな」

「ど、どこに行くの?」

 あっという間に公園を抜け、市街地に入った。ここにも相変わらず人気は無い。

「いくつか緊急用の避難場所があるんだ。そこも安全とは限らないけどなっ!」

 突如目の前に現れた兵士を殴り倒し、細い路地へと入っていく。幾度となく角を曲がり、辺りは暗さを深めていった。

「ここだな」

 ようやく辿り着いた場所は、何もない路地の行き止まりだった。クウヤは速やかに足元のレンガを一つ剥がし、中から現れたレバーを思い切り引っ張った。すると壁はガタガタと音を立て、隙間から土煙を吐いた。辺りが再び鎮まると同時に、クウヤは突っ立っていたトキを壁に押し付けた。

「うわっ!」

 壁はどんでん返しのように翻り、瞬く間にトキは部屋へと吸い込まれた。押された勢いもそのままに、無防備な格好で布団のような場所に投げ出される。

 少し遅れてクウヤも中へ入って来た。窓も無く二人入るだけで手狭なこの部屋は、まさに隠れ家という感じだ。

「マイトたちも無事だといいが……。しかしあいつらはお前の世界まで狙ってるなんて、どこからそんなことを知ったんだろうな?」

 クウヤは愚痴を漏らしながら、どこからか取り出したパンをかじっている。トキはその言葉を聞き、頭の中でずっと引っ掛かっているものが動くのを感じた。

 この街中に立ち籠める、政府軍の兵士が纏う薄気味悪い甘い香りに、トキは憶えがあった。と言うより、初めて嗅いだ香りでは無かった。しかしそれが何だったのか、一向に思い出せない。

「おい、トキ。聞いてるのか?」

 記憶を辿り巡らせ考えていると、クウヤの言葉が耳に入った。クウヤの方を向くと、先程兵士と戦っていたからか、あの香りが再び強く鼻を突いた。

「この香り……花の香りだ。バラの香り……。それに……」

「コーヒーだな」

 パンを食べ終えたクウヤの口から言葉が零れる。言われてみれば確かにそうだ。

「この香水を付けるのも元帥の指示らしい。匂いまで支配したいなんて、どれだけ支配欲が強いんだって話だよな」

トキは、思い出した。

クウヤの言葉であらゆる記憶が蘇ってきた。想像ながらも、知ってはいけない事を知った気がした。元帥の正体も検討がついた。でも、信じたくなかった。そんなはずないんだと、自分に言い聞かせようとした。

「……頼みがあるんだ」

「お、何だ?」

「元帥の正体が……分かったかもしれない」

 クウヤの動きが止まった。

「それを確かめるために、もう一度、僕の世界に戻りたいんだ……。あの丘の上の、僕の世界に繋がる場所まで連れて行ってくれないかな?」

 クウヤはトキの嘆願に、すぐに首を縦に振ることはしなかった。

「……どういう事だ。聞かせてくれ」

 トキは自分の考えの全てを打ち明けた。元帥の正体と、その根拠と、自分が考え得る全てを伝えた。

 トキが話し終えると、クウヤは静かに頷いた。

「それで、全部終わるんだな……?」

 クウヤは隠し部屋に置いてあった鉄杖を握り締める。

「終わらせるよ。こんな事」

 二人は隠し部屋から出て、町外れの丘の上、二つの世界の境目へと歩き出した。



   四:宰の謀 ―さいのはかりごと―


 無人の街の中を、兵士に見つからないように進んでいく。何処で起きているのか、爆発音が張りつめた空気を震わせる。自分たちを探しているのだろうか。そういえば、マイトやリン、アコは無事だろうか。トキはPdが効いていることを祈るしかなかった。

