ご同業ちゃんはご機嫌斜め。
僕が見守り配信を行った翌週。
僕たちのクラスは重々しい空気に包まれていた。
「なんか今日、紗倉さん機嫌悪くなかった?」
「い、いつもはいても気づかないくらいなのにね。ご機嫌斜めって感じ。どうしちゃったんだろう……」
僕の近くに座っているクラスメイト女子二人が、声を殺してそんなことを囁きあいながら教室を出て行く。
一日の授業が終わり放課後、僕は触っていたスマホから顔を上げて教室の反対側にある紗倉さんの席を見やる。
窓際にある後方の席では、紗倉さんが机に頬杖をついてぶすーと口を膨らませていた。普段からあまり表情を外に出さない紗倉さんの様子は非常に珍しく、クラスメイトたちは何事かとそわそわしていたほどだ。
今日一日、教室には重苦しい沈黙が漂っていた。紗倉さんが発する不機嫌オーラは彼女だけでなく周囲の空間までもが荒れ模様になっているような気がした。
クラスメイトたちはなにかの前兆かとおびえているようだったが、普段から人畜無害の基本無干渉な紗倉さんなので、どちらかと言えば不気味に思われることが多かったようだが。
「紗倉さんごめん!」
そんな教室の空気にも気が付かず、紗倉さんの隣の席の女子生徒が紗倉さんに話しかけていた。たしか名前は氷川さん。
「ちょっとお願いがあるんだけど!」
「え……な、なんですか? 氷川さん」
呆気にとられていた紗倉さんが、少し不機嫌オーラを隠して首をかしげる。
氷川さんはぱちんと両手を合わせて頭を下げる。
「私、先週風邪で休んじゃって、選択授業のノートが取れてないの! 紗倉さん同じ授業とってるから、もし迷惑じゃなければ今度ノート見せてほしいの!」
「ああ、あの授業の……あ、今ノート持ってるので、もしよければ、持っていってください」
少しおどおどとした様子ではあったが、そっとノートを差し出す紗倉さん。
「え、いいの? ありがと! 今度お礼するね!」
「お、お礼なんていいですよ。また、そうですね、次の授業までに返していただければ」
「じゃあ明日の朝一で返すから! 本当に助かるありがとう!」
氷川さんは男女分け隔てなく話す天真爛漫な女の子だ。相手が陰気な紗倉さんでも対応が変わらない数少ない人物である。
氷川さんは自分の席に座り直しながら、かわいらしく首をかしげた。
「それと紗倉さん、今日は調子が悪かったりする? いつもと雰囲気が違うから気になってて」
気が付いていないわけではなく紗倉さんの体調が悪いかと心配していたらしい。氷川さん、なんていい子。
突然の問いに、紗倉さんは目をぱちくりとさせていた。
だが、やがて小さく笑みを落とすとぷるぷると首を振る。
「いえいえ、体調は大丈夫です。昨日はぐっすり眠りましたし。ただ、人の眠気につけ込んだ悪い人がいまして」
再び一瞬、空気が悪くなるが、すぐに落ち着いていく。
「元気なので、気にしないで、ください」
え、元気らしいじゃん。体調悪いかと心配しちゃった。だったら僕も気にしなくていいのかな。うん、いいよね。
僕は知り合い周りのSNSを眺めていたのだが、ラインに切り替えて紗倉さんにメッセージを送る。
十分後に実習棟の屋上でと伝える。
実習棟は理科実験室や家庭科室などがある棟で、主要五教科以外の実習授業に使われている場所である。教室は部活の部室にもなっているのだが、それでも放課後は人気も少なく秘密の会合をするには都合がいい。
紗倉さんがメッセージの通知に気づいてスマホを取り出すことを確認すると、僕は鞄をつかんで席を立った。
ゴールデンウィークも少し前に過ぎ去り、もうじき六月。衣替えまでもう少しというこの時期は、ブレザーを脱ぎたくても脱げずに連日暑い日が続いている。まっすぐ目的地に向かって一足先に実習棟の屋上についた僕は、上着を脱いでベンチに、ていっと投げた。
