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叢雲の糸

作者: Ono
掲載日:2026/02/03

 江戸の四谷、鮫ヶ橋。湿った窪地に粗末な長屋がひしめき合い、日没とともに暗渠のような臭いが立ち込めるこの谷底は、行き場を失った者たちが吹き溜まる場所だった。

 お初は粗末な筵を小脇に抱え、夜の辻に立っていた。

 顔に塗りたくった白粉は安物ゆえにすぐひび割れる。夜鷹として身を鬻ぐようになってから、もう幾星霜が過ぎたろうか。

 客といっても日雇いの人足や酔狂な破落戸(ごろつき)ばかり。あぶく銭と引き換えに野良犬のように路傍で肌を合わせる。それがお初の日々だった。


 その男が初めて現れたのは月を雲が隠した暗い晩。

「あんた、寄っていきなよ」

 お初が声をかけると、男は足を止めた。暗闇に微かに浮かび上がる立ち姿にはどこか凛とした風情がある。この谷底には似つかわしくない清潔な空気を纏っていた。

 男はお初に静かに近寄り、懐から銭を取り出して握らせた。

「すまない」

 低い声だった。お初が慣れた手つきで筵を広げようとすると、男はそれを制する。

「いや、いい。ただ……少し休ませてくれ」

 男はお初を抱くこともせず、ただ傍らで夜風に吹かれ、やがて無言のまま去っていった。


 それから数日置き、男は姿を見せるようになった。来るたびに銭を払うが、決して体を求めようとはしない。

 奇特な男もいたものだ、とお初は思った。貧乏人でもなさそうだ。あるいは酷い瘡毒でも患っていて、女に触れられるのを恐れているのか。

 二人は互いの顔も見えぬ暗闇の中で並んで座り、言葉を交わすでもなく寄り添った。

 間近にある温度が心地よく、男が時折漏らす溜息が、お初の荒んだ心に奇妙な明かりを灯していった。

 ――ああ、この人は、寂しいんだねえ。


 いつしかお初は男の訪れを待つようになっていた。

 男の袖が触れるだけで胸が早鐘を打つ。なのに男は決して彼女に触れようとしない。

 明日の命も知れぬ我が身。不意に野垂れ死ぬ前に、たった一度だけでもいい、この人の温もりに抱かれたい。


 ある晩、男がいつものように帰ろうとした時、お初はその袖を掴んだ。

「お代はいらないよ。抱いておくれ」

 男は驚いたように息を吞んだが、お初の指先の震えを感じたのか、そっと彼女の手をとった。


 路地裏の闇に紛れ、二人は筵の上で重なり合った。これまでのどんな客とも違う、慈しむような愛撫だった。

 お初は涙を流して男の背中に爪を立てる。一人の女として扱われる悲喜が押し寄せた。

 事果てた後、男はお初の乱れた髪を撫でながら、独り言のように呟く。

「役目などなければ、お前を嫁にするのに」

 男の言葉が胸を鋭く抉った。やはり、この人には帰るべき場所があるのだ。


 男が身支度を整えている隙に、お初は自分の襦袢のほつれ糸を抜き取った。

 頼りない木綿の糸。それをこっそりと男の羽織の背縫いの端に結びつける。

「また来る」

 そう言い残して去っていく男の背中から、細い糸が闇夜に伸びる。お初はその糸を頼りに足音を忍ばせながら後を追った。

 闇夜に白い糸が細く伸び、鮫ヶ橋の谷底から坂を上がって、武家屋敷が並ぶ静寂の通りへと揺らめきながらお初を誘う。


 やがて空が白み始めた頃に、立派な門構えの屋敷へと糸が吸い込まれていった。

 門扉に掲げられた定紋を照らし出す。お初のような者が一生仰ぎ見ることさえ許されぬ、名ある武家の印だった。

 小者たちが深々と頭を下げる。男はその家の跡取りだったのだ。


 緩んだ糸が男のもとを離れて風に吹かれ、朝陽に隠れるように滞る暗がりへと飛んでゆく。

「……そうだよねえ」

 お初は小さく笑った。夜鷹と若殿様。たとえそうでなくとも、結ばれるはずもない。

 あの「嫁にする」という言葉は、叶わぬ夢物語だからこそ、あんなにも甘く響いたのだ。


 お初は鮫ヶ橋から姿を消した。あの人がまた訪ねてきても、もう会えないように。

 金で買われる夜鷹と客に戻りたくはなかった。

 たった一夜、心を通わせ、肌を温め合った男と女のままで終わりたかった。


 深川へと河岸を変え、お初は再び夜の辻に立つ。

「ここは月が明るいね」

 客の顔がよく見えるから、徒な恋に溺れずに済む。

 そう独り言ちる声も、風に紛れて消えていった。

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