共鳴する波紋
「免許証は押さえてあんだろうな」
「たりめーだろ。本籍は北海道、歳は三十五歳だってよ、俺らより十歳も上だ」
長髪がかざすのは血にまみれた免許証。
「デコスケはもとより、本部にバレたらまずいからな。特にカンザキさんには」
「銀狼会は原則、覚醒剤の売買は禁止だからな」
ごくりと喉をならす若者。自分達が上の方針を無視して、己の商売に徹しているのは理解している。
世の中には規律や戒律があって、それを指針にして成り立っているのも理解している。
もしそれがバレたら、床でのたうち回る男以上の地獄が待っている。
そう思うと寒気が襲う。男の嗚咽が耳障りに感じて、『黙れ』と男を蹴り上げた。
くぐもった声が止んだ。ひくひくと鼻水をすする音が響くのみ。
「カズマさんは、カンザキさんと一緒に、本家に行ってんだろう?」
「ああ、山崎組を傘下に吸収するのに手続きが必要なんだと。この世界はこの世界で建て前や形式が重要だからな」
「それがすめば、銀狼会は益々大きくなるな」
「その全てを、行く行くはカズマさんが仕切るんだから凄いよな」
彼らの中に広がるのは、とてつもなく大きなビジョン。
尊敬する人物を高みに押し上げて、東日本はおろか、日本国そのものを手中に治めようという途方もない夢だ。
もちろん長髪の方も思いは同じだろう。その為だけに地べたを這いずり、泥水を飲んできた。
普通の人間ならそんなこと夢にも思わないだろう。
だが彼らは、その夢を本気で掴もうとしていた。
少なからずあの人と一緒にいれば、叶わない夢ではないと信じていた。
「テツ、リュウジ、駄弁ってばかりじゃなく、そろそろ始めんぞ」
不意に女がいった。薄暗い室内、淡々とパソコンの画面を見いっている。
「マジでヘコむわ。本当なら明日、純情な野郎どもを片っ端から見繕っていたのによ」
パソコンの画面に照らされて、その表情が青白く染まる。
そのタンクトップから見える素肌には、ぽつりぽつりと赤い返り血が染み込んでいた。
『なに見てんだよ』『エロ動画か』回り込んでその画面を見つめる若者達。
『外国の動画じゃねーか』『ドラクエだな』そしてぼそっと呟く。
「馬鹿野郎、全然ちげーよ、これは明日参加する予定だった婚活の場所だよ、福島なんだけどよ」
対する女はムカついた様子だ。
口に煙草をくわえて、パソコンの画面を見いるだけ。
「おめー婚活好きだな。彼氏作るってより、参加することに意義があるタイプ。そんなんじゃ男がかわいそうだろ」
若者が呆れたように言い放った。
「だからあんなに怒り狂ってたのか。そういうことなら、俺が恋人にしてやってもいいんだぜ。未来の銀狼会幹部の俺が」
長髪が女の胸元に腕を伸ばす。
「冗談言ってんじゃねーぞテツ。おめーみてーな軟弱なチンピラに用はねーんだ。もちろんカズマ君なら、完全にOKだけどよ」
すかさずそのみぞおちに拳を叩き込む女。
堪らず後方に仰け反る長髪。
「馬鹿、冗談に決まってんだろ、おめーみてーな暴力好きな男女、誰が抱くものか」
腹をさすり、嘲るように吐き捨てる。
「知ってんだろうけど、あの人はアオイひとすじなんだよ。姿をくらましても、ずっとその影を追い掛けてんだからな」
一方でこの世界を形作るのは人の人生だ。
人は運命で繋がっていて、ほんの僅かな出逢いさえ運命のひとつ。長い付き合いよりも、その一瞬こそが大切な場合もある。
運命とはつまり、水面に投げた石ころも同じだ。
水面を揺らした石ころの余波は、波紋となってゆっくりと辺りに飛散する。
波紋は他の波紋と共鳴して新たなる波紋を生み出す。
それが幾多に紡ぎあい、世界は沢山の波紋で満ち溢れていく。
この世界は広いようで精神的には狭い、つまりはそういうことだ。
遠く離れた空の下での、この何気ない会話。
そのひとつひとつが後に運命の歯車を始動させることなど、もちろんこの時は誰も知らないことだ。
摂氏一万度の恋人たちに続く。
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