ここ母にしてなぜこの娘。
「いやいや、家に帰ってきたらね。知らない靴があるじゃない? あれれって思ったんだけど、心愛の部屋に聞き耳を立てたら、なんと心愛じゃない声がするじゃない? とっても楽しそうに話してたから、ついつい入れなくなっちゃって」
「部屋に聞き耳立てないでって、いつも口を酸っぱくして言ってるよね!?」
紗倉さんは顔を真っ赤にして怒り心頭とばかりに声を上げていた。高校ではぼそぼそとしか話さない紗倉さんだが、家でお母さんに話すときは年頃に感情をむき出しにするようだ。
紗倉さんは親フラしてきたお母さんを無理矢理部屋の外に追いやり、僕もそれに伴って帰ろうと部屋を出た。
しかし紗倉さんのお母さんからリビングに連行され、三人でそろって席に着き、今現在お茶をいただいているところだ。
氷が入ったお茶のグラスに指を当てて、緊張で火照る体の熱を冷ます。
「聞き耳なんてそんなそんな。ちょこっと、ほんのちょこっと聞いてただけよぉー」
「顔に扉のあとが付いている! 顔に扉のあとが付くくらい前からいたんでしょ!? もう信じられない!」
珍しく、というより初めて紗倉さんが憤慨しているところに、僕は新鮮な気持ちになる。
紗倉母はあらっと笑って自分の頬をむにむにと触ってあとを消そうとしている。たしかに僕も思っていたが、顔に溝にでも押し続いていたような赤筋が入っているのだ。どうやら扉の溝らしい。
「配信してるときなら聞かないようにしているけど、今は配信をしてなかったでしょ? 友だちが遊びにくるなんて聞いてなかったんだもの。部屋から声が聞こえてきたらびっくりして聞き耳立てるくらい許してほしいな」
まあ確かに普段家に人を呼んだりしない娘が誰かを招いていたら、それは驚くであろうが。ただ聞くところによると、小一時間ほど聞き耳を立てていたというのだが、このお母さん、なかなかに強者である。
「は、はじめまして。僕は」
「雨宿ソーダくん、よね?」
リアルで直接VTuber名を告げられ、僕の心臓はどくんとはねる。
「声聞いてすぐにわかっちゃった。本当に綺麗な声をしてるのね。アバターがあんなにかわいらしい女の子だから、配信聞いてるだけなら本当は女の子なのかもって思ってたけど、本当に男の子だったのね」
「ええ、まあ一応男でやらせてもらっています。雨宮颯太って言います。よろしくお願いします」
「颯太くんね。改めてよろしくね。心愛の母の、彩菜です」
彩菜さんは本当に驚くほど美人な方で、スタイルもよく、少し色素の薄い髪は紗倉さんとうり二つ。どうやら母親譲りの髪色らしい。容姿もよく似ているので、陰キャムーブをしていなければ紗倉さんも相応に人目を引くのだろうと思う。ころころと楽しそうに笑う人で、娘が友達を招いていたことが嬉しくて仕方がないご様子だ。
「あの、それで僕は、そろそろ帰らせていただこうと思ってまして……」
さすがにこの空気は気まずすぎる。ソーダの炭酸は沸騰してただの甘ったるい水になってしまうレベル。紗倉さんのパソコンでトラブったときのことも考えて、このあと配信する予定はない。ただ、いくらなんでもこの状況にさらされるのは、心臓に優しくない。
しかし、彩菜さんはそれを許さない。ささっと僕の背後に回ると、しゅばっと肩を押さえて浮かしたばかりの腰が再度椅子に押しつけられる。
「だからご飯食べていけばいいから。それとも帰ったらご飯がある?」
「いえ、ちょっと両親は出張中で、一人暮らしなので自炊ですけど……」
「まあえらい。でももうこんな時間だから、せっかくだから一緒にどうぞ。今日は旦那も帰ってこないから、いつもみたいに三人分作っちゃうから」
断っても聞いてくれる様子ではなく、彩菜さんはささっとカウンターキッチンに引っ込んでしまう。
「ご、ごめんなさい……、うちのお母さん強引で……」
「ああ、うん、大丈夫だよ。まあ、せっかくだからごちそうになっていこうかな」
申し訳なさそうに縮こまる紗倉さんに僕は苦笑し、観念して紗倉家で夕飯のご相伴にあずかることになった。
彩菜さんは料理が得意なようで、あっという間に三人分の夕食を作って食卓に並べてしまった。
