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深淵の九つの門-クトゥルフの墨痕  作者: 一一一
第二章 虚妄の館
6/13

前編

いつも読んで頂きありがとうございます。

第二章は前後編となっております。

よろしくお願いします

マサチューセッツ州、エイルズベリー。

ボストンから北西へ数十マイル、地図上では点のようにしか記されていないその古い町は、常に灰色の霧に包まれていた。

湿り気を帯びた森の奥深く、鉄錆びた門の先に、アーサー・ウォルトが館長を務める「ウォルト私立オカルト博物館」は鎮座している。

アーサー・ウォルトは、執務室の重厚なデスクに座り、卓上ランプの淡い光の中で目を細めた。

彼は光を愛していた。

正確には、暗闇の中に潜む「理解不能な何か」を排除するために、強力なハロゲン灯やLED、防犯カメラを館内の隅々にまで配し、全領域を可視化することに執着していた。

それは知的な探究心というよりは、神経症に近い自己防衛本能だった。


「……また、郵便か」


アーサーは、デスクに置かれた一通の大きな封筒を見つめた。

差出人の名はなく、消印はポルトガルのリスボン。

アーサーは封筒を裏返した。

消印の日付は……三日前?

彼はデスクの新聞に目をやった。

そこには「リスボン郊外の古城、謎の炎上」という小さな記事があった。

火災が起きたのは、まさにこの封筒が投函された日だ。

奇妙な符合だ、とアーサーは思った。

彼がこの博物館を引き継いでから、世界各地から奇妙な寄贈品や鑑定依頼が届くことは珍しくなかった。

呪われた石像、血で汚れた日記帳、出所不明の偶像。アーサーはそれらを冷徹に分類し、強力な防犯システムの監視下に置くことで、自らの支配下に置いたと錯覚することに喜びを感じていた。

だが、このリスボンからの封筒は、触れる前から異質な気配を放っていた。

封筒の表面には、微かに「潮の臭い」が染み付いている。

いや、それは単なる潮臭さではない。

数万年の時を経て腐敗した何か、あるいは、深海の底で泥にまみれた古いインクの、鼻腔を刺すような独特の芳香だった。

アーサーは銀のペーパーナイフを手に取り、封を切った。

中から現れたのは、一枚の厚手の紙だった。

それは、一見すると非常に精緻な風景を描いた版画のように見えた。

だが中央の構図を視認した瞬間、アーサーの眼球に、氷の針を突き立てられたような鋭い痛みが奔った。


「……これは……なんだ?」


版画に描かれていたのは、巨大な、あまりにも巨大な「目」であった。

単一の目ではない。

無数の細い触手が網目状に広がり、その交点の一つ一つに、異形の瞳がびっしりと描き込まれている。

瞳孔の形は様々だった。

人間のそれのように円形のものもあれば、山羊のように横長のもの、あるいは幾何学的な多角形を描くもの。

そして、それらの瞳のすべてが、紙面の中から「外側」を――つまり、アーサー・ウォルト自身を凝視していた。

アーサーは思わず版画をデスクに放り出した。

心臓が不規則なビートを刻み、喉の奥がカラカラに乾く。

長年、数々の禁忌とされる品々を扱ってきた彼でさえ、これほどまでに「見られている」という剥き出しの不快感を覚えたことはなかった。

彼は呼吸を整え、自らを落ち着かせるために壁一面に設置されたモニター群へ視線を移した。

そこには、博物館内の全展示室、全通路を映し出す十六分割の監視カメラ映像が並んでいる。

赤外線暗視モードで映し出される無機質な映像。これこそが彼の「正気」を支える防壁だった。

機械の目は嘘をつかない。

カメラが捉えている範囲内であれば、世界は予測可能であり、安全であるはずだった。

だが。


「……ん?」


モニターの一つ、第三展示室を映す画面の隅に、違和感を覚えた。

展示されている古い航海日誌のケースのすぐ横。

本来なら何もないはずの白い壁に、黒い「点」が一つ、染みのように現れていた。

アーサーは身を乗り出し、ズームの操作ダイヤルを回した。

ノイズが走り、画面が拡大される。

そこにあったのは、ただの汚れではなかった。

それは、今まさにデスクの上にある版画に描かれていた「瞳」と寸分違わぬ形をした、墨のような質感の「目」であった。

瞬きはしなかった。

ただ、レンズ越しにアーサーの瞳を、網膜を、脳の奥底を射抜くように凝視している。


(バカな。カメラのレンズの汚れか? それとも映像信号のバグか?)