 街の外れには多くの兵士が配置されており、二人は未だ街から出られずにいた。

「ここが一番出やすいと思ったんだけどな……。強行突破するか?」

 クウヤの提案に、トキは大きく首を振り異を唱える。

「マイトがいてくれりゃあなぁ……」

 周囲に目を配ったまま、マイトはポリポリと頭を掻いた。

 二人とも動けずに潜んでいると、足元に何かが転がり込んだ。映画の中で見た事のある、黒いレモンのようなそれを見て、二人は無言で咄嗟に路地から通りへ飛び出した。

 閃光と爆発が生じ、二人が隠れていた建物を粉々に砕く。その振動は辺り一帯に二人の存在を知らしめた。

「こっちだ! 捕えろ!」

 二人を指差し兵士が叫ぶと、それを合図にあらゆる場所から兵士が湧き出した。クウヤが数人を殴り倒すも、あっという間に壁際へと追い詰められてしまった。

「くっ……。やるならかかってきやがれ! 俺に敵うと思うなよ!」

 クウヤはトキの前に立ち、鉄杖を構える。兵士たちも皆同じような武器と楯を持ち、じりじりと間合いを詰める。

 トキはその光景を、クウヤの背中越しに見ていた。何度目かの無力感に苛まれていると、クウヤがそっと呟く。

「全員倒したってすぐ増援が来る。行けると思ったら抜け出して突っ走れ」

言い終わると同時に、一人の兵士が鉄杖を振り上げた。

 振り下ろされる鉄杖をクウヤは臆することなく左手で受け止め、逆に兵士を振り飛ばした。

 それを見て兵士たちは束になり二人へと襲い掛かる。しかしクウヤは全て受け止め、群がる兵士の中へ目がけてはじき飛ばしていく。それでも、もがく兵士たちの隙間から、新たな兵士は途切れる事無く現れた。

 トキは敵に囲まれ、未だに抜け出す機会を見つけられずにいた。いくらPdで身体能力が高まっていたとしても、体力が無尽蔵にある訳では無い。それに自分を守りながらでは、持っている力でさえ十分に発揮出来ていないはずだ。

 トキは兵士たちの後ろに、こちらに向かってくる新たな兵士の一団を見つけた。あれがこちらに到着すれば、戦況は悪くなるだけだ。迷ってはいられない。

 クウヤが兵士の攻撃に耐えながら、殺さぬように打ち倒していく。トキはクウヤが鉄杖を振り上げ、兵士がそれに気を取られている瞬間に駆け出した。

 トキは這うように兵士の間をすり抜けていく。クウヤはトキを追おうとした兵士に気付くと、咄嗟に鉄杖を投げつけ動きを止めた。

 トキは走った。幸いなことに、丘へ向かう道中に兵士の姿は見えない。アジトを出てから歩き詰めだったトキの足は、とっくに限界を迎えていた。それでも走った。街を抜け、丘を上がり、森を抜けた。

街の喧騒とはかけ離れた静けさの中、ようやく無機質な建物が姿を現した。

 トキは深く深呼吸をする。

 元帥の正体を確かめに行くんじゃない。自分の推測が間違っていることを確かめに行くんだ。

 決意を固め、トキは再び研究所へと向かった。


 もう何度目かの長い道のりを経て、トキは再び研究所へと戻って来た。幾度も見ていた何も変わらない景色に、安堵と、今は不安が折り重なり、妙な気分の高まりに心は支配されていた。

 トキはシンの顔を少し眺めた後、自分のPd研究室を出た。ある一つの研究室を目指してただ真っ直ぐに向かっていく。トキが向かったのは、大きなモニターが設置され、多くのパソコンが備えられた部屋だ。扉の上には「社会構造研究実験室」と書かれている。

 半開きの扉をゆっくりと開く。中には他の研究室と同じように、たくさんの人が倒れている。メインモニターには、ある街の夜景が映し出されていた。その景色は、今さっき自分がいた世界――クルトだった。砲撃や破壊の音色が絶え間なく響き、街は荒廃の色に染まっている。

 トキは気付いた。この部屋は、おかしい。

 この研究所には自分しかいないはずだ。クウヤが研究室から逃げ出した時に、一通り研究所の中は歩き回った。その時に自分以外の生き残りはいなかった。しかもこの研究所には、専用パスを持っていない研究員以外は入ることが出来ない。しかしこのモニターはスリープ状態では無く、ちゃんと機能している。誰かが最近操作したという事だ。

「良かった! あんたも生きてたのね!」

 突然、背後で女の声がした。トキは身体がすくみ、振り向く事も出来ない。

「他に生きてる人がいなくて心細かったの。本当に良かった……」

 身体にバラとコーヒーの香りがまとわりつく。それに気付き、トキはやっと振り向く事が出来た。

 そこには、キカが立っていた。

 トキは、キカからそっと離れる。

 そして、不思議そうな顔をするキカに向けて、トキは静かに言葉を放った。

「元帥……だよね?」

 その言葉を聞き、少し微笑んだ顔が無表情になる。

「……ばれちゃった。あんたなんかに」

その表情は、小心者のトキの心を凍りつかせた。それでも何とか勇気を振り絞り、キカに訊ねる。

「君がやったの……? 一体何をしたかったの……?」

 何も言わぬまま、キカはモニターへと歩み寄った。そして何かのボタンを押すと、モニターを背にトキへ語り始めた。

「一般の企業にいたとき、噂を聞いたの。この国には〝パンドラの匣〝があるって。法や権力に縛られずに、好きなだけ研究をできる場所があるってね。だからあたしは誰よりも頑張ってここに来たのよ」

