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深淵の九つの門-クトゥルフの墨痕  作者: 一一一
第三章 欺瞞の巡礼
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第二話 虚空の色彩【後編】

いつも読んで頂きありがとうございます。

なんだか、違和感が徐々に増えて得体の知れなさも増えてる段階だと思います。

三話から一気に最後まで物語が進んでいきますのでよろしくお願いします。

アトリエの空気は、もはや呼吸するための媒体ではなく、肺胞の隅々までを黒く染め上げる「液体化された闇」へと変質していた。

ピエール・ド・ルナールが振るう筆は、キャンバスを叩くたびに、物理的な衝撃波となって悠の精神を揺さぶる。その衝撃は、悠の脳内に層を成して積み重なっていた「偽りの過去」を剥離させ、強制的に色のついた記憶として空中へと撒き散らした。

「見ろ、署名者! これがお前の真実の色だ!」

ルナールが空中に筆を走らせると、悠から剥がれ落ちた記憶の断片が、鮮やかな「青」や「朱」となって、墨色の空間に火花のように散った。

ある断片には、幼い日の悠が、雨上がりの水たまりに映る虹を眺めている光景が映っている。その虹は、この世のものとは思えないほど美しく、そして残酷なまでに「色彩」に満ちていた。

だが、ルナールはその虹に向かって、容赦なく黒い絵具を叩きつけた。

「美しすぎる色は、毒だ。それは現実の醜さを隠し、深淵の真理を覆い隠すための、浅ましい『膜』に過ぎない。私はその膜を一枚ずつ剥ぎ取り、お前を真実の黒へと導いてやる!」

ルナールの筆先が、悠の胸元を指し示した。

次の瞬間、悠の心臓の奥底から、ドロリとした濃密な「原色」が溢れ出した。それは、彼が「倉本悠」として生きてきた中で蓄積してきた、言葉にならない喜び、悲しみ、怒り、そして情熱のすべてであった。

それらの感情が、虹色の霧となってアトリエを埋め尽くそうとする。

しかし、中央に鎮座する六枚目の門――「虚空の色彩」の巨大な眼が、その霧を一気に吸い込み始めた。

眼が色彩を吸い込むたび、キャンバスの周囲からは不気味な「咀嚼音」が響き渡った。

色彩は眼の中で噛み砕かれ、ドロドロとした黒い粘液へと変換されていく。吸い込まれた色は、二度と元の鮮やかさを取り戻すことはない。それは情報の消失であり、魂の磨滅であった。

「ぐ……ああ……」

悠は、声の出ない喉を震わせた。

記憶が、自分を自分たらしめていた「個の証明」が、ルナールの筆によって一筆ごとに否定されていく。彼の意識は、色のない平坦な「原版」へと削り取られ、ただの器へと還元されていく恐怖に支配された。

だが、その絶望の極限で、悠の「空白の顔」が微かに震えた。

彼は気づいたのだ。

ルナールが奪おうとしている「色彩」とは、彼がかつて失ったはずの過去の残滓に過ぎないということに。

今の彼には、もはや名前も、声も、そして「守るべき色」など存在しない。

彼は既に、あらゆる意味を剥ぎ取られた「究極の白紙」なのだ。

悠は、アタッシュケースを床に放り投げた。

そして、自分から溢れ出している虹色の霧を、自らの手で力強く掴み取った。

(色を奪うというのなら……くれてやる)

悠は心の中で呟いた。

彼は、自分の中に残っている「倉本悠」としての最後の記憶――愛した人の手の温もりや、朝露の匂い、夕焼けの赤――それらすべての「色」を、あえて自ら、ルナールのキャンバスへと叩きつけた。

