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深淵の九つの門-クトゥルフの墨痕  作者: 一一一
第二章 虚妄の館
7/13

後編

いつも読んで頂きありがとうございます。

第二章は前後編で終了です。

第三章は近日公開致します。もしかしたらカクヨムの方が先に更新するかもしれませんので、気になる方はそちらも気にしていただけると幸いです

執務室の空気は、もはや酸素を含んだ気体ではなかった。

それは、粒子状になったインクと、古書が放つ腐食性のガス、そして恐怖によって分泌された濃密な汗が混ざり合った、粘り気のある「媒体」へと変質していた。

アーサー・ウォルトは、両手で顔を覆いながら、自身の指の隙間から漏れ出す「光」に怯えていた。

かつてあれほどまでに渇望し、博物館の隅々まで行き渡らせたはずの清浄な光が、今は鋭利なメスとなって彼の網膜を切り刻んでいる。


「……私の目、私の目が……!」


彼が掌を退けると、そこには衝撃的な光景が広がっていた。

眼球の白目の部分に、細かな、しかし恐ろしいほど精緻な「文字」が刻み込まれていたのだ。

それはかつて彼が鑑定し、あるいは秘密裏に隠匿してきた数々の禁忌写本の断片だった。

彼が見たもの、彼が「視覚」という手段で所有した知識のすべてが、今や彼の肉体をキャンバスとして、逆流するように皮膚の表面へと刷り込まれている。

視界が明滅する。

モニター群から噴き出した黒い液体は、床一面に広がり、鏡のような光沢を放っていた。

その墨の海の中に、アーサーは自分の姿を見た。だが、鏡面に映る自分は、苦悶に歪む中年男の姿ではなかった。

それは、全身を無数の「視神経」という名の糸で縛り付けられ、身動きが取れなくなった巨大な蛹のような怪物だった。


『アーサー。お前は「見る」ことで支配できると信じていたな』


再び、スピーカーから男の声が響く。

それは玄関に立つ「顔のない男」の意志が、博物館の電気信号と融合して発せられているようだった。


『だが、見るという行為は、対象と自己を「光」で接続する儀式に過ぎない。お前が深淵を覗き込んだその瞬間、深淵もお前の瞳孔という門を通って、お前の内側にその領土を刷り込んだのだ』


「黙れ……! 私は支配者だ! この博物館の、情報の王だ!」


アーサーは狂ったように叫び、デスクの裏側に隠された秘密のスイッチを押した。

ガコン、という重厚な機械音とともに、壁の一部が回転し、厳重に遮蔽された防護ケースが現れた。

その中に鎮座しているのは、彼がこの博物館で最も神聖視し、同時に最も恐れてきた収蔵品――「神の眼のスペルム・オクリ」であった。

それは一見すると、単なる青銅製の古い鏡に過ぎない。

しかし、その鏡面は「光を反射する」のではなく「光を増幅し、純化させる」という物理法則を無視した特性を持っていた。

かつて中世の神秘学者が、神の栄光を視覚化するために鋳造したと言われるその鏡は、あまりにも強烈な「真実」を映し出すがゆえに、目にした者を例外なく失明させてきた禁忌の品だ。


