03 コーヒーブレイク
目を閉じる。世界を移動するその瞬間、一度経験しているとはいえ、まだまだ慣れない経験。
恐怖がないと言えば嘘になる。有香は、湧き上がる恐怖心と元の世界に戻ることができる期待がないまぜになった、複雑な感情のまま、恐る恐る目を開く。
「……地面……? っ、あ……くぅ……っ!」
視界の先にあったのは地面。一先ず起き上がろうと身体に力を入れた瞬間、全身に痛みがはしる。
「身体が……もう、バッキバキ……はぁ、若い子の身体って良いわね、ほんと……」
疲労困憊なままこんな外で、茂みに倒れ込むように眠っていたのだから、当然ろくに疲れは取れていない。
目覚めのよかったあちらとは違い、こちらでの目覚めは最悪な気分であった。
「身体に異常は……ふぅ、よかった。襲われてたりはしないみたい……さて、と」
立ち上がり、自分の身体を調べる。どうやら誰かに触れられたりはしていないようで、スーツに引っ付いていた木の葉を叩いて落とし、辺りを見渡す。
テトラ……もとい、昨晩追いかけていた黒猫の姿が見えなかった。
「どこに行ったのかしら……っと、それより鞄はどこに落として……あったあった」
おそらくはあちらの世界に行っている間、本来の身体の持ち主……黒猫自体が移動してしまったのだろうか。
そんなことを漠然と考えながら、有香は鞄を探し、茂みの中に落ちていた鞄を拾い上げた。
一先ず家に帰ろうかと雑木林の外に視線をやると、背後から草木をかき分ける音が聞こえ、振り返る。
「にゃぁ」
「……テトラ?」
「んにゃ」
「……ほんとに猫なんだ……不思議、記憶とかどうなってんだろ」
しゃがみ込むと、鳴きながら近づいてくる。追いかけると逃げた昨晩と比べて、どこか懐っこく思える黒猫の様子に、不思議そうな表情を浮かべていた。
つんつんと鼻をつつくと、くすぐったそうに顔を振る黒猫に、くすっと微笑んだ後立ち上がる。
「さて、と。じゃあ帰ろうかな、私の家に」
「にゃお」
黒猫を連れ、帰路につく。
早朝の日差しのもと、小鳥のさえずりを聴きながら、普段は通ることのない道を歩くことにちょっとした新鮮味を味わっていた。
「猫連れたまま電車には乗れないから、結局徒歩で帰ることになるなんてね。なんだかずっと歩いてる気がするわ」
通り過ぎていく電車を眺めながら呟く。
休日の早朝、休みを謳歌する子どもたちや、休日の出勤に憂鬱そうな表情を浮かべる同族とすれ違いながら、1人と一匹はマンションにたどり着いた。
「……あ、ここペット禁止だった。静かにしててね?」
「……にゃう」
鍵を開け、思い出したように呟く。ペット禁止ではあるが、まぁ相手は話が通じるテトラなのだから、大丈夫だろうとそのまま部屋に入っていく。
中は一人暮らしの女性としては、比較的質素な内装だった。
綺麗に片付けられているというよりは、余計なものがないため散らかりようがないといった雰囲気で、仕事道具と化粧品、あとは本棚と最低限の家具。
中でも唯一彼女の個性が見えるものと言えば、この部屋に充満したコーヒーの香りとコーヒーミルを始めとした器具と多種多様な豆の袋であった。
「んにゃあ……」
「あ、コーヒーの匂い苦手? 猫には毒だもんね、コーヒーって。カフェインがダメなんだっけ……」
あまり気分の良さそうな反応ではないテトラの頭を撫でるようにしゃがむと、鞄を置いて靴を脱ぐ。
そして、テトラが一歩前に進もうとすると、ふわりと身体が浮き上がった。
「にゃっ!?」
「ふふ、まだ上がっちゃダメよ。まずは……」
「みゃああっ! にゃっ、にゃああっ!?」
「こーら騒がないの。外歩き回ってた猫なんてノミやらなんやらついてるかもしれないでしょ。うちで過ごすなら綺麗にしなきゃダメ」
有香に抱えられたまま連れ込まれたのは風呂場であった。
ぬるいお湯をかけられながらわしゃわしゃと身体を洗われると叫び声のような鳴き声をあげて抵抗するテトラ。
それを制しつつ、自身の汚れも洗い流し、2人はシャワーを終える。
猫としての本能か、水が苦手なのだろう。だがそれはそれ、これはこれである。
「ふふ、なーに? さっぱりして良かったじゃない。ちゃんと猫ちゃん用の洗剤とか買っておかないとね。通販で注文しておこうかしら」
洗濯機の上に乗り、不満げな表情で睨みつけてくるテトラに、困り顔でくすくすと笑う有香。
タオルで優しく水を拭き取ってやり、やけどしないよう気を付けてドライヤーで乾かしていく。
「そういえばこの首輪……事が終わったらちゃんと飼い主の所に帰ってあげなさいよ」
「にゃう」
「とりあえず今日は……んー。一応猫が食べられそうなものだと……ささみくらいね、まぁ買い出しは明日にして……残ってる仕事したら向こうに戻って……うん、そうしましょう」
冷蔵庫の中を見てぶつぶつと呟き、今後の予定を立てていく。
テトラはというと、とてとてと部屋の中を歩き回り、キョロキョロと内装を見回っていた。
それから暫くはそれぞれ別の時間が流れていた。
テトラはベッドの上に丸まり、ぺろぺろと毛づくろいをしたり、眠ったりと猫らしい行動をとり、有香はというとシャツと下着だけの格好でパソコンの前に座り、コーヒーを片手にカタカタとキーボードを鳴らして黙々と作業を進めていた。