 キカは、微塵も表情を変えようとはしない。

「でもね、あたしはこんな一つの国では収まりたくないの。あたしはもっと世界に出て行く。だってあたしは、世界に必要とされる技術を、知恵を、能力を持っているんだから」

 キカはまたボタンを押す。モニターは小さな画面に区切られ、クルトの状態を細部まで映し出した。

「見たでしょ? この世界。私たちの世界と何ら遜色無い。あたしはこの研究室の室長として、社会の構造と人々の思考・行動を研究してきた。でも考えたの。こうやってずっと研究して、データを文書にまとめて、それで本当にあたしの力は、能力は伝わるのかって」

 トキは何も言えなかった。普段は明るく無邪気に振る舞っていたキカが、心の内にそんな思いを秘めていたなんて。

「そこであたしは思い付いたの。どんな人にもわかるように、あたしの凄さを伝える方法を」

 研究室の奥からゴソゴソと音がした。その後、土っぽい空気と共にたくさんの人間が湧いて出てきた。彼らの服装は地下世界で見た、政府軍の兵士と同じものだった。

「それはね、この世界で軍隊を作って、地上の私たちの世界を征服する事よ」

 キカはほんの少し笑った。トキには、そう見えた。

 兵士はキカを取り囲むように並び、トキにライフルのようなものを一斉に向けた。この状況にトキは、恐れよりも何か虚しさのようなものを感じていた。

「しかもただの軍隊じゃない。この研究所で開発された非合法な武器、科学兵器……。平和という文句によって縛られた中で造ったものとは格が違うわ。誰も、どんな手段も、敵うはずない。日本の技術力は世界随一だもの」

 キカはにっこりと微笑んだ。同時に、トキは理解した。キカには罪悪感は微塵も無い。全てはただ、自分という人間を売り込むための手段でしかないのだと。

 キカの言葉で、トキの中で恐怖に抑えつけられていた何かが弾けた。

「どうして……。どうしてこんな方法を選んだんだよ! キカは僕よりずっと頭が良いのに、どうしてこんな事したんだ! 僕は向こうへ行って、クルトの人々の苦しみを、悲しみを見てきた。キカだってモニターで見てたんだよね? キカは何も感じなかったのかよ!」

 トキの精一杯の抵抗にキカは少し驚いたようだった。しかしキカはトキに哀れみの眼差しを向け、こう言い放った。

「ねぇトキ、あんたもその苦しみや悲しみの片棒担いでたこと、わかってる? あんた達だってクルトの人間を散々利用してたでしょ。まぁ、その割には全然研究進んでなかったけどね」

 一人の兵士がライフルをしまい、キカの前に立つ。

「そっちの研究室の検体の暴走が無ければ、今頃は地上に攻めてた頃なのに……。あんたも他の奴らと同じように、あの化物に殺された事にするわ。やりなさい」

 キカの言葉を合図に、兵士は拳を振り上げトキに襲いかかった。

 この至近距離では、かわす事も逃げる事も出来ない。

 もうダメだ。

 死ぬんだ。

 トキはかろうじて目を閉じた。何の意味もなくても、この状況で出来ることはそれだけだった。

 …………。

 ………………。

何かがぶつかる鈍い音がした。

 トキは痛みを感じない。

「全然帰ってこないから来てみりゃ、随分騒々しいな」

 聞き慣れた男の声。トキが目を開けると、目の前にはクウヤが立っていた

「……クウヤ……?」

「おう、トキ。危なかったな。で、これはどういう事だ?」

 クウヤは研究室の兵士とキカを睨み付けた。兵士たちはキカを守るように、クウヤに対し整然と並ぶ。

「キカ……あの女が、元帥だったんだよ。こっちの世界からクルトを操ってたんだ。クルトで軍隊を組織して、その力で地上の僕達の世界を征服しようとしてたんだって……」

 クウヤは兵士の隙間から、キカを鋭く睨み付けた。キカは怯み、兵士で視線を遮る。

「ば、化物! あんたのせいであたしの計画メチャクチャよ! 奴も始末しなさい!」

 キカの一喝で兵士たちは一斉にクウヤへ襲い掛かる。しかし強力なPdの力を得たクウヤの前に、手傷一つ負わせることは出来ない。

「俺に敵うとでも思ってんのか? 俺はな、お前らとは比べ物にならない苦しみ味わってんだよ!」

 クウヤの咆哮に、トキも少し動揺した。さっきキカが言っていた事――自分も、クルトの人々に苦しみを与えていた側の人間だという事は事実だ。キカのしている事とそう変わらないのではないかと、ふとそんな思いがよぎった。