献立はこんがりと焼き上げられた牛肉の甘辛焼きに、こんもりと盛り付けられた新鮮野菜と卵のサラダ。暖かいオニオンスープに、デザートには僕が買ってきたバームクーヘンが添えられている。
食べて食べてと急かされるまま、いただきますと手を合わせてご夕食をいただく。
「どう? どう? おいしい?」
「とってもおいしいです」
正直ほとんど味はわからないが、たぶんきっとメイビーおいしい。
「……お母さん、雨宮くんが困ってるからじっとして黙ってて」
「あらひどい。お母さん泣いちゃいそう」
まったく泣きそうな様子もなく、めそめそする演技をする紗倉母。紗倉さんも口はむにゃむにゃして取れてしまいそうである。
僕は少しいたたまれなくなって、質問することにした。
「彩菜さんは、どんなお仕事をされているんですか?」
「まあ彩菜さんなんて他人行儀な、お義母さんって呼んでくれていいのよ」
ぶふっと、紗倉さんがサラダを吹き出した。
そしてむせ返しながら、母親の肩をばんばんと叩く。
僕は僕で反応できずに水を一口飲み、火照っていた体の熱を冷ます。
「私はファッションデザイナーをしてるの。家でできる仕事もあるから、家事をやりながらね。今日は商談だったから、朝から出ていたんだけどね」
彩菜さんは紗倉さんの頬をつつきながら笑う。
「この子、せっかくかわいいんだからいろんな服着て外出してもらいたんだけどね。今は家に引きこもる配信業にはまってるから、そこはもったいなくてお母さんうずうずしちゃうな」
「お、お母さんが作る服は綺麗でかわいいと思うけど、私には似合わないよ。外に出るのは恥ずかしいし、私は部屋で配信してる方がいいよ」
「まったく、そんな室内ばかりに閉じこもってばかりだと、体悪くするわよ」
「私、配信始めてから風邪とか引いたことないもん」
「……世の中間違ってるわ」
絶賛不健康な生活をしているはずの娘から健康実績をたたきつけられ、嘆息を吐き出す彩菜さん。
見ていて本当に微笑ましい親子だ。配信者と配信者の親の関係性を間近で見る機会なんてそうないので、漫才を見てるみたいで面白い。
「この子学校では普通にやれてる? 配信だとあんなに話せるのに、人目があるとがちがちの人見知りになっちゃうのよねー。今でも、誰かの意識が向いてなければ普通に振る舞えるのにね。なんでだろ」
「……今でも? 昔は人前でも普通に話していたんですか?」
そういえば配信中は自分にスマホやカメラを向けてモーションキャプチャをする。配信は問題ないが人前は緊張するというのは生来のものかと思っていたが、昔なにかあったのだろうか。
「ちょ、ちょっとお母さん!」
紗倉さんは途端に肩をぎくりとさせ、母親に向かってしーっと指を立てる。あまりに必死な形相に、彩菜さんは目をぱちぱちとさせている。
やがて、ああ、と納得するように目を伏せた。
「まあ、詳しくは言わないけど、私の血がおかしく遺伝しちゃったのねきっと。私、昔舞台女優をやってたのよ。私もお客さんから見られるのはよかったけど、舞台挨拶とかは大の苦手で。それなりに有名だったんだけど、知らないかしら」
「……すいません、現実世界には疎くて」
「……ここにもネット世界の重しょ……超越者が。時代ね」
今、重傷者って言いそうになりましたね。超越者なんてかっこいい言葉でも僕はごまかされませんよ。超越者というのは、ある意味その通りだけど。次元という壁を超越した哀しき生き物である。
「まあでもよかったね心愛」
「え、え? なにが? お母さん、これ以上変なこと言わないでよ?」
なにかテンパりわたわたし始める紗倉さん。
彩菜さんは端正な顔ににんまりと笑みを浮かべ、ちらりと僕に視線をよこした。
「念願の夢が叶ってよかったじゃない。憧れの人とコラボができて」
「……へ?」
「ちょ――」
紗倉さんは彩菜さんに飛びかかろうとするが、その前に、彩菜さんは言いたいことは全部言ってしまう。
「VTuberは、雨宿ソーダくんをきっかけになったんだもんね」
「え……? 僕……?」
正直僕は率直に、彩菜さんはなにを勘違いして、と思った。
そういえばたしかに、紗倉さんはどうして配信者を始めようと思ったのか聞いていない。僕の場合は太陽カルアさんという明確なきっかけが存在する。