「これだ……。この純粋な光があれば、インクの闇など、影など……すべて焼き払える!」


アーサーは、自身の視力が失われる恐怖よりも、自己の認識が侵食される恐怖を優先した。

彼は厚手の防護サングラスを強引に装着し、震える手で鏡を取り出した。


「消えろ! 奈落の使いめ!」


アーサーが鏡を掲げ、執務室の強力なスポットライトをその鏡面へ向けた。

次の瞬間、物理的な衝撃を伴うほどの「純白」が、部屋を埋め尽くした。

それはもはや光という概念を超えていた。

音を消し去り、温度を奪い、空間の遠近感さえも白く塗りつぶす、暴力的なまでの視覚情報の氾濫。

床に広がっていた黒いインクが、じりじりと音を立てて蒸発し始める。

モニターの中に蠢いていた無数の「目」が、そのあまりの輝きに耐えきれず、墨を吐きながら潰れていく。


「ははは! 見ろ! 私の勝ちだ!」


アーサーは狂喜した。

白い世界の中で、彼は絶対的な優越感に浸った。影はない。

インクもない。

これこそが、彼が求めていた究極の「可視化」された世界だった。

しかし。

その白一色の沈黙の中で、コツ、コツ、という乾いた足音が聞こえてきた。

それは床のインクを気にする様子もなく、ゆっくりと、しかし確実に執務室へと近づいてくる。


「なぜだ……? なぜ歩ける? この光の中で、何も見えないはずだ!」


アーサーは鏡をさらに強く握りしめた。

執務室の扉が、ゆっくりと開く。

逆光、あるいはあまりにも強烈な順光によって、その人物の細部は判別できない。

ただ、輪郭だけが、世界を切り裂くナイフのように鮮明に浮かび上がっていた。

「顔のない男」――かつて倉本悠と呼ばれた「筆」が、そこに立っていた。

男はサングラスも、遮光装置も身につけていなかった。

そもそも、彼には光を感知するための眼球そのものが存在しない。

彼にあるのは、ただ滑らかな、光を一切反射しない「紙」のような顔の皮膚だけだった。


「光……?」


であったものの声が、アーサーの脳に直接、冷たい氷の粒を流し込むように響いた。


「アーサー・ウォルト。お前の求めた光は、ただの『空白』に過ぎない。強すぎる光は、情報を奪い、意味を剥ぎ取り、世界を未完成の画用紙へと還元するだけだ」


「来るな! 近寄るな!」


アーサーは鏡を男へ向けた。鏡面が「神の光」を収束し、悠の顔を直撃する。

だが悠はその光を浴びながら、平然と歩みを止めなかった。

彼の顔の皮膚は、強烈な光を吸い込めば吸い込むほど、より白く、より平坦に、そしてより「無」へと近づいていく。


「お前は、この鏡で真実を視ようとした。だが、鏡が映し出しているのは、お前自身の視神経が焼き切れる寸前に見た『最後の手記』だ」


「……え?」


アーサーは思わず、自分の手元にある鏡を覗き込んだ。

防護サングラス越しに見た鏡面。

そこには、純白の光の渦に混じって、驚くべきものが映っていた。

それは、アーサー・ウォルトの「脳の内部」だった。

彼の脳組織が、まるで精密な銅版画のように、網目状の線で詳細に描き出されている。

そして、その脳のシワの一つ一つに、あの版画と同じ「目」が、無数に寄生している。

脳が、見ている。

眼球という器官を介さず、脳そのものが、外界の深淵と直接接続され、その光景を「記憶」としてではなく「傷跡」として刻み込んでいるのだ。


「ああ……ああああああ!」


アーサーは鏡を床に叩きつけた。

——青銅製の鏡が、こんなに簡単に砕けるはずがない。

だが、鏡は粉々に砕け散った。

まるで、砕けることを待ち望んでいたかのように。

鏡は粉々に砕け散り、そこから増幅された光が四方八方に拡散した。

その光線が、執務室の壁を貫き、展示されていた古美術品たちを照射する。

光に打たれた彫像たちが、一斉に叫び声を上げた。

光が強すぎるがゆえに、影が「実体」となって剥離したのだ。

床に落ちた鏡の破片の一つ一つが、それぞれ異なる「地獄の断片」を映し出し、執務室は数千の異次元が交差するカオスへと化した。

