第三話
いつも読んで頂きありがとうございます。
カクヨムでも同名で投稿しており、更新頻度はそちらが早いと思います。
引き続き、よろしくお願いいたします。
ピレネーの山嶺は、版画の余白のような白に閉ざされていた。
リスボンの湿った熱気から遠く離れ、倉本悠はフランス国境に近い断崖に立つ古城「シャトー・ド・ノワール」へと辿り着いた。
吹き荒れる雪は視界を奪い、凍てつく風は肺の奥まで凍らせる。
だが、悠が感じる寒さは、物理的な気温によるものではなかった。アタッシュケースの中で二枚の版画が共鳴し、彼の魂から熱を奪い、代わりに冷徹な「黒」を流し込んでいるのだ。
城の門は、招かれるのを待っていたかのように重々しく開かれた。
内部は、外の極寒とは裏腹に、不気味なほどの静寂と停滞した空気に満ちていた。燭台に灯された炎は、酸素を拒むかのように青白く揺れ、壁に掛けられた数々の肖像画の瞳が、侵入者である悠を一斉に射抜く。
「……ここまで来たか、倉本」
広間の奥、暖炉の前に座る影が声を上げた。
その男は、三枚目の版画を所有する城主、ジャン・ヴァランティーヌではなかった。
城主は既に城の壁に刷り込まれ、ただの模様と化していた。
その声、その背幅、そして独特の硬質な呼吸音。
椅子がゆっくりと回転し、男が姿を現した。
悠は肺から空気がすべて抜け落ちるような衝撃に襲われた。
そこにいたのは、自分だった。
仕立てのいいスーツ、神経質そうな眼鏡の縁、そして記憶を奪われ、狂気の淵に立ちながらも「鑑定士」としての傲慢さを失っていないその顔。
それは紛れもなく、倉本悠そのものだった。
だが、目の前の男の肌は、まるで上質な版画用紙のように白く、その輪郭には鋭利なインクの線が幾層にも重なっている。
「お前は……誰だ」
悠の声が、氷の床に落ちて砕けた。
「私が誰か? 愚問だな」
影の悠は、歪んだ笑みを浮かべて立ち上がった。
「私は、お前がリスボンで切り捨てた『正しき鑑定士としての自尊心』だ。お前は記憶を売り、神話に魂を売った。だが、私は違う。私は、この三枚目の門を正しく鑑定し、深淵を支配するためにここにいる」
影の男の手元には、三枚目の版画が置かれていた。
描かれているのは、鏡を覗き込む『顔のない男』。
蠢く触手の群れを背景に、次元を裂いて現れるクトゥルフの巨大な影が、完成を待つ『署名』のように鎮座している。
「鑑定を始めよう、倉本。どちらが真の鑑定士か、どちらがこの門を潜るに相応しい『本物』か」
影の悠が指を鳴らすと、広間の壁が異様な音を立てて波打ち始めた。
漆喰が剥がれ、そこから巨大な銅版が剥き出しになる。
それは城の壁そのものが「エッチングの原版」と化した、巨大なプレスの檻であった。
「三枚目の門の試練は、真贋鑑定だ。
ただし、使うのは言葉ではない。自分自身の肉体だ」
影の悠は、テーブルから一本の鋭利な彫刻刀を取り出し、自らの左腕の皮膚を躊躇なく切り裂いた。
傷口から流れたのは、赤い血ではなく、粘性を帯びた濃密な黒いインクだった。
「この版画の構図は未完成だ。この白地に、自らの『真実』を刻み込み、最後に残った方が三枚目を得る。偽物は、ただの汚れとしてこの城に刷り込まれるだけだ」
悠の視界が歪んだ。正気の防壁が、雪崩のように崩落していく。
彼は気づいた。この城自体が、一つの巨大な「版画製作所」であり、自分たちはその中に閉じ込められた「材料」に過ぎないのだと。
暖炉の火が激しく燃え上がる。
その「火」は、悠の脳内にある欺瞞を焼き払おうとし、同時に、開け放たれた窓から吹き込む雪解けの「水」が、彼の輪郭を溶かそうと迫る。
「……いいだろう」
悠は、自らのポケットから、鑑定用のピンセットとメスを取り出した。
もはや、逃げ場はない。
彼は自分の指先が、すでに感覚を失い、冷たい金属へと変質し始めているのを感じていた。
「鑑定を始める。私が『本物』であることを、この黒で証明してやる」
悠は、自らの腕をめくり、鋭い刃を突き立てた。
激痛が走る。だが、その痛みこそが、自分がまだ生きていることを証明する唯一の「真実」に思えた。
