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『桜』『蝉』『レール』
影之兎チャモ
蝉の抜け殻を見つけたのは、まだ桜も咲かない二月のことだった。僕はあまりに季節外れなそれを驚愕しながら手に取り、光に翳す。
中身はどこに行ってしまったのだろう、そんな疑問を浮かべていると、今にも消え入りそうな鳴き声が聞こえてきた。居場所を探すも、広い世界から三センチもみたない体が見あたるはずもない。
なんでこんな季節に目覚めてしまったのか、鳴き声はただ一つ、切なげに木霊する。まるで、大人が敷いたレールの上も歩けなかった、自分のようじゃないか。
「6720番!」
号令をかけられて、仕方なく男は蝉を探す目を閉じた。
「受刑番号6720番、いま行きます!」
男は叫ぶように答えると、蝉の鳴き声を背にして走り出した。季節外れの蝉はまだ、鳴いている。
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「車」「洗剤」「湖」
水音灯
空は青く、涼やかな風が吹く。絶好の洗車日和だ。
毎日のように乗り回している車を、スポンジで丁寧に磨いていく。前回の車検先がサービスしてくれた洗剤は、自分で買っていた物よりずっと泡立ちがいい。洗車をしているという実感がわく。今回限りで捨ててしまうのが、もったいないくらいには。
「あなた、三時のおやつはどう?」
「あぁ、ありがとう」
でも今はいいよ、と続ける。
窓の中から顔を出した美咲が、残念そうな顔で、そう? と言った。
「卓也が幼稚園から帰るまでに磨き上げておかないと」
明日のドライブに間に合わないだろう?
そう返せば、途端に笑顔に変わる。
美咲の妊娠をきっかけに結婚してから三年。まぁ上手くやれている、と自分でも思う。
「明日が楽しみね」
そうだね、と笑いながらスポンジを動かす。
久しぶりの連休だ。
ドライブを楽しみながら、湖に行こう。
レジャーシートを広げて、湖畔でバーベキューをしよう。
そう告げたのは一ヶ月ほど前のことだ。
休みも予約も予定通りに取れ、明日は晴れだとラジオが言う。計画は、順調に進んでいる。
汚れていたミラーを綺麗に拭きながら、通りかかったお隣の奥さんに挨拶をした。
明日は湖に遊びに行くんです、と言えば、いいわねぇ、と奥さんが笑う。そうして話しているうちに、退屈だったのか奥さんの娘が繋いでいた手を離して駆け出して。待ちなさい、と言いながら、奥さんも坂道を下っていった。
あぁ、完璧だ、と思いながら、私は車を洗い続ける。明日、妻と息子とともに、湖に沈める予定の車を。
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「ネジ」「自由」「カーテン」
琉珂
明日から期末テストだというのに、一限目から気乗りしない授業。
窓際の席でシャーペンをノックしながら先生の話を右から左に聞き流していると、何かがコチンと落ちてきた。
小さなネジだった。
一体どこから。
あたしは上を見上げてああと息を吐く。
ネジはカーテンを吊すサッシを壁に繋ぎ止めていたネジだった。
もともと緩んでいたものがとうとう落ちてきたんだろう。
役目を放棄して自由の身になったネジは少し錆びていて、鈍い色合い。
あたしはシャーペンを置いて卓上のそれを拾い上げ。
そっと窓を開けた。
隙間から微かに風が流れてくる。
あたしは目を細めて、手の中のネジを遠くへ投げた。
飛んでいったネジはすぐに見えなくなる。
じゃ、元気でやりなよ。アンタは自由だ。
人知れずこっそりエールを贈ったあたしは、丁度そのとき頭上からミシミシと不吉な音を聞いた。
見上げて、またああと息を吐く。
カーテンを支える仕事から自由になりたいのは何もネジだけじゃないみたい。
授業中にも関わらず無言で席から立ち上がって、アルミのサッシがあたしの机に落ちてきたのはそれから数秒後の話。
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「電柱」「白桃」「眼鏡」
春野天使
あたしは度のきつい眼鏡をかけると、自転車に飛び乗った。目指すはスーパー○○! いざ、出陣!
猛スピードで自転車を漕ぐ。
何故って、あの高級白桃の缶詰が一個五十円なんだから! 白桃って缶詰の中でも高い。安売りなんて滅多にしないの。
それにそれに、あたしは白桃が大好き!
開店前のスーパーに列を作って並び、開店と同時に押し寄せるおばさん連中のパワーにもひるまず、なんとか白桃の缶詰を三個ゲットした! もっと欲しかったんだけど、お一人様三個限りだったの……。
嬉しさで舞い上がりながら家路へ急ぐ。ペダルを踏む足に力が入る! ついつい入りすぎてしまった……。路地から飛び出して来た子猫に気付かず、あたしは避けようと必死でハンドルを切った。
キキキィーッ! ガッシャーン!
凄まじい勢いで、あたしは電柱に激突した。怪我をしなかったのが奇跡みたい。けど……自転車のハンドルは曲がり、あたしの眼鏡は無惨にも砕けた……。
あたしは泣きそうになりながら、曲がった自転車を押し、ぼやけた視界でどうにか家に辿り着いた。でも、あたしには白桃の缶詰があるから! 白桃を食べられたら幸せよ。
しかし……その幸せは無惨にもうち砕かれてしまった。あたしは当分白桃の缶詰を食べることが出来ない。その缶詰はパッカンじゃなかった。あたしの家には缶切りがない。
眼鏡も自転車も使い物にならないし……あたしは絶句し、声をあげて泣きじゃくった。
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「苺」「鞄」「タンポポ」
アオキチヒロ
学校の帰り道、黄色のハンカチを広げたように大量に咲き乱れるタンポポの群れの中で、ソレはいた。
「雀、だな」
「うん」
怪我をして動けなくなった雀が、タンポポに隠れるようにして震えていた。
彼女はそれをそっと両手で包んで、出来る限り優しく抱き上げた。
「イチゴ」
「え?」
「名前、苺にする」
口数の少ない彼女らしく、何故そんな名前を付けたのかだなんて理由は一言も話すことなく、ただ一言そう言って真っ白なハンカチで雀を包んだ。苺の血が少し滲んだにも関わらず、彼女は気にすることなく包む。
「どうすんの? 苺」
「持って帰る」
そっと鞄の中に、苺をいれる。チュン、と鳴き声が聞こえた。
「苺、元気?」
一週間ほど経った頃だった。久しぶりに彼女の家へ遊びに行くと、籠の中で飛び回る苺が居た。
「元気」
「みたいだな。すっげぇ飛んでるじゃん。そこまで回復したんだ?」
こくりと彼女が頷く。
「良かったじゃん。これならすぐに外へ返せるな」
「……返す?」
首をかしげ、彼女が鸚鵡返しに聞いた。
「そ。返すんだろ? 飛べるようになったから」
その言葉に、彼女は何も答えなかった。
ただ、何かを思い詰めたように鳥籠の中を睨んでいた。
次の日。案の定、苺は居なくなっていて。
彼女は大きくもなければ小さくもない庭で、空になった鳥籠を持って立っていた。
「大丈夫?」
ふるふると首を振る。
苺は? と尋ねると、同じように首を振るだけで。
「そっか。とりあえず中に入ろう」
そう言って、彼女の背中を押す。ふと振り返ると、庭の木の傍に、不自然に盛り上がった跡を見つけた。
隣で鳥籠を抱きしめる彼女の爪は、何故か土で汚れていた。