そして勝手に、紗倉さんもカルアさんに影響を受けて、VTuberを始めたのだと思っていた。部屋には、はばかりもせずカルアさんのポスターが貼ってあったし、筋金入りのカルアさんファンであることは明白。
僕のことは、カルアさんと同じママを持つ活動者として知ってはいるだろうが、僕に影響されてVTuberを始めたとは正直思えなかった。
「いやー、またまたー……」
言いながら、僕はおそらく誤解であるところを解消しようと、紗倉さんに目を向ける。
しかし、紗倉さんは僕とぱちっと目が合うと、恐ろしい早さで目をそらしてしまった。
下ろした亜麻色の髪からのぞく耳は、傍目から見て明らかなほど朱を差していた。
「え……マジで……?」
紗倉さんは肩をぷるぷると震わせ始め、椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がった。
「そうですよそうだよ! ソーダくんを見てVTuberやりたいなって思ったの悪いか!」
こちらに身を乗り出しながら、紗倉さんはいつもの敬語も剥がれて叫ぶ。
「お、おう……」
あまりの剣幕に、僕はどもりながらのけぞってしまう。
言ってしまったあとで、はっとした様子でさらに顔に赤が帯びていく。
「……っ、わ、私お手洗いに行ってきます!」
蹴り飛ばした椅子を元の位置に戻し、ばたばたとリビングを飛び出していった。
しかし、すぐに戻ってきて顔だけのぞかせ、
「お母さんのバカたれ!」
自らの秘密を暴露した母親に悪態を一つ吐き、そのままばたばたと廊下の奥へと消えていった。
「うふふ、照れちゃって。かわいいよね?」
「あははは、ま、まあ……」
同意を求めてくる彩菜さんに、僕は曖昧な返事しかできなかった。
さっと口元を手で押さえる。きっと僕の顔も、紗倉さんと同じくらい赤くなっている。かっかと火のように熱を発する体がそれを教えてくれる。
しかし、対して彩菜さんは、紗倉さんが姿を消すと、すっと表情に影を落とした。
思い詰めたような様子で唇を結び、やがて押さえていたものを吐き出すように口を開いた。
「あの子、頑張ってるでしょ?」
「え、ええ、高校に行きながらこれだけ配信をやれる人間なんてそうそういないです。高校では目立たないですけど、成績良いみたいですしね」
まあ僕も同種の変人であることはあえて口には出しはないが、僕なんかよりもよっぽど優れた配信者だ。
「私たちも、あの子にはなるべく好きなことをやってもらいたいとは思ってる。でもあの子がネットの、たくさんの人に見られる形で活動していくことに、どうしても不安があって」
配信者は人の目に触れる。意識を向けられる。文字で記される。言葉で発せられる。
VTuberというものに限らず、聴衆からの人気や好意を中心になり立っている活動者は、一般の人とは比べものにならないほど、他人と接する機会が多い。
僕はさして気にしないし、まだそういう機会もないが、僕も知っている。
もし、それが起こってしまったら、どれだけのことが起きてしまうのかを。
「だから、私たちはあの子に……」
なにかを言いかけるが、彩菜さんはその先を続けることをしなかった。
僕が首をかしげていると、彩葉さんははっと口元を抑える。そしてころりと表情を変え、にっこりと笑った。
「あらら、私ったらだめね。せっかく心愛がお友達を連れてきてくれたのに、こんな話をしてちゃ」
先ほどまでのやるせなさをにじませた表情はどこに行ったのかと思うほど、鮮やかな切り替わり。
かつて、舞台女優をしていたという彩菜さん。それを聞き、今の表情の変化を見たあとでは、今見ている彩菜さんの表情が本当なのか、はたまた演技なのかわからなくなってしまう。
「あの子、ゲームの大会に出るのよね? せっかく誘ってもらった大会だから、できたらたくさん勝ちたいからって、夜遅くまでゲームの練習してるのよ。人が多い時間はゲームが重くてできないからって。配信以外でもがんばっているみたいなの」
「……やっぱりそうですか。きちんと上手になってきているので、裏でも結構やってるんだなと思ってました」