実習棟の屋上はぐるりとフェンスが張り巡らされており、ベンチなども備え付けられて休憩できるスペースになっている。まだエアコンを使わせてくれない教室からすれば、屋上は風が吹き抜けていて涼しく心地よい。
できるだけ高校でも人目は避けるようにしている。
僕は桐也のせいでVTuber好きであることは認知されている。
女性モデルを使ってはいるが、声はボイスチェンジャーも使用していない肉声だ。
紗倉さんも同様に自前の声。
お互いにそこそこ特徴的な声をしている自覚はあるので、下手に目立って疑問を持たれても厄介だ。
なにより僕には、声に関して前科がある。気をつけておくに超したことはない。
世間一般からすると、四月より少し増えて僕の三十二万人、そして紗倉さんの五万人というチャンネル登録者数は爆弾なのだ。それだけ、人から興味を持たれているという証拠でもある。
しばらくスマホを眺めながら待っていると、ピコンと画面に通知が現れた。相手は頻繁に連絡してくる例のやつ。
ちょっと顔貸してくれという用件だったのだが、今は紗倉さんを待っているところ。とりあえず後回しにする。返信も面倒なのであとで。
しばらく屋上からぼんやり空を眺めていると、階段から屋上へと続くから紗倉さんが上がってきた。
「今日はやけに不機嫌だね、紗倉さん」
口元を固く結んだ紗倉さんは、きょろきょろと周りを見渡し、誰もいないことを確認すると、こちらに向かって歩いてきた。心なしか屋上を踏みしめる足が力強い。
そして、ぶすっと僕のおなかに手を突き刺してきた。
「こ、これがご機嫌でいられるわけないじゃないですか。なんで人生初のトレンド一位が、ゆっくり寝てろココアになっちゃうんですか。このバカたれ兄貴……っ」
恥ずかしそうに頬を染めながら、その場にうずくまって羞恥に耐えている紗倉さん。
「大丈夫大丈夫。その恥ずかしさの代償に見合った効果は出てるって。ほら」
僕はスマホに桜木ココアのチャンネルを表示して、うずくまる中の人に向ける。
チャンネル登録者数は土日の間に五千人ほど増えており、六万人に近いところまできている。僕に声をかけてきた春先には三万人程度だった登録者数が、すでに倍にまで増えている。
モカさんのコラボに続き、土日のうっかりミスも続いて飛躍的に登録者数も増加中だ。
「そ、その事実があってもすぐには受け入れられないんですっ。私、他のことでも寝坊なんて一度もしたことないのにぃ……」
これは本気で悔しそうで恥ずかしそうだ。根暗ではあるが生真面目な性格の紗倉さんは授業態度も優等生そのもので、問題行為なんて一度も見たことがない。
日常的にVTuberなんて体力消費が激しい活動をしていながら、遅刻も居眠りもしない体力には驚くばかりである。
「こ、今度雨宮君が寝坊したら、私も絶対に見守り配信しますからね……っ」
「まあ昨日の夜にだいぶモカさんにしぼられたから許して。結構長いこと突き合わせられたんだから」
二回行動で昼の見守り配信後に夜にゲーム配信を行っていた。
その直後モカさんから連絡。女の子の寝坊をそんな風に扱ってはいけませんと小一時間説教を受けていた。そもそもの寝坊はあなたのおしゃべりに延々と付き合っていたからです、とは言わなかった。
しかしまあ実際モカさんの用件は、仕事で少し失敗してヘラっているから話聞いてとのことだった。紗倉さんが付き合わされたのも同じ話で、まだ引きずっていたらしい。結局夜中の二時まで大手VTuberのメンタルケアをしていた、今日この頃です。
「ぐ、ぐぬぬ……。私も、初配信同時配信してやりたいです……っ」
「僕の初配信なんて、別に面白くもなんともないけどね」
ずいぶん前のことなのでうろ覚えだが、面白みもない配信だ。
