貞節のマスク
出発の朝、ロビーは異様に静かだった。
人影もまばらな街の端で、ユウマとシルフィは準備を整えていた。
その前に、赤い外套のシュナが立っていた。
風が吹くたびに、彼女の髪が銀色にきらめく。
その目には、笑みの影が宿っていた。
「……行くんだな」
彼女の声は、乾いた風のように落ち着いていた。
だが、その奥には凍るような痛みが潜んでいた。
「これを渡しておく。貞節のマスクだ」
手渡されたのは、黒い布に包まれた小さな包み。
中には、金属の光沢を放つ二つの仮面が収められていた。
「貞節……?」
ユウマが眉をひそめる。
「シルフィから相談を受けて、魔道具屋に作らせた。
砂漠の砂塵除けにもなる」
シュナは言葉を切り、ゆっくりと二人を見た。
その瞳には、嫉妬にも似た複雑な光が滲んでいる。
「心が穏やかな時は、口元が開いている。でも――
戦闘時や、強い興奮に飲まれた時は、オリハルコンのマスクが口元を覆う。
感情の暴走を防ぐための“封印”だ」
沈黙が降りた。
それが何を意味するのか、三人とも理解していた。
――キスを物理的に防ぐ。これは、隷属のスキル対策だ。
「……そんなものまで作ったのか。なくたって大丈夫だよ」
ユウマは苦く笑った。
「その嘘、本当?私はそうは思わない」
シルフィは仮面を手に取った。
「必要よ。今の私たちには」
そう言って彼女が装着した瞬間――
金属の微かな音とともに、マスクの縁が青白く光った。
すぐに、口元がオリハルコンのシールドで覆われる。
「もう発動……?」
「ええ。私の精神状態、もう限界みたい」
淡く笑うシルフィの声が、マスクの内側で震えていた。
その笑みは、美しくも苦しかった。
ユウマもマスクを装備する。
途端に、彼の口元にも銀色の盾が展開された。
冷たい金属の感触が、理性の最後の壁のように重く感じられる。
ユウマは深く息を吸った。
――このままでは、何かを失う。
それでも、彼女を求めてしまう。
抑えようとするほど、熱は増していく。
シルフィもまた、同じ磁場に囚われているのだろう。
互いの瞳が交わるだけで、マスクの縁が微かに震えた。
「……これでいい」
シルフィが呟く。
声の奥に、安堵と焦燥が入り混じっていた。
「これなら、あなたを壊さずに済む」
ユウマは言葉を失う。
彼女の瞳に宿る想いは、限界まで張り詰めた弦のようだった。
「……ふたりとも、まるで修道士みたいね。
貞節を守るために、金属で閉ざすなんて」
彼女は自嘲するように笑い、続けた。
「でも……それでいいのかもしれない。
キスしたい気持ちが暴走するくらいなら、マスクで封じたほうがマシだ」
それは祈りのようでもあり、呪詛のようでもあった。
彼女はふと、ユウマを見つめる。
瞳に宿るのは、嫉妬でもなく、もはや崇拝に近い光。
「……ねぇ、ユウマ。
私も、あんたに隷属してるんだよね。
頭では分かってる。距離を置かなきゃいけないって。
でも、身体は、命令を聞くたびに嬉しいの。
そんな自分が、嫌でたまらないのに」
その声には、かすかに涙の匂いがあった。
それでも彼女は笑っていた。
「だから、このマスクに感謝してる。
これがあればキスしないで済む」
ユウマもシルフィも、言葉を失った。
キスしたら最後、隷属が成功するだけでら収まらない。
荒野に2人きり。コンマリのようにシルフィが消失するまで交わってしまうに違いない。
その静かな絶望の中にこそ、奇妙な安らぎがあった。
シュナはくるりと背を向けた。
銀の髪が朝日に燃える。
「行け、ふたりとも。
貞節のマスクで、生き延びな」
廃都の門を越えたとき、
風が吹き抜け、二人のマスクがかすかに鳴った。
それはまるで、誓いの鐘の音のように響いていた。
ユウマとシルフィは無言で頷き、互いのマスクを見た。
もう言葉は要らなかった。
どんな衝動も、どんな痛みも、この呪いがすべてを包み込む。
外では、砂の風が吹き始めていた。
マスクのシールドがかすかに鳴り、二人の呼吸がその音の下で重なる。
――触れられない愛ほど、美しいものはない。
より激しく求め合ってしまう。
壊れてしまいそうだ。
そう思いながら、ユウマはシルフィと砂漠に向かった。