 あっという間に取り巻きを失ったキカは、それでもなお強気でいた。

「あ、あたしは向こうのトップなのよ。こんな奴ら倒されたって、痛くも痒くもないわ!」

 そう叫ぶと、キカは兵士が出てきた扉へと消えていった。

 トキは待ってと言いかけた。しかし呼び止めたところで、自分に何が出来るだろうか。その疑念が声を押し留める。

「殺すしかないな」

 険しい顔でクウヤが呟く。

「そんな、殺すなんて……」

「俺たちは……。いや、こっちの世界の人間は、誰も元帥には敵わない。俺らがどれだけ考えようと、所詮は元帥の掌の上だ」

クウヤは足元に倒れる兵士の服を剥ぎ、自分の服と着替える。完全に政府軍の格好になり、クウヤは続ける。

「それに、もし政府軍が地上の世界へ行ってしまったら、元帥の圧倒的な武力によって抑えられていた輩が一気に動き出すだろう。そうなれば、もうこの世界は崩れていくしかない。元帥だけを討てば、政府軍も地上へ侵攻しようとは思わないだろう」

 トキは何も言い返せない。これが、人の道を外れた研究の罰なのかと、自分の愚かさを恨んだ。

「それと……。お前はもうこっちの世界に来るな」

「……え……?」

 クウヤは今確かに、来るなと言った。

「トキ、さっきお前は元帥に殺されかけてたよな。多分元帥は、自分の計画を知る者を皆殺しにするんじゃないか? クルトの人間も全部。そんな中じゃ、お前を守れるかわからない。だから来るな」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 キカを追おうとするクウヤの腕を掴み、トキは必死に嘆願した。

「お願いだから、連れて行ってよ! 僕は死んだって構わない。それに僕は、君の仲間たちを研究と称してたくさん殺したんだ。殺したって飽き足りないくらいじゃないのか?」

「馬鹿言ってんじゃねぇ!」

 クウヤの剣幕に、トキは思わずフリーズする。

「確かにな、お前らに実験台にされた奴は戻って来ない。でもそういう奴らがいたから、今俺は生きている。それでいいんだ。これ以上、死人が出るのは嫌なんだよ。お前も含めてな」

 何も言い返せないトキを置いて、クウヤはクルトへの扉に向かう。

「でも……」

 トキはようやく言葉を発したが、まるで子供が駄々をこねるように、理屈の無い文言ばかりが浮かんでは消える。

 立ち尽くすトキに、クウヤは一言、告げた。

「俺は自分の世界の為に生きるんだ。だからお前も、自分と自分の世界の為に生きな」

 クウヤは扉を開け、トキが追って来ないように扉を破壊してからクルトへと降りて行った。


 トキは、扉の前に崩れ落ちた。

 待ってくれ、とは言えなかった。


 これで何もかも、終わったのだろうか?


 疑念と無力感が渦巻く中、モニターは激しく破壊される街並みを映した。クウヤの言った通り、キカはこの世界をつぶすつもりらしい。何とかしなければ。でも、自分では何も出来ない。

 トキは思い出した。地上に戻って助けを求めればいいんじゃないか。もはやこの研究所内で収まる問題では無い。何故もっと早く気付かなかったのだろうか。

 トキはエレベーターへ向かい、研究者専用のパスをかざした。古ぼけたエレベーターは軋みながらもトキを迎え入れる。

 動いた安堵に包まれながら乗り込むと、パン、という乾いた音が響いた。同時に、左肩に激痛が走る。

 振り向いたトキは、その視界にライフルを構えた政府軍の兵士を捉えた。驚きと痛みで何も出来ず、呆然とただその場に座り込む。同時にエレベーターの扉が閉ざされた。

 トキは痛みに耐えながら、紅く染まる床を見ていた、

 やっぱり何も出来ず死んでいくのかと、トキは滑稽ささえ感じた。

 意識が徐々に薄れていく。もし自分がこのまま死んでも、エレベーターは地上へ連れて行ってくれる。そうすれば、事は全て露呈するはずだ。それだけでも自分は、少しは役に立ったと言えるのかもしれない。