同じイラストレーターが描いている太陽カルアさん。熱狂的な人気を博していた彼女が卒業してから現れた高校生VTuber。しかも雨宿マキアの弟でバ美肉という属性マシマシの新参者に、すごい人数が押し寄せてきた。適当に僕のことを話しながらコメントをさばいていたら配信が終わってしまった。ぐだぐだ以外のなにものでもない。
「登録者数は増えたから結果オーライってことで。モカさんとのコラボもしながら、このままの勢いで十万人突破を目指そう」
「が、頑張ります……」
悔しそうに歯がみしながらも、しぶしぶ紗倉さんはうなずいた。
しばらく雑念を振り払うように頭をぶんぶんと振った紗倉さんは、肩にかけていた鞄から革製の手帳を取り出した。
「ついでに、今週の予定聞いてもいいですか?」
「うん、いいよ。というか、いつも思うけど、手帳で予定ってやりにくくない?」
僕はスマホで予定表を開きながら、手帳にシャーペンを構えている紗倉さんを見やる。
「私は完全に手帳派ですね。予定はいろいろ目もしながら書き込めるので」
言って、紗倉さんはこちらに開いている手帳のページを向けてきた。
リングに予定表が印刷されたリフィルを閉じている手帳で、開くと左右で一週間の予定が見られるようになっているようだ。
予定表には課題の提出日や小テストの予定なども記載されており、それに混じってVTuberとしての予定もまとめて記載されているようだ。二十時から雑談、十九時からゲームなど、配信予定も記載されている。
要所にメモがあり、一週間の予定が前後も含めてわかりやすくまとめられている。
「たしかに、これはこれでわかりやすいかも……というか……」
納得しかけたのだが、ふと違和感。
「なんか、社会人みたいな予定表だ。今からこれじゃ、将来社畜になるかもね」
「え、そんなおじさんっぽいですかね……」
「社畜イメージおじさんなのか君。いろんな人を敵に回すぞ」
忙しい社会人は今もそうだが今後の予定にも追いかけられる日々だと聞く。僕も将来は社畜になっているかもしれない身だ。想像するだけでぞっとしない話ではある。
「この手帳はもともと、前にお母さんが予定はこれでつけるようにしなさいって渡されたものなんです。お母さんも手帳派なんですよね。だから長い間使っているので、結構思い入れもあるんです」
「ほほー、まだ学生なのに手帳使いこなすとかすごいね。それで僕の予定だったよね。今週はだいたい空いているよ。中間テストが近いからね。配信は続けるけど、勉強配信が中心になるね。テスト期間の恒例行事」
「あー、もうそんな時期ですか。ありましたね、中間考査」
自分の手帳をぺらりとめくり、近々あるテストの予定を確認している。
「私、あんまりテスト勉強ってしないんですよね」
「うわ、今度は全高校生を敵に回すつもりだ」
「だ、だって常日頃から勉強していれば、うちの高校くらいなら……」
さらに追撃をかける紗倉さんに、僕はずどんとダメージを受ける。
本当に紗倉さんは、テスト期間になったからと言って勉強量を変えることはしないそうだ。そんな暇があるなら配信をするという筋金入りの配信者である。
ただ普段から日常の授業や課題をきちんとこなしており、それだけで十分上位に食い込んでいるらしい。
僕なんて配信を勉強配信という名目でがちがちに勉強して、ようやく中の上くらいをキープできるレベルだというのに。世の中不公平だ。
ずーんと暗くなる僕に、紗倉さんは慌てたようにぱたぱたと手を振った。
「せ、せっかくだから私も勉強配信付き合いますよ。気晴らしのゲーム配信なんかもしちゃいましょう」
「じゃあまあそれで。詳しい予定はまた近い日になってから――」
僕の言葉を遮るように、ガチャリと屋上の扉が開いた。
扉から金髪の頭がのぞき、きょろきょろとあたりを見渡している。
そして屋上の隅っこで話し合っているこちらに気づき、そいつはおっと声をあげた。