配信上でも最近人気が出ている歌枠や相談配信を減らして、SSをやる時間をかなり増やしている。僕やクーがコラボできないときでも、一人で頑張っていることは知っている。
紗倉さんはVTuberをやるために、どんなことにも一生懸命になれることを、僕はもう知っている。
「でも、颯太くんもあんまり夜更かしはしちゃダメよ。心愛が通学に使っている駅も最近物騒でね。中学生や高校生に声をかけてくる悪い大人がいるの。おまわりさんも巡回しているし、防犯カメラだってたくさん増えたのよ」
「それなら安心してください。僕たちの夜更かしは自宅がホームグラウンドです。家からは基本的に出ません」
「……そうだったわね。私、最近の若い子についていけていないわ」
僕たちを最近の若者にまとめられるのかは些か謎である。
しばらくして、先ほどの赤面した顔をきちんとリフレッシュした紗倉さんが帰ってきた。
「お母さん、また雨宮くんに余計なこと言ってないよね?」
実の母親を全く信用していないうろんな目で、じろじろとにらみ付ける。
「してないわよ。心愛が配信頑張ってるって話をしてただけ」
「本当にぃー?」
彩菜さんの顔をのぞき込みながらさらに疑いをかける紗倉さん。
その様子に、僕は笑ってしまった。
「大丈夫だよ紗倉さん。本当になにも言われてないから。あ、そうだ紗倉さん、一つお願いがあるんだけど」
「え? なんですか?」
首をかしげる紗倉さんに、僕は笑って告げる。
「僕に敬語、やめていいよ。FPSで連携をするとき、連携を少しでも短くするために敬語はやめた方がいいからね。だから、やめていいよ」
「え、ええ、でも……」
「大会、勝ちたいんでしょ?」
かぶせるように言うと、あ、と口を開き、彩菜さんをにらみ付けた。彩菜さんはお茶の入ったグラスに口をつけながらそっぽを向いた。
「で、でも、そういうわけには」
「いや、本当に気にしなくていいから。だいたい同級生なんだから」
「う、ううう……」
なにやらよくわからないが葛藤があるようで、紗倉さんはもじもじとしながら体を縮めていく。
しかしやがて、恥ずかしそうに顔を上げた。
「わ、わかった。それじゃあ、よろしく……雨宮くん」
「うん、こちらこそ、改めてよろしくね」
僕たちの面はゆいやりとりに、彩菜さんは途端にお腹を抱えて笑い始めた。
紗倉さんはぽかぽかと彩菜さんを叩き、そして、紗倉さんお宅での時間は過ぎていった。
帰り際、お風呂入って泊まっていったらと、彩葉さんは冗談か本気かわからない提案をしてきた。当然丁重にお断りをさせていただく。
いやー、ついさっき悪い大人がいるとか聞いたばかりだから早く帰らないとなんで、みたいな言葉と夕食のお礼を悪い大人に残し、僕は紗倉さん宅を後にした。
すっかり暗くなった夜空の下、駅までの道を一人歩いていく。一駅なので歩いても徒歩でも帰ることはできるが、工具類が重いので電車で帰る。
季節はすっかり夏で、夜になっても気温は高く、生暖かい風が腕を撫でていった。
紗倉さんと話すようになってから、コラボをするようになってから、まだ三ヶ月もたっていない。
にもかかわらず、何度もコラボをして、VTuberについて語り合い、お宅に訪問した。
お互いまだまだ知らないことが多いが、それでもいくつかはわかることがある。
紗倉さんはVTuberが大好きで、いい子で、一生懸命で、歌も歌えれば絵も描ける、これからまだまだ人気になる子だと思う。
目標の登録者数十万人。それがただの通過点になる日がすぐ近くまで来ている。
僕なんてきっと、あれよあれよという間に追い抜いていくだろう。
光栄なことに、紗倉心愛さんは、僕をきっかけにVTuberになったらしい。
そんな子が、不得意だというゲームの練習を頑張っている。
彼女は心底、VTuberが好きなのだ。
流され続けている僕とは、雲泥の違いだ。
僕は歩みを止め、町明かりにも負けず空で輝く一つの星を見上げた。
「そこまで好きなことがあるって、うらやましいな……」
わずかの逡巡のあと、深々と吐息を吐き出す。
「僕も、やってみるかなぁ……」
そして一人そう呟き、僕は足早に駅へと向かった。