 クウヤたちの無事を祈りながら、トキは目を閉じた。



   五:真の嘘 ―まことのうそ―


 ここは、どこだろう。

 薄暗い部屋でトキは目を覚ました。相変わらず左肩は痛むが、どうやら死ななかったようだ。

無機質なコンクリートがむき出しの、飾り気の無い空間。身体にはいくつかの管が繋がれている。左側に顔を向けると、扉ではなく鉄格子があった。

 外を通りかかった白衣の男が、こちらを見て慌てふためき、何処かへと姿を消す。しばらくすると男は二人のスーツの男を連れ、この牢屋のような部屋に入って来た。


「では、聞かせてもらえますか。何があったのかを」


 トキはスーツの男たちに、全てを打ち明けた。自分の研究室で何が起こったのか。そのせいで、一人の研究員の野望が明るみになった事。地下の世界で体験してきた事……。

 トキの話を聞いた男たちは、それぞれに顔を見合わせた。そして、トキにこう言った。

「それはどこまで本当なんだ?」

「え……?」

 男たちの話によると、確かに研究所の中は悲惨な状況だったという。誰一人生き残った者はおらず、殴り殺されていた。しかしその研究員の中に、キカもいたというのだ。さらに研究所の中には、その暴走した実験体と思われる少年の遺体もあったという。男は写真を取り出しトキに見せた。

 それは紛れも無くクウヤの姿だった。最後に別れたときと同じ政府軍の格好で、研究室に倒れている。

「これは……」

「君の言う通り、地下の世界は確かに荒れていた。しかしこの少年や、キカという女性研究員とは、特に目立った関係性も無かった。少年は地下の世界の出身、研究員は地下の世界の管理人。ただそれだけだ」


 嘘だ。

 そんなはずないんだ。


 もっとちゃんと調べてくれと叫ぶトキを見て、白衣の男は管に薬品の入ったボトルを繋ぐ。

「きっとあんなことが起きて気が動転しているのです。また落ち着いたら話を聞かせてもらいます。では」

 立ち去る男たちに待てと叫ぼうとした時、トキは強烈な眠気に襲われた。

 自分の腕に刺さる管を何とかむしり取り、そのままベッドに倒れる。激しく揺れる視界と意識の中で、トキは考える。

 調査側の認識は〝Pdを投与した実験体の暴走により、研究員が殺害された事故〝ということらしい。しかし彼らもすぐにわかったはずだ。この左肩の傷が、殴打で出来たものではないことを。

 事故として、真実を隠し通す気なのだろうか。

 ふと、アコの言葉が甦る。真実など何の意味も持たないのだと。今回のことも、多数派の人間の都合の良い方向にねじ曲げられていくのだろう。

 それに、クウヤもそれを望んだのだ。研究所を偽装し、自分の命を犠牲にして。


 真実なんて、必要ないんだ。

 きっと、それでいいんだ。


 何もかも、終わったんだ。



   終:血の鎖 ―ちのくさり―


 トキは目の眩むような大金と引き換えに、研究所を退職した。その大半は口止め料だったが、トキはいずれにせよ、もうあの世界の話を口にする気は無かった。話したところで誰も信じはしないだろうし、自分の中だけに留めておこうと思ったからだ。

 久々に家族と再会し、トキはこの世の平和の有難さを痛感した。何気なく過ごしていた頃にはまるで気付かなかった〝平和〝という漠然としたものが、今のトキにはっきりと見えた。


 莫大な退職金によって、トキは働くこともなく、しかし慎ましく、家族と毎日を過ごした。あの世界の記憶はしばらく忘れることは出来なかったが、それでも少しずつ薄れていった。


 あの出来事から二十数年が過ぎ、トキの娘は自分と同じ生物学者の道を歩んでいた。そしてある日、娘は大きな茶封筒を手に、嬉しそうにトキに言った。

「見て! 研究の成果が認められて、凄いところから誘われたのよ!」


                        ―終―

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― 新着の感想 ―
[良い点] Poison dOPEという表題が良いですね 意識的に小文字と大文字の使い分けが引きつけられます また、テーマ的にもちょっと重めでダークな予感がしており、興味深いです [一言] あくまでも…
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