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深淵の九つの門-クトゥルフの墨痕  作者: 一一一
第一章 深淵の墨痕
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第一話

読んで頂きありがとうございます。

カクヨムでも同名で投稿しており、そちらが更新頻度として早い場合も多いので、よろしくお願いいたします

深夜の成田空港を飛び立ったポルトガル航空302便は、高度三万フィートの雲海を滑空していた。


機内を支配しているのは、微かなエンジンの重低音と、空調の吹き出し口が吐き出す乾いた空気の音だけだ。

キャビンの照明は落とされ、乗客たちの多くは毛布にくるまって、泥のように重い眠りに沈んでいる。外界から遮断されたこの鋼鉄の繭は、夜という名の深海を漂う潜水艦のようでもあった。


倉本悠は、窓側の座席で膝の上に置いたアタッシュケースを、まるで壊れやすい骨壺でも抱くようにして固く握りしめていた。

ケースの中には、あの版画が収められている。

彼は自身の心臓とは別の、わずかにズレた『脈動』を指先に感じ取っていた。

ドクン、という一定の周期ではない。

それは不定形で、時折、何かが粘つく液体を押し流すような、不快な蠢きを伴っている。


(気のせいだ。高度による気圧の変化に、私の神経が過敏になっているだけだ)


彼は自分自身にそう言い聞かせ、乾いた喉を潤そうと、備え付けの紙コップの水を啜った。

だが、その水さえも、舌の上でどこか粘り気を帯びているように感じられ、胃の奥に鉛のような冷たさを残した。


ふと、隣の座席に視線を向けた。


そこには、中年と思しき白人男性が座っている。彼はヘッドホンを耳に当て、機内エンターテインメントの画面をじっと見つめていた。その横顔を眺めていた悠は、背筋に奇妙な粟立ちを覚えた。

男の頬の皮膚が、ゆっくりと、しかし確実に波打っている。


いや、それは波打っているのではない。

薄い皮膚の下を、髪の毛ほどの細さの「黒い線」が這い回っているのだ。

版画のエッチング技法、それも鋭利なビュランの先で刻まれたような、精緻で容赦のない黒い線。

それが男の毛細血管を侵食し、複雑な幾何学模様を描き出していく。

男は気づいていないのか——あるいは既に感覚を失っているのか——無表情に画面を見つめ続けている。


悠は激しい眩暈を覚え、現実を繋ぎ止めようと正面のモニターへ視線を逸らした。

ありふれた映画の色彩、無機質な地図——何でもいい、正常な光景が欲しかった。

だが、そこに映し出されていたのは、あらかじめ用意されたコンテンツではなかった。


『鑑定報告書:佐藤家所蔵・ルネサンス期版画について』


青白い光を放つ液晶画面に、見覚えのある書式が表示されている。

それは数年前、彼が佐藤誠一を破滅させるために、事実を歪め、言葉のナイフで塗り固めた「偽りの鑑定書」だった。

かつて自分のデスクで打ち込んだ、欺瞞に満ちた文字の羅列が、今、高度三万フィートの虚空で彼を糾弾している。


画面の中の文字が、じわじわと滲み始めた。


あたかも大量の涙を含んだインクが滴るように、文字の輪郭が崩れ、画面の下へと黒い尾を引いて流れ落ちていく。

そして、空白となった画面に、新たな、そして決定的な一文が浮かび上がった。


『真実を拒む者に、光を見る資格はない』


「誰だ……誰の仕業だ」


悠は喉の奥で呻き、モニターの電源ボタンを何度も叩いた。

指先が画面に触れるたび、液晶の裏側から冷たい粘液が染み出し、彼の指を汚していく感覚がある。

だが、画面は消えない。それどころか、機内に並ぶ数百台のモニターが、同期したかのように一斉に同じ光を放ち始めた。


暗闇に包まれたキャビンの中で、何百もの「偽りの報告書」が、悠を嘲笑うように青白く明滅している。

その光は不規則なリズムを刻み、悠の網膜を灼く。


悠は逃げるように通路へ視線を投げた。


そこで彼は、自らの理性の糸が、ぷつりと断ち切られる音を聞いた。

眠っているはずの乗客たちの背中から、静かに、そして執拗に『黒い線』が伸び始めていたのだ。

それは細い糸のようなインクの筋となり、座席のモケットを伝い、床のカーペットを這い、キャビンの壁を侵食していく。あたかも、この飛行機の内部全体が、一枚の巨大な版画の紙面へと書き換えられていくかのようだった。