それが一時間、二時間と続いていき、半日が経過した頃、テトラがデスクの上に飛び乗ってきた。
「ん、何?」
「にゃ」
とんとんと、前足でキーボードを叩く。有香は疑問符を浮かべながら少し椅子を引いて、キーボードをテトラの方へ向けた。
「おぉ、キーボード使えるんだ……なになに? ……『d@8yvw@gq』? なにこれ」
「にゃ、にゃ!」
「んー? あ、日本語配置? えっと……「し”ゅんひ”て”きた」……あぁ、準備できたね。能力が使えるって事?」
「にゃあ」
キーボードを叩いてできた文字列。それはキーボードにかかれた日本語部分を叩いて作ったメッセージであった。
それは準備ができたという文章。つまりは世界移動の力を使えるようになった、という意味である。
「私も丁度区切りがいいところだったし、戻りますか。あんまり長い間あの娘を1人にしたくないしね」
「んにゃ」
作業内容を保存し、PCの電源を落とす。そして、ベッドに移動すると、寝転がって瞳を閉じる。
テトラもぴょんとベッドに飛び乗ると、有香の隣に座った。
そして三度目の世界転移を迎え、意識は遠く、次元を超えた別世界へと移動していく。
3度目ともなれば慣れたもの、というわけでは別になく、しかし一度目と比べれば記憶流入の混濁はかなり軽減されている。
若干の立ち眩みを経て、目を開けばそこは半日前に見た林の中。
ふぅ、と一息ついて辺りを見回し、起き上がったテトラは猫の時のような仕草で背を伸ばしていた。
どうやら二人共無事に転移できたようで、視線を落とせば昨晩と変わらない、少女の体がそこにあった。
「ちゃんということを信じてくれたみたいね。いい子で良かった」
「ん、んにゃ……ぁ、はぁ。良かった、まぁもしどこかに逃げてても転移したら強制的にここに移動してるだろうし、死んでなきゃへーきへーき」
「あんたねぇ……」
まるで猫のように背筋を伸ばしながら語るテトラに呆れながら立ち上がると、手の中に何かが握られていることに気づいた。
そのまま手のひらを開き、中にあるものを確認すると、くしゃくしゃに握られた紙切れがあった、どうやら自分たちが残した書き置きのようだ。
「テトラ、これ」
「ん~? どうしたの?」
「裏に何か書いてあるみたい」
テトラを呼びつけ、紙を広げる。片面には向こうへ帰る前に書き残したヒロナに対するメッセージが、裏を見れば、自分とは違う字体で書かれたメッセージが増えていた。
丸みを帯びた可愛らしい字を、2人は覗き込むようにして眺める。
「えっと『メッセージ拝見いたしました。記憶が混濁していて、あまり鮮明ではありませんが、私が眠っていた……いえ、私の意識が”貴女”になっていた間の事も薄っすらと覚えています。偶然の事故とはいえ、私のことを気遣ってくれていることはわかっています。どうか無理のないよう、頑張ってください』……だって」
「……賢すぎない? 私がこの子くらいの時はもっと馬鹿だったと思うよ」
「私もそう思う。まぁ記憶を見る限りそれなりに良いところの子っぽいから……教育が良かったのかもしれないわね」
幼い子供とは思えない丁寧なメッセージに2人はきょとんと、間の抜けた表情を浮かべる。
恨み辛みが込められた癇癪が書き連ねられていてもおかしい状況に拉致されてなお、ヒロナは2人に気を使えるほどのできた子であった。
一先ず安心した2人であったが、もう一度メッセージを見返した有香は気づく。
(……ここ、滲んでる……)
メッセージの一部が不自然に滲んでいた。思い出すように記憶を辿る。
彼女がメッセージを読み、周囲の光景を確認し、ここが家でないこと、そして大好きな家族が居ないことを理解する。
それから、ひとしきり彼女が泣いた後、ぎゅっと握りしめた書き置きにメッセージを残している光景がおぼろげに想起できた。
その時に一雫落ちた涙が、このにじみを生み出したのだろう。
「……」
目元にそっと触れる。
既に涙は乾いていたが、腫れているような感覚が残っている。
「テトラ」
「ん、どしたの?」
「……はやくこの娘を家に帰してあげよう」
「そりゃ、もちろん……じゃ、早速出発する?」
「えぇ」
決意を新たに出発する。
どれだけ賢くとも、元凶と呼べるような他人相手に気を使えても、彼女はまだ子供なのだと実感した有香は、荷物をまとめてテトラと共に林を出た。
林を抜け、荒野を歩く。
過酷というほどでもないが、先の見えない道程は精神的にも疲れてくる。
そうして3時間ほど、休憩を交えつつ歩いていると通りかかった他の旅人と出会う。
(馬……牛……? どっちだろ)
「有香、乗せてくれるって。良かったね」
馬のようで、牛のような生物に牽かれた荷車。
異世界特有の謎生物を眺めて待っていると、テトラが交渉を終えて有香の元へ戻ってきた。
幸い、相手も町へ向かっていたようで、2人を乗せていけるだけの余裕もあったようだ。
2人はぺこりと頭を下げて礼を言い、牛馬車に揺られて町へと向かう。
これにより大幅に時間を短縮することができた。
日が沈み、また登る頃には町の姿が見えてきた。
「あれが……この世界の町……!」
「そう、トレロの町だよ」
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次回更新は1週間後、1月1日予定です。