その混乱の真っ只中で、悠は静かにアタッシュケースを開けた。

中から取り出されたのは、四枚目の門となるべき、まだ白紙に近い版画。


「アーサー。お前のその『肥大化した視覚』を、インクとして差し出せ。お前が視てしまったすべての禁忌、すべての恐怖を、この原版に定着させるのだ」


悠の手が、アーサーの顔へと伸びる。

その指先からは、黒い液体が生き物のように滴り、純白の世界に一筋の「真実の黒」を引いた。

アーサーの視界が、ゆっくりと暗転していく。

だが、それは救いとしての闇ではなかった。

彼の眼球が、脳が、そして存在そのものが、四枚目の門を刷り上げるための「インクの壺」へと変えられていく、永遠の消失の始まりだった。


砕け散った「神の眼の鏡」の破片は、もはや単なる青銅の礫ではなかった。

それは、空間という名の織物をずたずたに切り裂く、数千の「次元の覗き窓」であった。

アーサー・ウォルトは、膝をついたまま、自分が無限の「反復」の中に墜落していく感覚に襲われた。

床に散らばった鏡の破片の一片一片が、アーサーの絶望した貌を映し出している。しかし、その鏡像はどれ一つとして同じではない。

ある破片の中のアーサーは、眼球が数百の小さな蝿に変じて飛び散り、空っぽの眼窩から黒い液体を流している。

また別の破片の中では、彼の虹彩が迷宮のような幾何学模様へと組み変わり、自分自身の視神経という名の糸で全身を縫い合わされている。

さらに別の破片では、彼は「視る」という概念を剥奪され、ただの震える肉の塊として、巨大な「目」の化け物の胃壁に刷り込まれている。


「止めろ……見たくない! 私は、何も見たくない!」


アーサーは叫び、床を掻きむしった。

だが、彼が目を閉じれば閉じるほど、視覚情報は「瞼の裏側」に直接投影された。

鏡の破片から放たれる増幅された光は、彼の皮膚を透過し、眼窩の奥の視神経を直接灼き、脳髄に異界の光景を焼き付けていく。

それは「合わせ鏡の地獄」であった。

鏡像が鏡像を映し、恐怖が恐怖を増殖させる。アーサーという個体は、数千の破片の中に分散され、それぞれの破片が異なる「冒涜的な視覚体験」を彼に強制する。

彼の意識は、無限に連なる鏡の回廊を引きずり回され、自己という輪郭をズタズタに引き裂かれていった。

一方、現実世界の執務室において、であったものは、その混沌のただ中に静然と立ち尽くしていた。

彼の足元では、砕けた鏡の光が渦を巻き、狂気のリズムで明滅している。

だが、顔のない悠にとって、光も闇も等しく「無」であった。

彼にあるのは、ただ「深淵を定着させる」という意志の力だけだ。

悠はゆっくりと、執務室の壁際に据え付けられた重厚なプレス機へと歩み寄った。

それはアーサーが、かつて没収した禁忌の版画を自ら『刷り直す』ために特注した鋼鉄の怪物であった。

なぜこれほど巨大なものが必要だったのか、今となっては自分でもよく分からない。

ただ、手に入れた瞬間、奇妙な充足感があったことだけは覚えている。

悠はそのハンドルに手をかけ、愛撫するように撫でた。


「アーサー・ウォルト。お前は十分に視た。この博物館に集めた、数千年の呪詛と、数万の異界。それらはお前の脳という『原版』に、完璧な点描となって刻まれている」


悠の声が、鏡の地獄で喘ぐアーサーの魂を直接掴み上げた。


「今、その原版を『プレス』する時が来た。お前の視覚記憶、お前の網膜に焼き付いた地獄の残像を、すべてこの四枚目の紙へと転写する」


悠はアタッシュケースから、まだ白紙に近い四枚目の版画を取り出し、プレス機のベッドの上にセットした。

その紙は、まるでお腹を空かせた獣のように、周囲の光を吸い込んで鈍く波打っている。

悠は、虚空を掴むような動作をした。

すると、合わせ鏡の地獄に閉じ込められていたアーサーの「実体」が、まるで目に見えない糸で操られるマリオネットのように、ズルズルとプレス機の上へと引きずり出されていった。

