ようやく。
「なんかっ、氷川さんにイラスト部に勧誘されたんだけどっ」
教室から他の生徒が帰宅し、自分たちだけになった途端に紗倉さんは頬をわずかに高揚させながら言った。
「されてたねー、いいじゃん。紗倉さん部活入ってないんだから、この際イラスト部に入るのもありなんじゃない?」
僕と紗倉さんは今日たまたま日直だった。
僕たちの学校には学級日誌というものがあり、その日の日直が一日のまとめを記入することになっている。さらには追加で担任教師から夏休みに配るプリントをまとめるように仰せつかり、僕と紗倉さんはそろって居残りというわけだ。
テスト復習期間の放課後は赤点を取った人たちの補習授業だ。僕はなんとか赤点を回避した身なので、日直業務さえ終われば帰ることができる。テスト期間直前までV勇のゲーム三昧でよく乗り切ったものだと、自分自身を褒め称えたい。
紗倉さんは僕の席である窓際の席で、二人そろって日直業務にいそしんでいる。彼女側は話に夢中でほとんど日直業務をしていないが。
窓の外に広がる景色は、少しどんよりとしている。雨が降るのは明日からの予報だったはずだが、分厚い雲はいつ降ってもおかしくないように思える。
僕と紗倉さんは放課後、普段はパソコン室で適当におしゃべりをしているのだがさすがに人気もないので気安く話している。もちろん、周囲の人に聞かれてまずい話などはしないが。
紗倉さんはよほどイラストを誉められたことがうれしかったのか、ノートのイラストを見せながら嬉しそうに語る。
「イ、イラストは描くのを好きだけど、最近はまだリハビリ中だし、しばらく描いてなかったし……。それにイラスト部に入ったら、あっちの方がおろそかに……」
「そんながっつりした部じゃなかったと思うけどね、うちのイラスト部。桐也から聞いたことあるけど、イラスト描きながら漫画やアニメの話をする楽しい部活って聞いてるよ。まだまだ人と関わる機会が少ない紗倉さんには、ちょうどいいと思うよ」
「ひ、人をコミュ障みたいに言わないでっ」
そんなストレートな言い方はしてないんだけど、自分から言い始めるあたり十分すぎるほど自覚ありである。
「でもでも」
紗倉さんはばたばたと自分の席に戻ると、自分の鞄からA5サイズの手帳を引っ張り出した。
「まだまだ私、これくらいしか絵が描けないんだけど! 大丈夫かな! お試しに行ってもいじめられないかな!」
A5サイズの手帳は、いつだったか紗倉さんが言っていた昔から使っていると言っていたものだ。ずいぶん年季の入った赤い装丁の革製の手帳。その一ページにシャーペンを使って描かれたと思われるイラストが描かれている。
しかもなぜか。
「いやうまいでしょ。けどなんで僕のキャラ描いてるんだよ」
手帳に描かれているイラストは、シャーペンだけで書かれたモノクロのものだったが、一目で雨宿ソーダだとわかるものだった。
傘を差した黒髪ロングの美少女が、振り返りながら笑っている、そんなイラスト。
いやこれの中身が僕っていうことにいまだ疑問だよねほんと。
「こ、これはちょっと考え事しながら描いてて、手元に描けるものがこれくらいしかなかったから」
「まあでも、イラスト自体は本当にいいと思うよ。これを使ってるやつが男じゃなければもっといいね」
「ええー。これは雨宮くんだからいいんだよ。このキャラを女の人が使うっていうのは、なんか複雑」
なんでだよ。逆でしょ普通。どうも僕の周りには価値観がねじ曲がっている人が多くて困る。
「イラスト、前よりよくなってるじゃん。練習してるの?」
「んー、まあ少し……って、そういえば雨宮くんはしんがりの内容、そろそろ決めてるんだよね?」
痛いところを突かれ、僕の肩はぴくりと跳ねた。
「まあ、大丈夫。本当に考えてるから。どうにか、どうにかするから」
「それは大丈夫じゃない人の言い方だよ……」
あきれたように黒縁メガネの向こう側で目じりを下げる紗倉さんだったが、僕はなんとも答えることができなかった。
考えていないわけではないのだが、正直どうしたものかと迷っているだけである。大したことではない。人間、追い込まれればどうにかできる生き物なのだ。
プリントをまとめ終え、学級日誌の記入も終わった。
時間も時間だし、そろそろ帰ろうとしたときだ。
「ありがとね。雨宮君」
突然、紗倉さんが言った。
いつもかけている眼鏡を外し、ゆっくりと机に置いた。
机に置いた自らの手帳にそっと指を滑らせながら、紗倉さんは嬉しそうに笑みを浮かべた。
レンズを通さない琥珀色の澄んだ瞳が、まっすぐこちらに向けられる。
「雨宮君が私とコラボしてくれて、ようやく、もうちょっとで目標としていた登録者数だよ。私一人だったら、絶対に無理だった。このリレー配信も、雨宮君の発案だったし」
「別に、それは雨宿家三か月記念のちょうどいいタイミングだったってだけだよ。夏休み前だし、夏休みの視聴者を増やすにも重要なタイミングかなって」
リレー配信はたしかに僕の発案だ。それもたしかに、紗倉さんのチャンネルにつなげるためのものだ。素直に認めたりはしないが。
リレー配信の順番、最後を紗倉さんにしているのには当然理由がある。リレー配信の前半をモカさんやクーといったもともと見てくれる人が多い人で固め、集めた人たちをそのまま最後の紗倉さん、桜木ココアのチャンネルにつなげる。そういう風に座組を作った。
紗倉さんは漠然と夏休みまでに十万人の登録者と言っていたが、あまり日数はないとはいえ、リレー配信をそれなりにでも終わらせれば、十分目標に届くだろう。
「本当に、僕はたいしたことはしてないんだよ。同じことをやっても、登録者数が伸びない人は伸びないよ。努力が足りない、継続が足りない、運が足りない、思いが足りない。どれだけ努力を続けても、結果が出ない人は大勢いる。そんな中で結果を出せている紗倉さんは、紗倉さんがそれだけのなにかを持っていた。ただそれだけだよ」
「それでも」
紗倉さんにしては珍しく、本当に嬉しそうに、くすぐったそうに笑った。
「本当に、ありがとう」
そんな風に言われてしまえば、さすがの僕も照れてしまう。体が熱を帯び、紗倉さんの方を向いていられず、窓の外に視線を逃がした。
ふと、窓にぽつりと雫がついた。
「あ、雨が降ってきたよ。そろそろ帰らないと」
タイミングよく話題をそらすことができ、僕は机の上を手早く片付けていく。
「紗倉さんは学級日誌持ってきて。僕はプリントを持っていくから」
「うん、すぐ行くっ」
紗倉さんは外していた眼鏡をかけ、急いで身の回りの荷物をまとめていく。




