叢雲の糸
江戸の四谷、鮫ヶ橋。湿った窪地に粗末な長屋がひしめき合い、日没とともに暗渠のような臭いが立ち込めるこの谷底は、行き場を失った者たちが吹き溜まる場所だった。
お初は粗末な筵を小脇に抱え、夜の辻に立っていた。
顔に塗りたくった白粉は安物ゆえにすぐひび割れる。夜鷹として身を鬻ぐようになってから、もう幾星霜が過ぎたろうか。
客といっても日雇いの人足や酔狂な破落戸ばかり。あぶく銭と引き換えに野良犬のように路傍で肌を合わせる。それがお初の日々だった。
その男が初めて現れたのは月を雲が隠した暗い晩。
「あんた、寄っていきなよ」
お初が声をかけると、男は足を止めた。暗闇に微かに浮かび上がる立ち姿にはどこか凛とした風情がある。この谷底には似つかわしくない清潔な空気を纏っていた。
男はお初に静かに近寄り、懐から銭を取り出して握らせた。
「すまない」
低い声だった。お初が慣れた手つきで筵を広げようとすると、男はそれを制する。
「いや、いい。ただ……少し休ませてくれ」
男はお初を抱くこともせず、ただ傍らで夜風に吹かれ、やがて無言のまま去っていった。
それから数日置き、男は姿を見せるようになった。来るたびに銭を払うが、決して体を求めようとはしない。
奇特な男もいたものだ、とお初は思った。貧乏人でもなさそうだ。あるいは酷い瘡毒でも患っていて、女に触れられるのを恐れているのか。
二人は互いの顔も見えぬ暗闇の中で並んで座り、言葉を交わすでもなく寄り添った。
間近にある温度が心地よく、男が時折漏らす溜息が、お初の荒んだ心に奇妙な明かりを灯していった。
――ああ、この人は、寂しいんだねえ。
いつしかお初は男の訪れを待つようになっていた。
男の袖が触れるだけで胸が早鐘を打つ。なのに男は決して彼女に触れようとしない。
明日の命も知れぬ我が身。不意に野垂れ死ぬ前に、たった一度だけでもいい、この人の温もりに抱かれたい。
ある晩、男がいつものように帰ろうとした時、お初はその袖を掴んだ。
「お代はいらないよ。抱いておくれ」
男は驚いたように息を吞んだが、お初の指先の震えを感じたのか、そっと彼女の手をとった。
路地裏の闇に紛れ、二人は筵の上で重なり合った。これまでのどんな客とも違う、慈しむような愛撫だった。
お初は涙を流して男の背中に爪を立てる。一人の女として扱われる悲喜が押し寄せた。
事果てた後、男はお初の乱れた髪を撫でながら、独り言のように呟く。
「役目などなければ、お前を嫁にするのに」
男の言葉が胸を鋭く抉った。やはり、この人には帰るべき場所があるのだ。
男が身支度を整えている隙に、お初は自分の襦袢のほつれ糸を抜き取った。
頼りない木綿の糸。それをこっそりと男の羽織の背縫いの端に結びつける。
「また来る」
そう言い残して去っていく男の背中から、細い糸が闇夜に伸びる。お初はその糸を頼りに足音を忍ばせながら後を追った。
闇夜に白い糸が細く伸び、鮫ヶ橋の谷底から坂を上がって、武家屋敷が並ぶ静寂の通りへと揺らめきながらお初を誘う。
やがて空が白み始めた頃に、立派な門構えの屋敷へと糸が吸い込まれていった。
門扉に掲げられた定紋を照らし出す。お初のような者が一生仰ぎ見ることさえ許されぬ、名ある武家の印だった。
小者たちが深々と頭を下げる。男はその家の跡取りだったのだ。
緩んだ糸が男のもとを離れて風に吹かれ、朝陽に隠れるように滞る暗がりへと飛んでゆく。
「……そうだよねえ」
お初は小さく笑った。夜鷹と若殿様。たとえそうでなくとも、結ばれるはずもない。
あの「嫁にする」という言葉は、叶わぬ夢物語だからこそ、あんなにも甘く響いたのだ。
お初は鮫ヶ橋から姿を消した。あの人がまた訪ねてきても、もう会えないように。
金で買われる夜鷹と客に戻りたくはなかった。
たった一夜、心を通わせ、肌を温め合った男と女のままで終わりたかった。
深川へと河岸を変え、お初は再び夜の辻に立つ。
「ここは月が明るいね」
客の顔がよく見えるから、徒な恋に溺れずに済む。
そう独り言ちる声も、風に紛れて消えていった。




