第四話
いつも読んで頂きありがとうございます。
これで第一章は終了です。
第二章は少し短いでずか、三章へ続く物語と思っていただければ幸いです。
カクヨムでも同名で投稿しておりますので、そちらもよろしくお願いいたします
吹雪が古城の窓を突き破り、広間は極寒の白と、不浄な墨の黒が混じり合う混沌の戦場へと変貌した。
倉本悠は、石床に這いつくばりながら、自身の胸から溢れ出す黒い液体を凝視していた。
それはもはや血液ではない。
粘り気を帯び、潮の香りを孕んだそのインクは、悠の命を吸い上げるたびに、三枚目の版画の上で蠢く「顔のない男」に精緻な陰影を与えていた。
「どうした、倉本。筆が止まっているぞ」
眼前に立つ「影の悠」の声は、今や空調の唸りや、吹雪の咆哮と完全に同化していた。影の男の輪郭は、版画の線が激しく揺らぐように振動し、その存在そのものが、現実の空間を削り取る腐食液のように機能している。
悠は、自らの正気が、引き波に攫われる砂の城のように崩れ去るのを感じていた。
正気を繋ぎ止めるための「論理」も、「記憶」も、もはやここにはない。あるのは、ただ一つの問いだけだ。
――どちらが本物か。
悠は、もはや躊躇のない手で、足元の真鍮製の燭台を掴んだ。その先端には、青白い炎が細く灯っている。
「火だ……」
悠の乾いた唇から、掠れた声が漏れた。
「欺瞞を、焼き払う。お前も、この忌まわしき版画も……すべて、灰に還してやる」
影の悠が、歪な笑みを浮かべた。
「火だと? 愚かな。お前はすでに、真実を『刷り込まれる』側なのだ。お前が火を放てば、お前のこれまでの人生という名の版図も、すべて消失するぞ」
「構わない……! もはや、私に守るべき人生など残ってはいない!」
悠は叫び、渾身の力で燭台を床に投げつけた。
燭台は、インクと海水で濡れた絨毯の上で激しく火花を散らし、次の瞬間、爆発的な勢いで燃え上がった。
だが、その炎は異常だった。
通常の赤や黄色ではない。
それは、墨の海を燃料にするかのような、不気味な黒紫色の炎。
炎が立ち上るたび、城の壁面に刻まれたエッチングの線が、熱に焼かれて歪み、剥がれ落ちていく。
「アアアア……ッ!」
影の悠が、耳を劈くような悲鳴を上げた。
彼の平面的な肉体が、火に炙られた紙のように丸まり、焦げ茶色に変色していく。
影の男の手首が、そして足首が、灰となって崩れ、広間の空中に舞い上がる。
だが、悠自身も無事ではいられなかった。
火の象徴が欺瞞を焼き払うとき、それを目撃している者もまた、相応の対価を支払わねばならない。悠の視界が、火の熱によって溶解していく。網膜に焼き付いた色彩が、版画の線の中に溶け出し、彼の「自己」という像を維持するための輪郭線が、熱で引きちぎられていく。
激しい熱気と、窓から吹き込む極寒の雪、そして床から噴き出す海水。
火と水の相反する力が、悠の肉体を「版」として、凄まじい圧力でプレスし始めた。
「私は……誰だ……」
悠は、炎の中で手を伸ばした。
目の前には、三枚目の版画が、炎に巻かれながらも無傷のまま浮かんでいる。
描かれた「顔のない男」の顔面。
そこには、今や影の悠でも、ましてや以前の倉本悠でもない、何かが定着しようとしていた。
悠は、その白紙の顔面に向けて、自らの右手を突き立てた。
指先から、魂の最後の一滴を絞り出すようにして、インクをなすりつける。
(完成させろ。私が、これを完成させるのだ。私がこの門の主であることを、証明するために……!)