ズル……ズル……、壁の隙間、あるいは天井のダクトから、あの湿った音が聞こえてくる。


それは、重い肉塊が、鋼鉄の外壁を外側から撫で回しているような音。

あるいは、巨大な吸盤が金属に吸い付き、剥がれる際の発泡音。

高度三万フィートの外気はマイナス五十度を下回るはずだが、機内の空気は次第に湿り気を帯び、潮水の腐臭が漂い始めていた。


ふと窓の外に目をやると、雲海の下、暗黒の虚空から巨大な「肢体」が突き出していた。

それは飛行機の翼よりも遥かに巨大で、無数の吸盤が、地上のいかなる光源とも違う、冷たく禍々しい月光を反射して黒く光っている。

雲の間から覗くのは、地球上のいかなる生物とも似つかぬ、神話の深淵そのもの。


「悠……お前も、こちらへ来い」


隣の男が、ゆっくりと首をこちらへ向けた。

男の顔には、もはや目も鼻もなかった。

そこにあるのは、無数の黒いインクの線が収束して形作られた、深い「門」のような穴。

男が言葉を発しようとした瞬間、その裂け目から、真っ黒な海水が溢れ出した。

機内の気圧が急激に変化したような、耐え難い圧迫感が悠の鼓膜を襲う。

逃げ場はない。高度三万フィート、虚空に浮かぶこの鋼鉄の繭は、今やクトゥルフの夢をこの世に定着させるための「原版」と化していた。


悠はアタッシュケースを抱きしめたまま、自身の理性が、インクに浸された古い紙のように脆く崩れていくのを、ただ無力に、そして絶望的に感じていた。

彼の視界の端で、キャビンの壁が溶け落ち、その向こう側に広がるルルイエの悪夢が、ゆっくりと口を開け始めていた。


機内の気圧が、物理的な限界を超えて膨張したかのような錯覚が悠を襲った。

耳の奥で、鼓膜が裏返るような鋭い痛みが走り、続いてあらゆる音が真空に吸い込まれたかのように遠のいていく。


「……悠、聞こえるか。お前の声だ」


隣席の男だったものが発した言葉は、もはや音声ではなかった。

それは悠の頭蓋骨を直接震わせる、黒い振動だった。

男の「顔」であった空洞からは、際限なく海水が溢れ出し、悠の足元を濡らしていく。

その液体は、靴の底を伝って、冷たく、そして粘り強く、彼の足首に絡みついた。


ふと見れば、機内の通路はすでに水没していた。いや、それは水ではない。

濃度を増した「墨」だ。

深い闇を煮詰めたようなその液体は、床のカーペットを侵食し、座席のモケットを腐食させ、機内のすべてを漆黒の闇で塗りつぶしていく。


そのとき、キャビン全体に設置されたスピーカーから、ノイズ混じりの音声が流れ始めた。

機長からのアナウンスではない。それは、何かに怯え、のたうち回る男の絶叫だった。


『嘘だ! これが、これが偽物だと言うのか! 私の人生のすべてを捧げた、この美しさが……!』


「佐藤……」


悠の唇が戦慄に震える。

それは数年前、彼が冷徹な一言で破滅させた佐藤誠一の声だった。

死の直前、自ら両目を抉り出し、暗闇の中でこの世を呪いながら果てた老人の執念が、今、三万フィートの空の上で再構成されている。


スピーカーからの声は、次第に複数の声へと重なっていった。

悠がこれまでに「鑑定」という名の裁きを下し、偽物と断じ、あるいは価値を奪ってきた数々の人間たちの呪詛。

それらが何十、何百という声の層となり、機内の重低音と共鳴して、鋼鉄の外壁を内側から叩き始めた。


そのとき、悠の右腕に激痛が走った。

袖を捲り上げると、そこには目を疑う光景が広がっていた。

皮膚の下を這っていた黒い線が、ついに表皮を突き破り、細い「棘」となって外側へ噴出していたのだ。

それは植物の根のように彼の腕を覆い、複雑なハッチングを刻み込みながら、彼の肉体を一枚の「版」へと作り変えていた。


「あ、が……」


呻きが漏れる。

しかし、その声さえも黒いインクの霧となって、空気中に散っていった。

悠は、自分が「個体」であることを失いつつあるのを悟った。

彼の筋肉、骨、神経。それらすべてが、あの版画に描かれた触手と同じ、神話の墨痕として再構成されている。