「あー、いたいた。こんなところでなにやってんだよ。返事しろよなー」
現れたのは僕の悪友、志摩桐也。
桐也を見た途端、僕の皮膚が一気に粟立った。
やばいやつが、来た。
紗倉さんはびっくりして手帳をばたりと閉じ、見られないように胸に抱えていた。
手帳を見られると配信者であることがばれる可能性があるからだろう。
しかし、今現在、手帳よりもはるかに危険度が高いものがある。
紗倉さんの肩を掴み、桐也から見えないように屋上の外へと顔を逃がす。
「紗倉さん、悪いんだけど、今から絶対に一言も話さないで」
「え、ええ? それはどういう」
「いいから絶対に口を開かないで。僕があいつ引き留めとくから、すぐに帰って。あとでまた連絡するから」
矢継ぎ早にぼそぼそと告げるだけ告げていると、首をかしげながら桐也が近づいてきた。
「おい颯太―? お前こんなところに女の子連れ込んでなにしてんの?」
「人聞きの悪い言い方するな。ちょっとクラスの用事があったから、話してただけ」
桐也はからかったりしているわけではなく、ただただ怪訝な表情をして首をかしげる。
「教室反対側じゃん。なんでわざわざここまで連れ込むんだよ。告白してたわけじゃあるまいし」
ストレートにデリカシーもないことを言ってくるが、桐也は僕がそういうことをするタイプでないとわかっているだけに、状況が飲み込めないようだ。
側までやってきた桐也は、僕の隣にいる人を見やって眉をひそめた。
「あ、紗倉さんじゃん。クラスメイトだから本当にクラスの用事? そういえばだいぶ前に颯太、紗倉さんのことを聞いてきたけど……え、まさか二人そういう関係なの? マジで?」
一人でいろんなことに頭を巡らせ、これは面白いとばかりに顔を輝かせていく桐也。
「違うってば。ああ、ごめん紗倉さん、この馬鹿は気にしなくていいから、もう帰っていいよ」
というか今すぐにでも帰ってほしい。
紗倉さんは僕と桐也の顔を交互にきょろきょろと見たあと、そろりそろりと距離を取った。
「わ、わかりました。では失礼します――」
か細い声。普通ならなにを話したかも聞き取れないほど小さく薄い声音だった。
しかし、桐也の表情から、すっと感情が消え去った。
やばい。そう思ってももう遅い。
「紗倉さん、うん、もういいから早くもご」
僕が言葉を言い切る前に、桐也が僕の口を掴んでその先を言わせない。
紗倉さんは目を点にしていた。
僕が手をはずそうとじたばたしている間に、桐也は帰ろうとしていた紗倉さんに顔を寄せる。
「ねぇねぇ、紗倉さんはここで颯太となにしてたの? 実は颯太と結構仲よかったりする? もしかして、本当に付き合ってるとか?」
重ねられる質問。桐也の質問そのものに、実は意味がない。
今、こいつがやろうとしていることは……。
質問を向けられた紗倉さんは目をぱちくりとさせて静寂。
そして質問の内容を頭でかみ砕いたあと、顔を真っ赤にして手をぱたぱたと振った。
「い、いえいえ! 私と雨宮君はそんな関係では! ちょちょっと、クラスの用事のことで雨宮君に相談をしていただけで……っ」
取りつくろうようにした説明のわりに、紗倉さんの口にした理由は当たり障りがなくよいものだったと思う。
ただ問題なのは、質問に答えてしまったこと。声を、聞かせてしまったこと。
桐也が笑みを浮かべる。
おわったぁ。
僕がげんなりとうなだれると同時に、桐也は僕を掴んでいた手を離す。
そして、紗倉さんに一歩近づいた。
「お会いできて光栄です。俺はユーチューブで切り抜きをやっているキリシマって言います」
突然の自己紹介に、紗倉さんは口をぽかんと開ける。
しかし、その口がさらに驚くことを告げる。
「いつも切り抜きさせてもらって、ありがとうございます。桜木ココアさん」