アーサーは必死に合理的な説明を探した。

だが、その「目」は一つではなかった。

別のモニター――第一展示室、エントランス、地下収蔵庫への階段。

一つ、また一つと、モニターの中に「目」が増殖していく。

それは壁から、天井から、あるいは展示品の偶像の眉間から、あたかも皮膚の下に溜まっていたインクが表面に噴き出してきたかのように、じわじわと開いていく。

そして、最も恐ろしいことが起きた。

モニターの中の「目」たちが、一斉に動いたのだ。

それらは画面を無視し、監視カメラという「機械の視点」そのものを乗っ取ったかのように、アーサーの動きに合わせて左右に、上下に、不気味に蠢き始めた。


「誰だ! 誰がシステムをハッキングした!」


アーサーは怒鳴り、コントロールパネルを叩いた。

だが、返ってきたのはシステムエラーの無機質なビープ音ではない。

スピーカーから漏れ出したのは、湿った紙が擦れ合うような、カサカサという音。

そして、水中に深く沈められた男が発するような、籠った、不鮮明な声だった。


『……視ることは、侵食されることだ』


「何だと……?」


『アーサー・ウォルト。お前は光を追い求め、すべてを見ようとした。だが、光が強ければ強いほど、その裏側に潜む影は、より深く、より鋭く、お前の眼球を原版として刻み込まれる』


アーサーは椅子から転げ落ちるように立ち上がった。

足元を見ると、デスクの上に置いたはずの版画から、黒いインクが滝のように溢れ出し、床に広がっていた。

そのインクは、単なる液体ではなかった。床を這い回るたびに、それは細い毛細血管のようなハッチングを描き、執務室のフローリングを、巨大な一枚の「版」へと作り替えていく。


「止めろ……私の領域を汚すな!」


アーサーはデスクの引き出しから、護身用の強力な懐中電灯を取り出した。

千ルーメンを超える強烈な光が、執務室の闇を切り裂く。

だが、光が当たった場所こそが、皮肉にも最も鮮明な「影」を作り出し、そこから新たな「目」が、孵化するように次々と開眼していった。

壁に掛けられた歴代館長の肖像画たちが、一斉に目を見開く。

彼らの瞳はすでに油彩の色を失い、ドロリとした漆黒のインクに置き換わっていた。

ズル……ズル……、廊下の向こうから、何かが這いずる音が聞こえてくる。

それは、一人の男が歩く音ではなかった。

何千、何万という「視線」が物理的な重みを持ち、床を削りながら押し寄せてくる音。

アーサーは、自身の防犯システムのモニターが、一枚ずつ「黒」に塗りつぶされていくのを見た。

いや、塗りつぶされているのではない。

モニターの向こう側にいる「何か」が、こちら側――現実の世界へと、墨の膜を突き破って手を伸ばそうとしているのだ。


「……顔のない男。お前が、お前が来たのか」


アーサーは震える指で、唯一まだ正常な映像を映している監視カメラの画面を指差した。

そこには、博物館の正面玄関に立つ、一人の男の姿があった。

黒いスーツを纏い、片手にアタッシュケースを持った、背筋の伸びた男。

だが、監視カメラの高度な顔認識システムは、その男の顔を捉えることができなかった。

画面上のターゲットマークは激しく点滅し、エラーメッセージを吐き出し続けている。

なぜなら、その男には、認識されるべき「顔」がなかったからだ。

そこにあるのは、滑らかな、真っ白な紙のような平面。

男がゆっくりと顔(と呼べる場所)をカメラの方へ向けた。

その瞬間、博物館内の全モニターから、一斉に黒い液体が噴き出した。


「あああああああッ!」


アーサーは眼球を抑えて叫んだ。

彼の視界の中で、現実の風景が「点」と「線」に分解されていく。

光を愛した男の網膜は、今や深淵のインクによって強制的に露光され、この世ならぬ地獄の版図を、永遠に焼き付けようとしていた。


ここまで読んで頂きありがとうございます

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