その瞬間、悠の脳裏に、かつてない強烈なヴィジョンが奔った。
それはルルイエの深海。巨大な、それこそ大陸ほどもある黒い神格が、自らの腕を一本の「筆」として、地球という名の星に狂気の署名を刻み込んでいる姿。
鑑定士。
その職業的矜持が、音を立てて砕け散った。
鑑定士とは、真贋を見極める者ではなかった。
鑑定士とは、その人生というインクを使い、深淵の神格がこの世を「再定義」するための、使い捨ての筆に過ぎなかったのだ。
「あ、は……ふふ……」
悠の口から、笑いが漏れた。
それはもはや人間の感情によるものではなかった。ただの機能的な、共鳴。
炎が最高潮に達し、広間の天井が崩落した。
降り注ぐ石材と火の粉の中で、悠は見た。
三枚目の版画の署名欄。
そこに、真っ黒なインクで、一文字だけが刻まれるのを。
『U』
悠(YU)の最後の一文字か。
あるいは、深淵の言葉で「受け入れ」を意味する象形か。
悠の顔から、完全に「造作」が消えた。
目があった場所は滑らかな皮膚で覆われ、口があった場所はインクを吸い込む孔へと変わる。
彼はもはや、倉本悠という人間ではなく、九つの門を開くための、生きた「署名」へと昇華したのだ。
爆発的な光が空間を包み、すべてが白へと、そして完全なる黒へと収束していった。
……。
ピレネーの雪原に、沈黙が戻った。
古城は跡形もなく消え去り、そこにはただ、焦土となった円形の跡だけが残されていた。
雪の上に、一つの黒いアタッシュケースが、まるで最初からそこにあったかのように静かに置かれていた。
ケースの横に、一人の男が立っていた。
男はスーツを纏い、背筋を伸ばしていたが、その顔には何の表情もなかった。
いや、そもそも「顔」と呼べる器官が存在しなかった。
滑らかな、一枚の紙のような皮膚。
男は無造作にケースを拾い上げると、足跡一つ残さずに雪原を歩き出した。
その歩みは、目的地を知っている者の迷いのないものだった。
アタッシュケースの中。
三枚の版画は、重なり合い、共鳴し、熱を放っていた。
一枚目:触手。
二枚目:尖塔。
三枚目:顔のない署名者。
残る門は、あと六つ。
男――かつて倉本悠と呼ばれた「筆」は、次の門を目指して、夜の闇へと消えていった。
ピレネーの山嶺を吹き抜ける風が、古城の残骸から立ち上る黒い煙を無慈悲に散らしていく。
かつて「シャトー・ド・ノワール」が聳え立っていた場所には、雪が溶け、岩肌が露わになった巨大な円形の虚無だけが残されていた。
その円の中心に立つ男の輪郭は、周囲の風景から切り取られたかのように鋭利で、その存在そのものが現実という空間に落ちた「染み」のように見えた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、雪の上に落ちていた黒いアタッシュケースを拾い上げる。
その動作には、人間が持つ生理的な揺らぎが一切なかった。
関節は油を差した機械のように無機質に動き、背筋は重力に抗う筆の芯のように真っ直ぐであった。
彼は自らの「顔」に触れた。
そこには、かつて鑑定士として名声と欺瞞を使い分けていた眉も、冷笑を浮かべていた唇も、真実を追い求めた瞳もなかった。
ただ、冷たく、滑らかな皮膚が、眼窩も鼻孔も覆い尽くしている。
倉本悠という個体は、あの黒紫色の炎の中で死んだのだ。
今ここに立っているのは、九つの門の三つ目——「顔のない署名者」の役割を終え、次の深淵を記すために削り出された、生きた筆であった。
その時、コートのポケットの中で、スマートフォンの振動が伝わってきた。
悠――いや、その抜け殻は、迷いのない動作で端末を取り出し、耳のない側頭部へと押し当てた。
電話の向こうから響いてきたのは、あの無機質な合成音ではなかった。
それは、かつて悠が聞き慣れていた、自分自身の「若き日の声」だった。
まだ野心に燃え、鑑定という行為に純粋な興奮を覚えていた頃の、澄んだ倉本悠の声。
『……三枚目の門を潜った気分はどうだ、倉本。いや、もはや名前など無意味か』