傷口から溢れ出したインクが床に滴り、影の悠のインクと混ざり合いながら、三枚目の版画へと吸い込まれていく。
鑑定士としての誇りと、クトゥルフの狂気が、極寒の古城で激突した。
彫刻刀が皮膚を裂く音は、凍てついた広間に響く悲鳴のようだった。
「どうした、倉本。筆致が乱れているぞ。その程度では、深淵という名の原版に耐えうる『真実』は刻めない」
影の悠が嘲笑う。
彼の腕からは、淀みない墨汁が溢れ出し、それが空中で生き物のように脈打ちながら三枚目の版画へと吸い込まれていく。
影の男が肉を削るたび、版画の中の「顔のない男」の輪郭が、より鮮明に、より禍々しく浮き上がっていく。
悠は激痛に視界を真っ赤に染めながら、自らの前腕を深く抉った。
肉を削ぐたびに、自分の人生が失われていく。幼い頃の記憶、鑑定士としての矜持——それらが黒いインクとなって体外へ流れ出す。
「……黙れ。お前こそ、ただのインクの染みに過ぎない」
悠の喉から出た声は、もはや人間のそれではなく、錆びたプレス機が軋むような金属音だった。
彼は気づいていた。
この「鑑定」が進むほど、自分と影の男の境界が消滅しつつあることに。
二人の流すインクは床で混ざり合い、九本の触手が絡み合う巨大な紋章を描き出している。
その時、城の地下から、地鳴りのような響きが上がった。
ズル……ズル……、あの不浄な肉塊が石床を這いずる音。
広間の床に敷かれた絨毯が黒く変色し、その下から無数の、湿った「手」が突き出してきた。
それは、かつてこの城で「鑑定」に敗れ、版画の紙片へと変えられた過去の亡霊たち――クトゥルフに魅せられた鑑定士たちのなれの果てだった。
「見ろ、倉本。失敗作たちが、新しい『版』を求めて集まってきたぞ」
影の悠が腕を広げると、彼自身の肉体が急激に薄くなり始めた。
服の皺が鋭いハッチングの線に変わり、立体的な厚みが奪われていく。
影の男は、すでに人間であることをやめつつあった。
三枚目の版画を完成させるための『生きた原版』へと変貌していく。
悠の正気は、激流に晒された砂の城のように崩れ去っていく。
視界が二次元化していく。
奥行きが消失し、暖炉の火も、窓から吹き込む雪も、すべてが紙に描かれた背景のように平面的に見え始める。
(私が消える……インクの中に、取り込まれていく)
悠は最後の力を振り絞り、自らの胸元を深く切り裂いた。心臓の鼓動を、直接インクとして版画に叩きつけるためだ。
「私は……倉本悠だ! 偽物を暴き、真実を裁く鑑定士だ!」
その叫びとともに、悠の胸から噴き出したインクが、三枚目の版画の中央へと奔った。
版画の中に描かれた「顔のない男」の顔に、悠の絶望的な形相が、一瞬だけ浮かび上がった。
だが、それと同時に床に広がる黒い染みから、影の手が伸び出て悠の足首を掴んだ。
影たちは冷たい海水とインクの臭いを放ちながら、彼を『二次元の裂け目』へと引きずり込もうとする。
「審判の時だ、倉本。どちらが、神格の署名として相応しいか」
影の悠の手が、悠の喉元を掴んだ。
その指先はもはや肉ではなく、鋭利な鋼鉄のビュランと化していた。
広間の隅、開け放たれた窓からは、吹雪に混じって黒い海水が流れ込み始めていた。
古城そのものが、深淵の重圧に耐えきれず、一枚の薄い紙へと圧縮されようとしている。
悠は薄れゆく意識の中で、三枚目の版画の隅を見た。
そこには、まだ署名がない。
それは未完成で、最後の一画を欠いている。
その掠れた線の端は、まるで『S』という曲線から逸脱し、別のアルファベットへと歪もうとしているかのようだった。
彼か、あるいは影の男か。どちらかの命が最後の一滴まで絞り出されたとき、九つの門の三つ目が、完成という名の終焉を迎える。
悠の指先から、感覚が消えた。
彼は、自分が自分であるという最後の証明――その「名前」さえも、インクの深淵に溶け出していくのを、ただ拒絶することさえできずに受け入れていた。
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