アーサーの肉体は、物理的な質量を失いつつあった。彼の存在は、強烈な光によって影と化した「情報の集積体」へと変質していた。

悠は、アーサーの頭部をプレス機のローラーの直下に固定した。


「ああ……ああああ! 止めろ! 脳が、脳が押し潰される!」


アーサーの魂の叫びが、執務室の空気を振動させる。

悠は無表情のまま(そもそも表情など作れないが)、巨大なハンドルを回し始めた。

ギィ……ギィ……。

鋼鉄が軋む音が、アーサーの頭蓋骨を、そして精神の深部を直接圧迫していく。

ローラーがアーサーの額に触れた瞬間、彼の網膜から「閃光」が噴き出した。

それは彼がこれまでの人生で視てきたすべての光、すべての映像、そしてこの博物館の監視カメラが捉えてきた膨大な「視覚データ」の奔流であった。

それらの情報は、ローラーの圧力によって強制的に液体化され、四枚目の版画へと押し流されていく。

白紙だった紙面に、凄まじい速度で「線」が描き込まれていく。

それは、数千万の「目」が重なり合い、巨大な一つの「真理」を形作ろうとする構図であった。

アーサーの脳が、一段階ずつ「平面的」になっていく。

彼の思考、彼の恐怖、彼の館長としての誇り。それらがインクへと還元され、紙の繊維の奥深くへと定着していく。

一回転、また一回転。

ハンドルが回るたびに、アーサーの身体からは「奥行き」が奪われ、彼は自身の博物館の床に落ちた、ただの「影」のような存在へと薄まっていく。


「視ることは、侵食されることだと言ったはずだ、アーサー」


悠の声が、遠くなる意識の中で響く。


「お前は、この四枚目の門――『万物を見通す監視者』の一部となる。お前の目は、これから永遠に、この版画を手に取る者を監視し続けるのだ」


プレス機の最終工程が完了しようとしていた。

アーサーの視界は、ついに完全な「一次元」へと収縮した。彼はもはや自分自身の身体を感じることはできなかった。彼はただ、四枚目の版画という小さな四角い宇宙の中に、無数の「点」の一つとして、永遠に固定されたのだ。

プレス機のローラーが通り過ぎた後。

そこには、もはやアーサー・ウォルトという男の姿はなかった。

ただ、プレス機のベッドの上に、一枚の完成された版画が、湿ったインクの匂いを放って横たわっているだけだった。

描かれていたのは、暗黒の回廊が無限に続く「合わせ鏡の館」。

その鏡の一枚一枚に、絶望に顔を歪めたアーサー・ウォルトの貌が刻まれ、中央の巨大な瞳が、紙面からこちらを――この版画を手に持つ「次なる犠牲者」を、爛々と見開いて待ち構えていた。

悠は、出来上がったばかりの、まだ濡れている四枚目の版画を指先で摘み上げた。

彼の指先に触れた瞬間、版画の中のアーサーの瞳が、憎悪と恐怖を込めてギロリと動いた。だが、悠はそれを意に介さず、丁寧にアタッシュケースへと収めた。

一枚目:触手。

二枚目:尖塔。

三枚目:顔のない署名者。

四枚目:虚妄の監視者。


「……あと、五つ」


悠は静かに執務室を後にした。

彼の背後で、ウォルト私立オカルト博物館のすべての照明が、一斉に音を立てて弾け飛んだ。

博物館は完全な静寂と闇に包まれた。

だが、その闇の中には今や数え切れないほどの「目」が、新しいあるじの命令を待つように、一斉に開眼していた。

マサチューセッツの霧深い森を、顔のない男が歩いていく。

彼の足跡は、もはや雪の上にインクを落とすことはなかった。

彼は今や、世界というキャンバスの上を歩く「透明な消失点」そのものであった。

ここまで読んで頂きありがとうございます

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