それは、防御ではなく、過剰なまでの「提供」であった。

「なんだ……!? 自ら色を差し出すというのか!」

ルナールが驚愕に目を見開く。

悠から噴き出した色彩の奔流は、アトリエ全体を飲み込むほどの激しさとなり、六枚目の門の「眼」が処理しきれないほどの情報量となって溢れ出した。

黒い眼が、色彩の過食によって激しく充血し、痙攣を始める。

吸い込みきれなかった鮮やかな色彩が、キャンバスの縁から溢れ出し、アトリエの壁に塗られた「黒」を侵食し始めた。

「止めろ! 私の聖なる闇を汚すな!」

ルナールは狂ったように筆を動かし、溢れ出す色を黒で塗りつぶそうとした。

しかし、悠が差し出したのは、単なる記憶の色ではなかった。

それは、五つの門を通り抜けてきた彼が目撃した「深淵そのものの色」であった。

リスボンの深海の冷たい蒼。

ピレネーの凍てつく白。

ロンドンの地下の、鼓膜を灼くような漆黒。

それらの「狂った色彩」が混ざり合い、ルナールのキャンバスの上で、未知のスペクトルを描き出した。

光よりも眩しく、闇よりも暗い、存在してはならない「第三の色」。

その色がキャンバスに定着した瞬間、六枚目の門の「眼」が、耐えきれずに真っ二つに裂けた。

「あああああ! 私の、私の最高傑作が!」

ルナールの叫びと共に、アトリエの空間が激しく歪んだ。

壁の黒い絵画たちが一斉に崩れ落ち、そこから本物の「色彩」が、洪水となって溢れ出した。

だが、その色はもはやモネの庭園のような穏やかなものではない。

それは、現実の物理法則を無視して、物体を溶かし、形状を書き換えていく「侵食の色彩」であった。

悠はその洪水の中心に立ち、裂けたキャンバスから溢れ出る「黒い涙」を、自らの「空白の顔」へと受け止めた。

ルナールの肉体は、自らが描きすぎた黒いインクの中に沈んでいった。

彼の指は筆と癒着し、最後には一枚の「歪んだパレット」へと形を変えて、インクの海に消えた。

アトリエの崩壊が止まったとき。

そこには、色彩をすべて吸い尽くし、逆にすべての色を「無」へと還元する能力を得た、一枚の版画が残されていた。

六枚目の門、「虚空の色彩」。

悠はその版画を手に取り、自らの空白の顔に押し当てた。

版画に描かれた裂けた眼が、悠の顔の中央で、新たな「知覚」として開眼した。

それは、世界の色を視るための目ではない。

世界の「嘘」を、色彩という仮面の下に隠された「虚無」を、直接観測するための目であった。

悠は、アトリエの瓦礫の中から立ち上がった。

外のジヴェルニーの庭園は、もはやモネの庭園でも、ルナールの黒い庭園でもなかった。

それは、あらゆる色が混ざり合い、一周回って「完全な静寂」へと至った、透明な世界。

悠は、アタッシュケースを拾い上げ、次なる座標を見据えた。

残る門は、あと三つ。

彼の「顔」には今、裂けた眼が一つ、美しくも忌まわしい「色彩の傷跡」として刻まれていた。


アトリエの崩壊が止み、ジヴェルニーの湿った空気が瓦礫の隙間から流れ込んできた。

倉本悠であった「署名者」は、完成したばかりの六枚目の門――『虚空の色彩』を手に、静かに立ち上がった。

彼の空白だった顔の中央には、今や裂けたキャンバスから転写された「第三の眼」が、爛々と開いている。それは光を反射せず、周囲の風景から「色彩」という名の意味を剥ぎ取り、ただの無機質な輪郭線へと還元してしまう、深淵の観測器であった。

「……ピエール・ド・ルナール」

悠の脳裏に、インクの中に消えた画家の最後の執着が、おりのように沈んでいる。

ルナールは光を憎み、黒を求めた。しかし、彼が最期に見たものは、黒ですら塗りつぶせない「真実の虚無」であった。悠はその虚無を自らの顔に刻み込み、次なる段階へと歩みを進める。

アトリエを出ると、外の庭園はもはや以前の姿を留めていなかった。

睡蓮の池は、色彩を失った透明な「穴」のように地面に口を開け、周囲の樹木は鉛筆で描かれた下書きのように頼りなく震えている。悠が歩くたび、足元の草花は色を奪われ、カサカサとした灰色の粉末となって風に散った。

