めでたしの後に。
おばさんという桃源郷に憧れて今はゴール後の「末永く幸せに暮らしました」の部分を生きてると思っている。
そして私は年々自由を手に入れ、私の母は年々穏やかになる。
若い強烈なエネルギーは私には毒だった。
自他ともに認めるおばさんになった私は、鏡の前に立って、自分の顔をじっと見つめる。
頬にはたくさんの薄いそばかすが浮かび、目尻には笑い皺が寄る。
かつては化粧で隠そうとしたその痕跡も、今は愛おしい。人生という旅の地図に刻まれた道標のようだ。
なかなか渋いオトナになってきた。
どの線も、私が誰かを抱きしめた日、夜通し語り合った夜、静かに涙した朝の記憶を宿している。
若い頃、私はシンデレラのような愛の物語に憧れた。
白馬の王子様、波乱万丈なストーリー、完璧なハッピーエンド。
物語はいつも舞踏会の夜で終わる。
その先の人生を、誰も教えてくれなかった。
でも、そこにたどり着けば死んですら良いと思える幸福があるのだと信じて疑わなかった。
二十代の私は、恋愛、仕事、自己実現という名の果てしない競争に身を投じていた。
社会が求める、皆に語れるストーリーになり得る「輝く女性」でいなければと、息を切らして走り続けた。
あの頃の私は、ガラスの靴を履いたまま、割れるのを恐れて踊れないシンデレラだった。
母もまた、若かった。
10代で私を産み、女手一つで私を育て上げた。
彼女の愛は激しく、言葉は鋭く、期待は重かった。
「もっと賢くあろうとしなさい」「手に職をつけなさい」「私が何時までもいる訳では無いのよ」
そう母の愛が金切り声とともに尻を叩いてくれた。
私はその嵐に翻弄され、母の望む娘になろうともがいた。
だが、年を重ねるごとに、母は変わった。
再婚をし、孫ができ、母はもう家の家事にも追われていない。
少しだけ汚れた家で穏やかに過ごしている。
「あんまりいい母親じゃなくてゴメンね」と、彼女は言う。その言葉に、私は初めて母の弱さを知った。
今、私はシンデレラの「その後」を生きている。
ガラスの靴はとうに脱ぎ捨て、裸足で歩く心地よさを知った。
結婚や出世、誰かの承認。
そんなものに縛られず、自分のペースで生きること。
それが、私の桃源郷だ。
朝子供を幼稚園に送った後、コーヒーを淹れ、一息つく。
予定のない週末に、好きな本を読み、昼寝をする。
かつては「何もしていない」と焦ったそんな時間が、今は宝物だ。
先日、十年来の友人とカフェで話した。
友は言った。
「若い子たちのキラキラした目を見ると、眩しいけど、戻りたいとは思わないよね」
私は頷いた。
若さは美しい。
だが、あの頃の私は自由を知らなかった。
失敗を許せず、他人と自分を比べ、いつもどこかで息苦しかった。
今の私は、雨の音を聞きながら歌を歌ったり、近所のカエルに名前をつけて呼んだりする小さな幸せに心が満ちる。
母との時間も変わった。かつては衝突ばかりだった私たちは、毎週テレビ電話で他愛もない話を交わす。
母は昼寝から起きた目をこすりながら言う。
「歳を取るとね、余計なものが全部剥がれて、シンプルに生きられるのよ」
シンプルに、穏やかに、自由に。
これが、私たち親子の「末永く幸せに暮らしました」の一文だ。
先週、友達の子供が遊びに来て、キラキラした目で言った。
「おばちゃん、いつも楽しそう! 秘密があるんでしょ!」
「秘密なんてないよ。自分を好きになるのに、ちょっと時間がかかっただけ」
彼女は首を傾げたが、いつか分かる日が来るだろう。
年を取ることは、失うことではない。
自分を愛する術を、他人を許す心を、人生の不完全さを笑って受け入れる力を手に入れることだ。
私は、若い頃の自分に伝えたい。
「ガラスの靴は重いよ。脱いで、裸足で歩きなさい。そこに、本当の幸せがあるから」
シンデレラの物語は、舞踏会で終わらない。
その先の人生は、もっと静かで、もっと深い喜びに満ちている。