彼はもはや、鑑定士という観測者ではいられなかった。

彼はすでに、深淵の一部として書き込まれた「被造物」に過ぎなかったのだ。

不意に、機体が大きく傾いた。

窓の外では、あの巨大な触手が翼に絡みつき、エンジンを握り潰していた。

火花が飛び散るが、その光さえも黒い闇に吸い込まれ、爆発音は重苦しい水音へと変換される。


「着陸……着陸だ、倉本悠」


機内モニターが、一斉に真っ赤な文字を映し出した。

そこには、ポルトガルの地図ではなく、かつて失われた伝説の島『ルルイエ』の幾何学的な平面図が描かれていた。

高度計は急速に数字を減らしていくが、それは地上への降下を意味してはいなかった。

彼らは今、空から直接、深海という名の異次元へと墜落しようとしていた。


「止めろ……こんなことは、現実ではない!」


悠は叫びながら、膝の上にあるアタッシュケースをこじ開けた。

中にある版画。

すべての元凶。

彼はそれを引き裂き、この悪夢を終わらせようとした。

しかし、封筒から取り出した版画を見て、悠は呼吸を止めた。


構図が変わっていた。


九本の触手に絡め取られ、絶望に顔を歪める男——その衣服、眼鏡、恐怖に染まった瞳は、紛れもなく今の倉本悠そのものだった。


版画の中の悠は、静かにこちらを見つめていた。そして、紙面の中から悠の手首を掴み、力強く引き寄せた。


「お前は、刷り込まれるのだ。永遠に消えることのない、この黒い記憶の中に」


視界が完全に闇に包まれた。

エンジンの咆哮は、数万の信者たちが捧げる冒涜的な讃歌へと変わり、機内の気圧は深海の超高圧へと収束していく。

悠の肉体は引き裂かれ、インクの海へと溶け出し、最後の一滴までが版画の紙面へと吸い込まれていった。


……。


「……お客様。お客様、リスボンへの着陸態勢に入りました。お座席の背もたれをお戻しください」


耳元で、澄んだ女性の声が響いた。

悠は跳ねるようにして目を開けた。

目の前には、整然としたキャビンが広がっていた。

窓からは午後の陽光が差し込み、乗客たちは静かに身支度を整えている。

隣の白人男性は、穏やかな表情で雑誌を読んでいた。

モニターには、リスボン空港までの飛行ルートが淡々と表示されている。


「あ……」


悠は荒い息を吐きながら、自身の腕を見た。そこには黒い棘も、インクの線もなかった。ただ、冷や汗で湿ったワイシャツがあるだけだ。


しかし、彼は気づいた。


膝の上にあるアタッシュケース。その表面に、一滴の「黒い水」が滴っていることに。


それはケースの中から滲み出していた。

粘り気のある、潮の臭いを孕んだ黒いインク。

悠は震える手でケースの鍵を開け、中を確認した。


版画はそこにある。

だが、昨夜見たときとは明らかに違う。

インクの色が、より深く、より「濡れて」いた。

そして、描かれた神格の足元には、昨日までは存在しなかった小さな「染み」があった。

ルーペを使わずともわかる。

それは、誰かが這いつくばったような、苦悶の形をした墨の汚れだった。


「倉本様。ポルトガルへようこそ。あなたの『旅』は、ここから始まります」


機内放送のスピーカーから、あの無機質な合成音が、彼だけに聞こえる音量で囁いた。


タラップを降り、リスボンの乾いた地面に足をついたとき、悠は空を見上げた。

雲一つない青空。

だが、彼の網膜には、その空を無数の「黒いひび割れ」が走っているのが見えていた。

世界はすでに、修復不可能なほどに腐食し始めていた。

悠は、自らのコートのポケットに手を入れた。

そこには、依頼人から送られてきた次の目的地——第二の版画を所有するコレクターの住所が記されたメモが入っている。


彼は歩き出した。

背後に、自分の足跡ではない、濡れた「何か」が這いずる音を聞きながら。


正気という名の理性の灯火は、今や風前の灯火として、深淵の風にさらされていた。

読んで頂きありがとうございました

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