悠は答えなかった。いや、答える必要がなかった。
口のない彼の思考は、既に電気信号として端末を通じ、深淵へと直接流れ込んでいたからだ。
『お前は、自分が鑑定士だと思っていた。だが実際には、お前こそが最も精密に作り上げられた「偽物」だったのだ。佐藤を破滅させたあの時から、お前の人生という版図は、神話のインクで少しずつ上書きされていた』
「自分自身の声」が、冷酷な真実を告げる。
『お前が手に入れた三枚の版画……それは、お前という人間を構成していた「身体」「記憶」「自我」の剥製だ。お前はそれらを一枚ずつ門に捧げ、代わりに深淵の署名者としての地位を得た』
悠はアタッシュケースを強く握りしめた。
ケースの中では、三枚の版画が呼吸を合わせるように熱を放っている。
一枚目:九本の触手が理性を引き裂く「自我の崩壊」。
二枚目:記憶をインクに変えて定着させる「過去の消失」。
三枚目:個体としての顔を失い、署名へと変わる「存在の完了」。
『次は、海を渡れ。アメリカの森の奥、沈黙の館に四枚目の門が待っている。そこには、視覚という概念そのものを憎み、光を拒絶する男がいる』
「……」
『行け。お前が九つの門をすべて揃えたとき、世界という名の原版は、大いなる神格の意志によって「再定義」されるだろう。そのとき、お前の失われた顔も、記憶も、すべては深淵の黒の中に永遠に救済される』
通話は切れた。
悠はスマートフォンを雪の上に落とした。
薄氷が割れるような音とともに端末は砕け、その破片もまた、微かな黒い煙を上げて消滅した。
彼は歩き出した。
ピレネーの険しい山道を、一歩、また一歩と踏みしめていく。
彼の足跡は、雪の上に黒いインクの染みを残していた。
それはまるで、彼が歩くたびに世界という地図の上に、誰にも読めない神話の文字を書き記しているかのようだった。
彼はリスボンの空港へ、そしてそこからアメリカへと向かう。
もはや、パスポートも、名前も必要なかった。
彼の「顔のない顔」を見た空港の職員や乗客たちは、その瞬間、視覚認識の深部を版画の線によって書き換えられ、彼を「透明な影」としてしか認識できなくなるからだ。
正気という名の光を失い、完全なる狂気の暗黒を視界とした彼にとって、世界はもはや色鮮やかな舞台ではなかった。
すべては、白と黒の、鋭利な線と濃密な陰影だけで構成された「腐食された版画」であった。
空はひび割れた紙、海は溢れ出した墨の池、人々は紙面に固定された震える点描に過ぎない。
悠は自らの胸の奥で、新たな『渇望』が芽生えるのを感じていた
それは鑑定士としての金欲でも野心でもない。
ただ、残りの六枚を揃え、自分という筆を使い果たし、この不完全で醜悪な現実を、完璧なる「深淵」で塗りつぶしたいという、根源的な破壊衝動。
第一章:深淵の墨痕――それは、倉本悠という一人の人間が、宇宙的恐怖の「筆記具」へと堕ちていくまでのクロニクルであった。
彼はリスボン行きの列車に乗るため、麓の駅へと向かった。
駅舎の鏡に映った自分の姿を、彼は(目がないにもかかわらず)直感的に捉えた。
そこに映っているのは、一人の男の形をした「穴」だった。
背景の風景がその穴の中に吸い込まれ、渦を巻き、九本の触手の影を形作っている。
「……」
悠は、自分の『署名』が世界そのものを侵食し始めていることに、言葉を持たぬ充足感を覚えた。
正気という足枷を捨て去った者にしか見えない、真実の景色。
彼はアタッシュケースを抱え直し、これから始まる第二の旅路へと想いを馳せた。
四枚目の門。
マサチューセッツ州、エイルズベリー。
そこに、第二章の主人公、アーサー・ウォルトが待っている。
オカルト博物館の館長であり、光を愛しながら、光の中に潜む「影」に怯える男。
悠は静かに、列車を待つベンチに腰を下ろした。
彼の影は、プラットホームのコンクリートをじわじわと腐食させ、そこにかつてないほど精緻な「クトゥルフの紋章」を描き出していった。
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