悠はアタッシュケースを開け、六枚の版画を並べた。

一枚ごとに増していく重圧。

一枚ごとに削られていく人間性。

それらは互いに磁石のように引き合い、悠の意識の奥底で、巨大な「門」の完成を急かしている。

『……署名者よ。お前はもう、半分以上が「紙」であり、「インク」だ』

脳内に響く声は、もはや悠自身のものか、あるいは版画の中に閉じ込められたアーサーやエルガー、ルナールたちの合唱なのか、判別がつかなくなっていた。

『六枚目の眼を手に入れた今、お前には「実体のないもの」を視る力が備わった。次に進むべきは、形を拒む者が支配する、光の極北だ』

悠の「第三の眼」が、北東の空を射抜いた。

そこには、アルプス山脈の峻険な稜線が、インクの染みのようにぼんやりと浮かび上がっている。

目指すは、スイスとイタリアの国境近く、標高三千メートルを超える永久凍土の彼方。地図から抹消された隠れ里、「鏡のヴィラージュ・ド・ミロワール」。

そこには、七枚目の門を所有する、一族の最後の一人が待っている。

名を、イライジャ・ノット。

彼は代々、氷の表面を磨き上げ、この世ならぬ「真実」を映し出すための鏡を造り続けてきた「鏡磨き」の末裔であった。

数日後。

悠は、呼吸さえも凍りつくような極寒の尾根を歩いていた。

六枚目の眼は、吹き荒れる雪の中に、隠された「道」を見出していた。それは物理的な地形ではなく、空間の歪みが描く「筆跡」であった。

辿り着いた「鏡の村」は、家々がすべて半透明の氷のブロックで築かれ、村全体が巨大なプリズムのように鈍く光っていた。しかし、そこに人の気配はない。あるのは、数千枚という膨大な数の「鏡」だ。

広場、壁、屋根、地面――あらゆる場所に、歪んだ形をした鏡が設置され、互いに向き合い、無限の反射を繰り返している。

「……誰もいないのか」

悠が音のない声を上げると、反射の迷宮の奥から、カチ、カチ、という乾いた音が聞こえてきた。

それは、硬い石で氷を研磨する音。

村の中央にある、巨大な氷のドーム。

そこには、全身を白い防寒具で包んだ、一人の痩せこけた老人が座っていた。

彼の目は白く濁り、光を失っているようだった。だが、その指先は、目の前の巨大な『氷の鏡』を、髪の毛一本の誤差もなく磨き上げている

「……色を持たぬ客人が来たか」

イライジャ・ノットは、手を止めずに言った。彼の声は、氷が割れるような鋭い響きを持っていた。

「私の鏡は、嘘を映さない。だが、お前には映るべき『実体』がない。あるのは、六つの門が織りなす、おぞましい概念の集積だけだ」

イライジャは、磨きかけの鏡を悠の方へ向けた。

悠がその鏡を覗き込むと、そこには「顔のない男」の姿すら映っていなかった。

鏡の中には、東京の雨、リスボンの海、ピレネーの城、エイルズベリーの博物館、ロンドンの地下鉄、ジヴェルニーの庭園――それらすべての場所が、一つの歪んだ曼荼羅となって渦巻いていた。

「私はこの鏡を磨き、七枚目の門を完成させるために、一生を捧げてきた」

イライジャの指が、鏡の表面にある「傷」をなぞった。

「だが、この鏡には最後の一片が足りない。それは、観測者の『恐怖』を反射して実体化させる、究極の触媒だ」

イライジャは、虚空を見つめるような瞳で悠を捉えた。

「署名者。お前の顔にあるその『眼』を貸せ。その眼が視る『虚無』こそが、この鏡を完成させる最後のインクとなるのだ」

イライジャが立ち上がると、周囲の数千の鏡が一斉に角度を変えた。

悠の周囲を、無限に増殖する「自分自身の欠片」が取り囲む。

それは六枚目の門で視た色彩の喪失とは異なる、さらに根源的な「存在の解体」であった。

悠は、自らの第三の眼を、イライジャの磨き上げた鏡へと向けた。

虚空を視る眼と、真実を映す鏡。

二つが正面から向かい合った瞬間、鏡の村全体が、耐え難いほどの「光の咆哮」に包まれた。

読んで頂きありがとうございました。

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