第三話 氷の曼荼羅【後編】
いつも読んで頂きありがとうございます。
第3章、この物語で終わりです。
これからの物語はここまでの伏線、違和感を徐々に解消していく場面となっています。
是非お楽しみください。
イライジャ・ノットが氷の塵となって消えた後、鏡の村を支配していた狂気的な乱反射は、嘘のように鳴り止んだ。
倉本悠の足元には、裂けた氷の鏡の破片が、死んだ魚の鱗のように散乱している。彼が手にした七枚目の門『鏡像の処刑』は、周囲の冷気を吸い込み、持つ者の指先を凍傷に近い鋭い痛みで苛んでいた。
だが、悠が感じている本当の痛みは、肉体的なものではなかった。
一度は排除されたはずの人格が「内側」から扉を叩くように、彼が統合したはずの「過去の自分」が、脳髄の奥底で醜悪な饒舌さを増していたのだ。
『……ハハ、いい気分だろ? 倉本。いや、「署名者」さんよ』
その声は、もはや鏡を通さずとも、悠の思考の一部として鳴り響く。
『お前は僕を殺したつもりだろうが、実際には僕にお前の「操縦席」の半分を明け渡したんだ。お前が門を開くたび、僕はもっと深く、お前のインクの中に溶け込んでやる。最後の一枚を刷る時、筆を握っているのは、果たしてどちらの「僕」かな?』
悠は返さなかった。いや、彼にはもう答えるための「声」も、否定するための「感情」も残されていない。彼はただ、七枚の重圧を抱え、ひび割れた硝子の偶像のようにギチギチと音を立てて歩き出した。
鏡の村の出口へと向かう彼の背後に、かつてのような影はなかった。
代わりに、地面には砕けた鏡の破片が道標のようにこぼれ落ち、そこに映る空は、現実のアルプスの空よりも数段暗く、澱んでいた。
彼が村を抜けた瞬間、視界を覆っていた猛吹雪が、突如として「静止」した。
六枚目の眼が捉える光景は、もはや物理的な時間軸を無視し始めていた。空中に舞う雪の結晶は一つ一つが精緻な幾何学的模様を描いたまま固定され、風の音すらも、引き伸ばされたテープのように低い唸りへと変わる。
(……時間が、磨り減っている……)
悠は直感した。
九つの門が揃い近づくにつれ、この世界を繋ぎ止めている「現実の接着剤」が効力を失いつつあるのだ。
彼が次に進むべき場所。それは、水平な距離ではなく、垂直な「堆積」の中にある。
脳内の過去の自分が、耳障りな笑い声を上げた。
『おいおい、次はエジプトだって? 砂の下に埋もれた「名もなきピラミッド」。そこには時間の流れが腐敗し、数千年も死ぬことを許されない「書記官」が、お前を待っている。……楽しみだなぁ、倉本。お前のその「鏡の体」が、砂嵐で粉々に削られるのを見るのがさ!』
悠は無言のまま、懐から古いコンパスを取り出した。
だが、その針は北を指してはいなかった。針は盤面を突き破り、悠の足元――地底の深淵を指して、激しく震えていた。
彼が歩を進めるたび、周囲のアルプスの白嶺は、砂漠の黄金色へと塗り替えられていく。
空間の転移。いや、これは世界という版画が、悠の歩みに合わせて「刷り直されて」いるのだ。
雪の結晶が、いつの間にか熱を帯びた砂の粒へと変わり、悠の頬を叩いた。
見上げれば、そこには近代的な地図のどこにも記されていない、頂を削り取られた異形のピラミッドが、夕刻の影を長く伸ばして立っていた。
エジプト。死者の書が支配し、時間が永遠に循環する呪われた地。
そこには、八枚目の門――『時間の磨滅』を、自らの皮膚の一部として繋ぎ止めている怪物が待っている。
「……行くぞ」
悠は、自分の中に巣食う「過去の自分」に向かって、初めて明確な拒絶の意志をぶつけた。
彼はアタッシュケースを握り直し、砂に埋もれた神殿の入り口へと足を踏み入れた。
背後で、彼が歩んできた鏡の破片が、砂嵐に飲み込まれて消えていく。
戻るべき道は、もうどこにもない。
あるのは、最後の一画を書き入れるための、冷たい虚無だけだった。
読んで頂きありがとうございました。




